7
『起きろ。緊急事態だ』
天界からの、パスカルの通信。しかしその宛先はチエロではない。
「……んぁ?」
早めに夜勤を終えて家で眠っていた天飼は、パスカルの堅い声に起こされた。部屋はまだ真っ暗である。携帯の液晶を見れば、時刻は深夜二時だった。
外からは雨音が聞こえる。そういえば眠る前に、深夜から明け方にかけて雨になるというニュースを見た。
『こんな時間にすまない』
「どうした。話聞くぞ」
『チエロのことなんだが……』
チエロが天飼の家に戻らなくなって、もう一週間は経つ。あの出来事以降、チエロは一切この家に寄り付かなくなっていた。天飼はチエロが不在だからといって特に生活スタイルを変えることもなく、毎晩夜勤へ行き、早朝から夕方にかけて眠る日々だった。
そんな中、パスカルがチエロのことについて話しかけてきたのは初めてのことだった。それも天飼の睡眠を遮ってまでのことである。
「チエロを連れ帰ってほしい?」
『あぁ』
「分かった」
天飼は布団から立ち上がるとすぐに寝巻から着替え始めた。退勤してから三時間も経っていないのに、休憩時間を惜しむことなく準備を始める。
『……相変わらず、疑問なく言うことを聞くよな。不満とかはないのか?』
「無い。あったところで、どうしようもないだろう」
天飼は洗面所で顔を洗う。鏡に映る寝不足の顔の下には、暗い中でも淡く輝く鎖が巻かれていた。
「元はと言えば俺がやった罪だからな。償いはする」
天飼は従順だった。パスカルは先にチエロに語ったように、この調子であればチエロに部屋を貸すことくらい受け入れてくれるだろうと考えていた。
しかし問題はチエロの方である。
天飼はパスカルの指示に従って夜道を行く。町は静謐で、悪魔が潜んでいて人間の命を狙っているとは思えない。
「しかし、あいつは自分から出ていったんであって、俺に何ができる?」
天飼は歩きつつパスカルに問う。懸念ももっともである。チエロは自分から出て行ったのだ。
『多少無理やりでも良い。あれを休ませてほしい』
「休ませる……疲れてるのか?」
『この一週間、毎晩悪魔を狩っていたからな。それに満足に休息も取っていない』
「俺が言って、連れ戻せるだろうか」
『分からん。しかし俺が天界から呼びかけても聞く耳を持たなくなってしまった。少しでも状況を変えることが必要だ。効果があるかは分からないが……何もしないよりはマシだと思う。協力するよな?』
「俺はお前らに逆らわないよ」
天飼は首の鎖を撫でつつ言う。
パスカルも流石に少しは緊張しているようで、そこから先は口を開かなくなってしまった。
天飼が言われた通りに道をしばらく行くと、町はずれの区画に辿り着いた。
深夜であり、雨天。かつ街灯が少ないことも相まって、周囲はかなり暗い。この辺りは車通りも少ないのだ。遠くまで伸びる道路の先は闇夜に溶け消えていた。
そんな道路と歩道を分かつ縁石に、薄赤い光が浮いている。
チエロの天使の輪だった。
チエロは縁石に腰掛け、歩道側を向いて座り込んでいる。
「………………」
その姿を見て、天飼は言葉を発せなかった。
元より何と声をかけるべきか逡巡しつつここまで来たのだ。そしてその答えはついに思いつかなかった。
加えて、チエロの憔悴ぶりに天飼は少なからず動揺した。
縁石に座って力なく顔をうずめているチエロは、一週間前とは別人のようだった。見るからに覇気が無く、纏う気配もめっぽう弱々しくなった気がする。桃色の長髪と純白の翼からは毛艶が失われており、ボサボサに荒れていた。
何より、雨が降っているのにお構いなしに野外にうずくまっていることこそが異常である。
数日前に見た勝気な少女の姿は、今や見る影もなかった。
天飼はチエロに駆け寄り、言葉をかけるより先に傘を差しだした。
「………………お前か」
傘の下だけ雨が止み、チエロが顔を上げる。
その顔はやつれており、やはり精気がない。
しかし、悪魔を狩り続けていたからだろうか、チエロの目だけが荒みならがも研がれた短剣のような鋭さを纏っていた。
天飼はやっとの思い出で言葉を絞りだす。
「……俺の、いや、その、だな……」
「………………」
「……とりあえず、どこか屋根のあるところへ……」
「うるさいっ!!!」
チエロは一瞬でその手に短剣を構えると、天飼に向けて思いっきり薙ぎ払った。天飼は身動きが取れず固まる。手に持った傘の柄が切断され、上半分がパサリと地面に落ちた。
チエロは飛び下がり、警戒するように短剣を天飼に向ける。野生動物のようだった。今のチエロには、天飼が悪魔以上の敵に見えているようである。
「お、落ち着け。俺は危害を加えに来たわけじゃない」
「じゃあ同情しにきたわけ! 帰る場所のなくなった私を!」
『チエロ、天飼の部屋に戻るんだ。それが最善だ』
「あんたは黙ってなさい!」
パスカルの忠言も功を奏さない。
チエロが叫ぶ度に翼がはためき、抜け毛が数本舞う。羽は水たまりに落ちて濡れ、くすんだ灰色になってしまう。
「滑稽でしょうね! 自分からあの部屋を飛び出して、自分から追い詰められているんだから! 自業自得ね! 笑えるでしょうね!」
「そんなことは、思っていない」
天飼はこれ以上相手の感情を逆立てないように落ち着いて言う。雨に降られているがそれを気にしている場合ではない。
相対するチエロは完全に憔悴していた。狂乱と言っても良いかもしれない。天飼は頭が痛くなってきた。雨音がうるさすぎるほどに脳内に反響する
『チエロ、意地を張るな。お前だって、あの部屋に戻る以外の選択肢が無いことくらい分かっているだろう。大丈夫だ。この男に関しては俺が責任を持って監視する』
「そういう問題じゃないの! 生理的に無理!」
パスカルが宥めようとしても無駄である。恐らくこの一週間で何度も繰り返されてきたやり取りなのだろうということは、天飼にもよく分かった。
「……そもそも、全部この男が悪いのよ。私が地上に下りてくることになったのも、堕天したのも、住む場所を失ったのも! 全部この男が! 自分の汚い欲を抑えきれなかったせいじゃない!」
チエロの目が殺意に染まる。
「天飼! お前さえいなければッ!」
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