5
ベンチの周囲だけに結界を張って横になっていると、脳内に無音が流れ込んでくる。通信が始まったようだ。
「あの男の家には帰らないわよ」
『……まだ何も言っていない』
パスカルはため息交じりに言う。
「ずいぶん私を放置しちゃってるじゃない。オペレーターが天使から目を離して良いわけ?」
『ちょっとな。あの男を説教していた』
容易に様子が想像できる。あの男のことだ。また只管に謝り倒していたのだろう。
『チエロ、俺からもあの家に戻ることを奨める』
「嫌よ」
『そうは言っても、拠点がないじゃないか。悪魔を狩り終えるまで、ずっと野宿するつもりか?』
チエロは仰向けになって人差し指で空を指す。モンシロチョウが止まった。
「別に公園にい続けるつもりもないけど。教会とかなら入れてもらえるかもしれないし」
『止めておけ。安易に教会に立ち入って崇拝対象となり、出るに出られなくなった天使の例はいくつかある』
「………………」
『天界に帰るためには、否が応でも悪魔を狩らなければならない。野宿続きのコンディションでは戦闘パフォーマンスも落ちる。結局天界への復帰が遠のくことになるぞ』
「でも……だって、あの部屋に帰るのは嫌よ」
天使と人間、若者と四十路、男と女。あまりに価値観に差がありすぎる。それに加えて天飼は普通の人間に比べて倫理とか品位とか清潔感とか、とにかくそういうものが無い。この先どんな衝突が待ち受けているのか、その度に自分はこんな気分になるのか。考えただけで憂鬱だった。
『……とりあえず、今はそのままで良い。こちらでも可能な限り代替案を探すし、適宜サポートもしよう』
パスカルもチエロの気持ちを理解しているのだろう。無慈悲すぎることは言わない。
『ただ……天使の体調に関わらず、悪魔は今夜も湧いてくる。明日も、明後日もな。そのことだけは忘れないように』
しかし十分に事務的でもあった。
「分かったわよ……夜になったら起こして頂戴」
チエロは背から生える翼の先を器用に顔の前まで持ってきて目元を覆う。
視界から光が失われると途端に眠気を感じる。夜通し悪魔を狩っていてそこから休憩していなかった。
(あの家には帰りたくないけど……)
(ハンモックを失ったのは、ちょっと勿体ないか……)
ベンチの上で、チエロの意識は夢へと飛んだ。
*
『二十一時だ。起きろ』
結界の中では周囲の音が聞こえないし、風も吹かない。パスカルの目覚ましがなければいつまでも眠っていられそうだった。
「………………んん」
チエロは身体を起こす。結界の外に人の気配が無いことを確認してから、それを解く。夜の公園には人気は皆無だった。
明け方の活気が嘘のようである。
「………………」
『……どうした?』
「何でもないわ。行きましょ。場所教えて」
悪魔が発生することが予測される座標をパスカルから伝えられ、チエロは現場に向かう。
今夜の狩場は住宅街ではなく少し離れた場所の、橋の下だった。向こう岸まで五〇メートル程の大きな河の上に、片側二車線の巨大な鉄橋が跨っている。
チエロは呪文を唱えて結界を張った。周囲は暗黒色に暗くなり、外から人間が入ることは不可能となる。
「……パスカルはさ」
『何だ?』
「やっぱ男なんだし、シコったりするわけ?」
『……業務に関係ない私語は慎め』
「するとみた」
『悪魔の反応有り。構えろ、チエロ』
パスカルが言ったと同時に、チエロも気づいていた。
漆黒の水面。その流れの表面に赤い光が現れる。悪魔の魔法陣だ。
魔法陣のおどろおどろしい光はどんどん強くなり、やがてその内部から、半魚人のような悪魔が現れた。濡れた体表はぬらぬらと赤い光を反射しており、悪魔の輪郭を闇夜に映し出している。
「
チエロは呪文とともに白い魔法陣を虚空に生み出し、そこに手を突っ込む。そして刀身だけで一.五メートルはあろうかという極太の大剣を取り出した。
「刺身にしてやるぜ!」
『待て待て、周囲にあまりに人工物が多い。長物で戦うのは避けるべきだ』
「そういうのは戦闘開始前に言って!」
言われてみれば確かに、大きな橋の下なので橋脚や支柱が至る所に張り巡らされていた。大剣をぶん回すと勢いあまってそれらも破壊してしまいそうである。
チエロは取り出したときと逆の手順で大剣を片付けると、代わりの呪文を唱えて今度は短剣を装備した。
「近寄りたくない相手だから大剣が良かったのに!」
『来るぞ』
半魚人悪魔が呻き声を上げて突っ込んでくる。チエロは応戦する体勢を取った。
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