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 虚空に腕を掲げ、パチンと指を鳴らす。

結界が解かれる。暗黒色の天幕は消失し、代わりに薄灰色の朝焼けが空を染め直した。

『日が昇った。これで悪魔も出現しないだろう。ご苦労だった、チロル』

 パスカルの一声で、肩の力が抜ける。チエロは明るくなる東の空を見上げて息を吐いた。

 昨夜からずっと悪魔を狩り続けていた。反応がある場所に急行し、悪魔を狩っては次の場所へ。合計五体を狩った。雑魚ばかりだったが、数が嵩めば当然疲れる。

「疲れたわ……今何時なの?」

『五時十三分だ。疲れただろう。帰ってゆっくり休め』

(帰って休めって言われてもさぁ……)

 普段の任務であればこのあと天部から回収され、快適な天界で横になれるというのに、帰る先が汚いあの家だと考えるだけで憂鬱である。

 休めたものではない。一つ衝立の奥に宿敵がいるなんて。

(野宿よりましだと思ってやり過ごすしかない、かぁ……)

 チエロは重い足取りで帰路を辿った。


 しかし帰宅したチエロを待ち受けていたのは、悪魔狩りとは違った過酷だった。

「なんかこの部屋……臭ぇな」

 歪んだドアを開けた玄関でチエロは静止する。

 何の臭いだ? 血の臭いではない。排泄物の臭いでもない。何かこう、生物的な臭いがする。良い香りではなかった。むしろ不快な。

 玄関には天飼の靴がある。あの男は夜勤を終えて帰宅しているようだ。

「天飼? いるの? つーかこれ、何の臭い……」

 チエロが部屋に踏み込むと、そこには普通に天飼の姿。

 ただし、急いでズボンを上げている……。

 そして部屋に充満する臭い。

 チエロは何が起きていたのかを瞬時に理解した。脳内の最悪な記憶が励起される。

「は———ちょっと何、お前———」

「………………」

 朝の清々しさとは程遠い、粘ついた沈黙が流れた。

「致してたワケ……この私がようやく帰ってきたタイミングで、致してたワケ!!!?」

 一拍置いた後の絶句。チエロは愕然とした。対照的に天飼は目を逸らしてしまう。

「信ッじられない……女の子がいる家で、帰ってくるかもしれない家で……自慰ッ!」

「……すまない」

 激詰めされやっと天飼が言葉を絞り出す。

『……共同生活ではそういった事故も……まぁ……無いわけではないからな』

 存在感を消していたパスカルも、言葉を探しているようだった。経験あるオペレーターでも、このような事態への対処方法は知らないらしい。

 チエロは踵を返す。

『……まさかとは思うが、チエロ』

「知らない!」

 昨夜に家を出たときと同じように、チエロは玄関から飛び出して行ってしまった。

「………………」

 どう考えても天飼が追いかけたところで状況が改善するはずがないし、追いかけたとしても謝る以外に掛ける言葉が見つからなかった。そして今謝ったところで怒っている彼女には効果が無いだろう。

 天飼は取りあえず今しがた致したものをゴミ箱に処理して、力なく座り込む。頭を抱えた。

「……はぁ」

『……センシティブな案件だが、拠点を同じにしているとこういうことも起こり得る。チエロは年頃だからな、致し方ないだろう』

 同じく沈黙を貫いていたパスカルがボソッと言う。

『ちょうど仕事帰りだったということだな?』

「……すまない」

『俺に謝ってどうする。次からは気をつけるように。それから、ちゃんとチエロにも弁明すること』

「あいつ、どこに出て行った?」

『そこまで遠くは行っていないし、俺の側からはいつでもコンタクトをとることができる。機を見て帰ってくるよう説得しておく』

「優しいな」

 パスカルは常になく物言いに棘がない。声色も、どことなく腫れ物に触るようだ。

「お前も男だからそんな感じの寄り添い方なのか?」

『……気持ちは分らんでもない』

「すまねぇな。面倒な仕事を増やしちまって」

 天飼は洗面所に向かい、石鹸で手を洗う。神経が立っているのか、流れる水の音がいやに攻撃的に聞こえた。

 居間に戻り、崩れるように布団に倒れ込む。

 チエロに謝らなければ、しかし、彼女がいつ帰ってくるかは見当が付かないし、それまで起きていられる自信もなかった。仕事終わりで疲れており、全身が満身創痍で目も開けていられない。

「夜勤明けで疲れているとはいえ、これがないと眠れなくって、な……仕方なかったんだ……」

 そう言い残し、天飼は微睡の中に堕ちていった。


『………………』

 パスカルは天飼の室内を確認する。天界からは音声をやり取りするだけではなく、観察対象者の周囲の状況を確認することもできた。

 天飼の部屋を見回す。隅にあるゴミ箱の中には丸められたティッシュが大量に捨ててあった。

 大量に。

(……多いな)

 この男はこの年にして中々なようだった。パスカルは必要ないとは思いつつもインシデントを記録した。こんな内容の報告書を書くのは初めてのことだった。

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