Devilish nights

1


『起きろチエロ。休憩はそろそろ十分じゃないか』

 目を開けると、橙色の天井。脳内に響く天界からのメッセージに、チエロは目を覚ました。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。横臥していた身体を起こす。頬を触るとハンモックのネットの痕が付いているのが感じられた。

「不快だわ。まんまと眠っていたなんて」

 軽く伸びをする。翼の付け根が凝っていて痛い。数回羽ばたくと真白な羽が数本、舞った。

『天飼は未だ隣で眠っているぞ。お前が眠っている間は一瞬も起きなかった』

「そう……で、どうして私を起こしたの? こんな半端な夕刻に」

 パスカルは事務的に告げる。

『悪魔の反応がある。おそらく今夜活動を起こす』

 悪魔。その語に、チエロは眠気が急速に遠ざかってゆくのを感じた。

『今回地上に降りてから初めての任務だからな。準備の時間が必要だと思うぞ』

「そうね……ありがとう」

 そもそも天使であるチエロが天界から地上に降りてきた本来の目的は、人間に害を成す悪魔を討滅するためであった。

 そのための武器も与えられている。

 天飼にしてやられて調子が狂っていたが、本来の任務を疎かにするわけにもいかない。それに、堕天した今となっては忠実な任務の遂行こそが天界に帰る唯一の方法なのだ。

『作戦実行は二二〇〇とする。また連絡するから、準備しておけよ』

 それっきり、パスカルの伝言は途絶えた。

「………………」

 身じろぎすると、ハンモックがギシと鳴く。壁に掛けられた時計は十八時を示していた。

 長針も短針も、文字盤に長い影を落としている。



 機械的なアラーム音が鳴る。天飼は目を閉じたまま手探りで枕元を探り、震える携帯の画面を触って止めた。

 二十時である。夜勤のための目覚ましであった。ずるずると起き上がり、洗面所で顔を洗う。

 冷蔵庫から弁当を取り出して温めようと思い廊下に出ると、玄関にチエロが立っていた。

「………………」

「ハンモックは身体に合ったか?」

「気持ち悪い言い方ね」

 チエロは天飼とは目も合わせずにドアを開けて出ていく。

「ん、待て、何処へ行くんだ?」

「あんたと同じ、仕事よ」

 チエロは振り返らず、階段も使わずにアパートの廊下の柵をひょいと飛び越えて見えなくなってしまった。

『近所に悪魔の反応があったので狩りに行く。俺はチエロのオペレーションに集中するからこれからは応答できなくなると伝えておこう』

 代わりにパスカルが説明をした。

「そうか、頑張れよ。それと……」

 天飼は天井の隅の特に影が濃い点を見上げた。

「チエロにも頑張れと伝えておいてくれ」

『……伝えておこう』

 パスカルの声が途切れ、その背後にあった物音までもが届かなくなった。恐らくパスカルの通信は単に声を届けるだけでなく、彼の周囲の全ての音をこちらに伝えているのだろう。

 天飼は一旦部屋に戻り、新品だったハンモックが少しよれているのを確認すると、弁当を腹に納めてから仕事に出かけた。

 飛び出していったチエロの姿はとうに無い。闇夜の電灯には羽虫が群がっていた。



 悪魔とは、人に仇成す異形の怪物の総称である。

 悪魔には複数の種類があった。人間の負の感情により生じる悪魔は、その元となった感情によって分類される。

 人間を死に至らしめる七つの罪、それこそが悪魔の種類である。

 人間から生じた負の感情は、人間の世界の地下深くにある、いわゆる“地獄”に集積される。そして溜まった感情が一定の段階に達すると、それは悪魔の形となって地上に顕現するのである。

 悪魔はどんな個体であっても総じておどろおどろしい見た目をしており、人間・動物・天使に敵対的だった。加えて強大である。野放しにしておけば人間社会に甚大な被害を与える。

 そんな人界の脅威である悪魔を狩ることこそが天使の任務であり、天界で天使が作られる目的でもあった。



 平凡な住宅街である。背の高い建物は一切なく、ベッドタウンの一角でしかない風景であった。

 しかし、住民が暮らしているであろうその家々には、一切の明かりが灯っていなかった。数々の生活を内包する家は須らく消灯しており、息遣いが聞こえない。

「結界を敷いたわ。全員眠ってるし、ここら辺に人は新たに入ってこれないはず」

 チエロはアスファルトに仁王立ちして告げた。

今からここは戦場となるのだ。何の力もない一般人を守りながら戦うのは面倒であるので、天使単身で戦った方が良い。故に結界を張って外部から人間が入れないようにし、これから起こる騒動を感知されないようにする。これが天使の戦い方だった。

『ご苦労。そのまま悪魔出現に備えてくれ』

 パスカルは言い終えても、通信を切断しない。これから地上で悪魔と戦うチエロのサポートをするのだから当然である。チエロの脳内にはパスカルの沈黙が届いていた。

「今回の悪魔、クラスは?」

『出現するまで分からない。だが反応の小ささからして、そこまで危険な相手でもないだろう』

「そう」

 チエロは油断なく周囲を見回す。どうせ悪魔が出現すれば天界からパスカルが報告してくれるのだが、現場にいる自分の感覚も研ぎ澄まさせておきたかった。眠った町で闇夜に目を凝らし、人ならざる者の気配を探る。

 集中していれば時は早く過ぎる。やがて、その時は来た。

『一〇時の方角五〇〇メートル、魔法陣の発生を確認』

 パスカルの声を聞くや否や、チエロは駆け出した。飛翔できれば一気に現場に向かえるのだがそれもできないので、地を駆けて向かう。

 数本の路地を曲がった先、報告されていたものがあった。

 灰色のアスファルトを不気味な赤色に照らす、発光する魔法陣。地面に描かれたそれは光の勢いを増してゆく。

 光は大きくなる。その中に何か存在を秘匿するように。

 やがて光が収まるとそこには———

「■■■■■———!!!」

 悪魔。

 そう形容するほかない。

 その体躯は五メートル程であろうか。人型。筋骨隆々な四肢と胴体を持ち、腰部からは太い尾が、頭部からは鋭い角が二本生えている。角が電線に引っかかってバチバチと火花を鳴らしていた。

 悪魔の顔は恐ろしいほど怒りに歪んでいた。裂けるほど吊り上がった口からは乱雑に生えた牙が覗く。瞳は虚ろで、知性の感じられないガラス玉が嵌め込まれているようだった。

『反応“憤怒”だな。気をつけて交戦するように』

「了解ッ!」

 チエロは醜悪な見た目に怯まず、憤怒の悪魔に跳びかかる。憤怒の悪魔は天使を敵と認識すると再び雄叫びを上げ、鋭い爪の生えた腕を振り上げた。

第三魔刃・抜刀トレスエスパーダ・アウェイクン

 チエロは走りつつ呪文を唱える。呪文によりその左の掌には白い魔法陣が浮かび上がり、そこからズルリと短剣が生み出された。チエロは空いた右手で短剣の柄を握り、悪魔に向かって構えた。

 悪魔の腕とチエロの短剣が接触する。その瞬間

「ハッ、脆いわね、低級悪魔!」

 短剣が閃く。チエロの剣技は悪魔の拳に留まらず、その肩口までもを粉々に微塵切りにした。

重心がずれ、悪魔が体勢を崩す。チエロはその隙を逃さず追撃を仕掛け、今度は悪魔の胴体を三等分にしてしまった。

「■■■■■———!」

 悪魔は堪らず悲鳴を上げる。しかしそんなことで止まる天使はいない。

「私はお前を狩って、絶対天界に帰るんだ———ッ!」

チエロは続けざまに悪魔の首を刎ね、宙を舞った頭部が地面に落ちる前にさらに乱切りにしてしまった。

 悪魔の肉片はゾボゾボと音を立てて塵と化し、やがて完全に消滅した。

『対象の沈黙を確認。ご苦労だったな、チエロ』

「雑魚ね。楽勝」

 チエロは短刀に着いた黒い塵を払うと、刃先を左掌に押し込む。短剣は出現したときの逆再生のように、魔法陣に吸い込まれるように消滅した。

『連鎖召喚で他の低級悪魔が出現するはずだ。結界は解かずに、日が昇るまで哨戒に当たってくれ』

「………………」

 チエロは短剣を仕舞うと、黒い塵が風に攫われて消えていく様をぼうっと眺めていた。

『……チエロ、どうした?』

「……悪魔を狩ってたら、天界に戻れるのよね?」

『……もちろんだ。お前が陥った禁忌は、それで雪がれる。必ず戻れるさ』

「………………そう、そうよね。ありがとう、パスカル」

 チエロは首を振って気分を改めると、ローブの裾の汚れを払う。悪魔の体液がべっとりと付着していたが、悪魔本体が消滅したおかげでその汚れも塵となって消えていった。

 悩んでいる場合ではない。任務を遂行するのだ。そうすれば活路が開けるはずだ。そう信じるほかない。チエロは無理にでも気持ちを前向きにするべきだと思い、翼を羽ばたかせた。

 背中から生える翼を身体の前面に曲げて身だしなみを確認する。今回の戦闘では羽の一本も毟られなかった。上々と言える。飛べる気配は未だ無いが、チエロは翼をはためかせた。

『そういえばお前が家を出た後、天飼から言伝を預かったのを思い出した』

 パスカルが唐突に言う。

「……何」

『『頑張れ』とな』

「……何それ」

 チエロはアスファルト上の石ころを蹴った。眠る町で石が転がる音は妙に響いた。

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