3

「じゃあ俺は仕事に行ってくる」

 日が暮れて数時間もしたころ、天飼はのっそりと布団から起き上がった。

「人間は夜は働かないんじゃなかったの?」

「俺らみたいな労働者は夜勤をやってナンボだ。金のためなら文句は言えない」

 天飼は伸びきった無精髭を剃ろうかとも思ったが、夜に髭を剃るのも違うかと思い、そのままにした。くたびれた上着を羽織る。

「そ」

 チエロは相変わらず壁に寄りかかっている。天飼が最後に見たときと同じ姿勢だった。

「床も使って良いぞ」

「お気遣いなく」

 チエロは目を閉じたまま答える。本当に天飼の顔も見たくないようである。天飼は拳痕にまみれたドアを押し開けて部屋を出、外から鍵を掛けた。


 寝息に沈む町。路地は暗い。

 こんな時間である。会社勤めの社会人や学生は眠っている。閑静な道を、天飼は歩く。空を漁網のように覆う電線の向こうには、貧相な星空が見えた。

 その夜空に届くことを期待して、天飼は一人語り掛ける。

「……おい、男、聞こえてるか」

『俺の名前はパスカルだ。どうした』

 空に声を発するとすぐに、不愛想な男の声が天飼の脳内に響いた。

「パスカル、あの天使のことなんだが」

『チエロだ。あの本棚のことか?』

「いや、あれは良いんだ。何があったかは大体察しが付く」

 大方、天飼の所業と自らの境遇に腹を立てたチエロが嫌がらせとしてやったのだろう。

 天飼の考えは別の所にあった。

「天使ってのは、眠らないのか?」

 チエロは地上に降りてきてからずっと立ちっぱなしのようであった。それに加えて常に針で刺すような雰囲気を纏っており、天飼の前では決して隙を見せない、そんな空気を発していた。

「あの天使、ずっと眠っていないと思うんだ。そしてそれは……まぁ、俺の前で眠りたくないってのもあるんだろうが、俺の部屋が汚いからってのも要因な気がするんだ」

『天使も眠らないわけではないが、不眠によるストレスに関して言えば人間よりもずっと強い。数日くらいは寝ずとも大丈夫だ』

「だが、ずっと立ちっぱなしってのも疲れるんじゃないのか?」

『確かに、それによる筋肉的疲労はあるだろうな。お前、何が言いたいんだ?』

 パスカルは探るように言う。

『まさかとは思うが、再び姦淫の機会を窺っているんじゃないだろうな』

「俺の首の鎖を見てくれよ。そんなこと思っちゃいない」

 天飼は星空から目を落とし、影に染まる路地の向こうを見やる。

「ただ天使ってのは眠らないのか、それが気になっただけだ」

『そうか』

 天飼の脳内に届くパスカルの音声は澄んでいた。先ほどまでであれば彼の背後からは誰かの足音や話し声、書類を捲る物音などが聞こえてきていたのだが。

 もしかしたら、天使は眠らないとしても、天界も今は夜で業務を停止する時間なのかもしれない。

「話を聞いてくれてありがとうな。お前も早く寝るんだぞ」

『俺への気遣いは必要ない。ずっと見張っているからな、天飼』



 日が昇りかけ、東の空が錆色に染まりだしたころ、天飼は帰宅した。軋むドアを開ける。

 またもや大きな段ボールを抱えていた天飼は、苦心して狭いドアを潜った。

 ガタガタという物音に、数時間前と同じ姿勢で壁に寄りかかっていたチエロは目を開けた。

 大荷物を抱えた天飼は衝立をずらしてチエロのテリトリーに入ってくる。

「ちょっと、何、何?」

「こいつを買ってきた。組み立てるから待っててくれ」

 天飼は段ボールをバキバキと開ける。中からは梱包された鉄の棒と、ネットのようなものが出てきた。

「……なにこれ、ハンモック?」

「パスカルが、これが良いんじゃないかって教えてくれたからな。チエロお前、座ったり横になったりしたいだろ。床が汚いからな」

「理由は床が汚いからだけじゃないけど、だからって、買ってきたわけ?」

「ああ」

 独り身が長い天飼は手際よくそれを組み立てる。それなりなハンモックが出来上がった。

「はぁ疲れた。じゃあこれ、使って良いからな」

 天飼はそれだけ言い置くと、衝立の向こう側に行ってしまう。そしてすぐに寝息を立て始めた。

 チエロは真新しいハンモックをしげしげと眺める。

「……パスカル」

『あの男には首輪が巻かれている。危険性は無いと判断した』

「まだ睡眠は必要ないわ」

『立ったままだと疲れるだろう。大丈夫だ。天飼は俺が監視しているから』

 チエロは不満げにハンモックに近寄ると、数周それの周りを歩き回って、やがて意を決したように座った。

 ネットは天使の体重を受け緩やかに沈む。安定感はあった。

「……何よ」

 同情されているようで腹立たしい。誰がこの状況を招いたというのだ。

 チエロは頬杖を突いて目を閉じた。ローブの襟元に頬をうずめる。眠くはないが、眠るという行為ができない訳ではない。

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