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「じゃあ、俺は出かけるが」

「そう」

「家の中のものは自由に使ってもらって構わない。冷蔵庫の中も勝手にしてくれ。そのうち戻ってくる……あぁ、便所は左のドアだ」

「天使は人間の食べ物なんて食べないし、排泄もしないわ」

「そうか、じゃあ行ってくる」

 一晩中を超えて朝になった。それでもなお壁際にいる天使・チエロに言い置きをすると、天飼は部屋を出て行った。

「………………」

 チエロは一人になり、部屋を見回す。天飼の部屋には生活感が無かった。

 壁の一画には干からびた本棚がある。中身はほとんど無い。

 チエロはその本棚を、側面から思いっきり蹴り上げた。

 本棚は一瞬、数センチだけ浮遊し、横向きに倒れる。それなりの音と、埃が舞った。積載されていた小物などがバラバラと床に散らばる。

 次いで本棚の奥から出てきた色白の壁を、殴る。壁には罅が入り、天井から塵が落ちてきた。

『なんの騒ぎだ』

 物音に気がついて回線を繋げてきたパスカルに、チエロは気怠げに答える。

「別に、あいつへの嫌がらせよ」

『あまり面倒を起こすなよ』

 穴の開いた壁から昇る白煙が消えないうちに、部屋の外から何やら足音が聞こえてきた。

 それも、複数である。

「天飼! またかぁ! 毎度毎度ウルセェんだよォ!」

「何時だと思ってんだ!」

「てめぇ今度こそ大家に突き出すぞ!」

 ドアの向こうからは野太い怒号が聞こえてくる。住宅街の只中であろうとお構いなしのようだった。

「ちょ、ちょっとちょっと何何何!?」

『騒音は人間の最もメジャーなトラブルだ。居留守してた方が良い』

 ドアを軋ませるようなノックと罵声は数十分も続いた。家主でない天使は耐える他なかった。



 歪んだドアを何とか開け、天飼が帰宅する。

 室内は物盗りでも入ったのかと錯覚するほどの有様だった。

「……家に自分以外の者がいるというのは、慣れないな」

 天飼は巨大な段ボールを苦心して抱えていた。部屋に鍵は掛けなかった。

 室内のチエロは未だに壁際に寄りかかっている。窓から差し込む夕日が、飛べない羽を桃色に染めていた。

 天飼は抱えるほどある段ボールを部屋の隅に置き、黙って棚を直した。壁の穴には流石に顔をしかめたが、もっとも、部屋の壁には他にも大小さまざまな穴があるし、壁紙も相当黄ばんでいたので、敷金は数年前から諦めていた。

「……何も言うこと無いの?」

 チエロが鹿十を向きながら言う。

「言われた通り、使えそうなものを買ってきた。意外と値が張るものだな」

 天飼は段ボールの天面を乱雑に裂き始める。中からは幾重ものビニールに覆われた、伸縮する鉄柱や化学繊維の織物などが大量に取り出された。

「衝立だ。若者はパーテーションと言うらしいな。組み立ててみよう」

 チエロが来る前から散らかっていた床を整え、天飼はパーテーションを組み立てる。

「………………」

「出来た」

 鉄柱は天井まで届く高さだった。ブラウン色の壁に、室内が二分される。

「これでスペースが確保できたな。良かった……じゃ、他に揃えて欲しいものがあれば言ってくれ」

 そう言うと天飼は衝立の向こうに行ってしまった。

「……ねぇ」

 室内は新品の匂いが満ちる。チエロは壁に向かって話しかけた。

「何だ?」

 常より幾分くぐもった返答が返ってくる。次いで天飼が布の隙間から顔を出した。

「いい、いい、顔は見せないで、戻って………………、……ねぇ、本当に、何も言うことは無いの?」

「……特に何も無いよ。どうした? 便所なら

「天使は排泄しないわ」

 的外れな天飼に苛立ってチエロは爪を噛む。

 天飼が壁の穴について文句を言いたくないわけがないのだ。それなのに、何も起きていないという風にやり過ごす態度が気に食わなかった。

「……やっぱりいい」

「そうか」

 しかし自分からそのことを問いただすと、自分の癇癪を自分で白状してしまうことになる。それもかえって癪なので、チエロは天飼につっかからないことにした。

 沈黙。程無くしてそれが、規則的な呼吸音に代わる。

 チエロはぎょっとした。恐る恐る衝立の布を除けて部屋の向こうを見てみれば、天飼はこちらに背中を向けて眠っていた。

 夕方から眠るとは怠惰な……とも思ったが、天飼が昨夜から一睡もしてないことに気がつき、音に出すまでもない文句を飲み込む。

 二分された部屋では窓も照明も二分されており、流れ込む陽光も半分である。

 チエロが堕天してから二十四時間が経過しようとしていた。

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