Angel in its mink

1

 帰宅する。温い部屋は少し独特な臭いがした。

 天飼に続きチエロが部屋に入る。天飼がすれ違って玄関の鍵を掛けようとすると、

「私が咄嗟に逃げられるように鍵はあけておきなさい」

「……そうか、分かった」

 決して治安が良い地域とは言い難い場所だが、天飼は施錠をしないままにしておいた。

「というか、どうして天使も俺の家に帰って来たんだ?」

「だって、他に行くところも無いんだもの。苦肉の策よ」

 チエロは部屋の中で天飼がいる位置と対角線上の角に寄りかかっている。徹底的に、少しでも天飼と距離をとろうとしているようだった。

天飼は携帯を取り出し内カメを起動する。罅だらけの液晶には辛気臭い中年の顔が映っていた。

 そしてその顔の下の首には、暗い部屋でも淡く光る、鎖のようなものが巻かれていた。

 これが天界の者どもの言う『呪い』のようだった。重さはまったく感じないが、その見てくれは重厚そうな鎖である。曰く、呪いを付加された者が邪な心でもって行動を起こそうとするとキツく締まるらしい。洋風な緊箍児といったところである。天飼が不純にチエロに触れようとすれば首が絞められるということだ。

 教会からの帰り道に、パスカルとチエロにより巻かれた呪いだった。

「天使が人間を攻撃することは禁じられているのに、この鎖は問題ないのか?」

『鎖があろうと行動が制限されるだけで、死ぬわけではない。そのような制限であれば不問だ』

 パスカルは事もなげに言う。

「パスカル、私にどうしても別の部屋を用意することはできないわけ?」

 部屋の角でチエロは不服そうだ。

 天飼としても、チエロの精神衛生のことを考えると、できるだけ己の姿を彼女の視界に入れないようにしたかった。しかし安いワンルームの賃貸では不可能なことであった。

『何度も言わせるな。天界に関わる人間は最小限にしなければならない。他の潜伏先は用意できない』

 パスカルは何度でも真面目に説明する。チエロは両腰のスリットに腕を突っ込み、矛先を天飼に向けた。

「あんた、あんたが責任を取るべきなんだからね、あんたが出ていくことはできないわけ?」

「申し訳ないが、無理だ。二部屋目を借りるような金は無いし……」

 そして長期間の野宿に耐えられるような体調でもない。

「あ“~っクソがよ……」

 天使には部屋に入って来たばかりのときの営業スマイルが失われて久しい。チエロはしばらくのあいだ親指の爪を噛んでいたが、狭い部屋を見渡すと、観念したかのように首を鳴らした。

「じゃあせめて、部屋を分けてもらいたいわね。パーテーションでもカーテンでも、とにかくあんたと同じ空間にいたくないわ」

 天飼はこの狭い部屋をさらに区切るのかと若干呆れたが、それもこれも全ては自分が犯した罪への償いである。異議を唱えられる身分ではない。

「分かった。じゃあ明日、家具屋で探してくるよ」

「今すぐ行ってきなさいよ」

『人間界には昼夜というものがあってだな。夜は大抵の店はやっていない』

「はんっ、怠惰ね」

 チエロは壁に体重を預けたまま目を閉じる。目を閉じたままでも、近づけば指先から切られてしまいそうな隙の無い気配がして、天飼も部屋の対角あたりで小さくなっている他なかった。

 微妙すぎる雰囲気。太陽が昇るまで、天飼が眠ることはなかった。



 そんな部屋の様子を、眺める者がいる。

「………………」

 天界の男・パスカルは頬杖を突いて、モニター越しに地上の様子を観察していた。

 パスカルの興味は、堕天したチエロよりも、地上にいる冴えない人間である天飼に向けられていた。

 天界から天飼の様子を見てみれば、チエロが寄りかかっているのと逆側の壁際の方に布団を敷いて横になっている。しかし眠っているのではないようであり、チエロと同じ部屋に居るのが気まずいため、形だけの睡眠をとっているようだった。

 天飼には、動揺が見られない。

 その点が、パスカルの意識に引っかかっていた。

 通常、天界の関係者や天使に遭遇した人間は、多かれ少なかれ特異な反応を見せるはずなのだ。パスカルはオペレーターとして幾人かの天使を地上に送り込んできたが、その天使たちが人間に遭ってしまうことも少なくはなかった。

 ある老人は天使を見て、ついに“お迎え”が来たのかと震えた。ある敬虔な信徒は天使を見て涙を流した。ある女は天使を可愛がり、服を買ってやろうかともちかけた。ある男は折角の天使なら美女を寄越せと、男の天使に不満を漏らした。

 天使に遭う度、人間たちは例外なく驚嘆の念を浮かべるものだった。

 それに反して、天飼のなんと冷静なことか。チエロやパスカルがあれこれ命令しても、一つも疑わずに応じる。特にチエロは天界でも性格に難のある部類の天使なのだ。

 それに、天飼の首には呪いの鎖が巻かれている。天界の者の下した命令に背けば首の骨がへし折れる呪いである。自らの心臓にナイフを突き立てられているのに等しい状況でも、天飼は動じないのだ。

 しかしそうは言っても、天飼は初対面のチエロに思いっきり乱暴を働いている。この点も、天飼の類を見ない点だった。天使を犯す人間なぞ、聞いたことがない。

 その暴力的な面と従順な面がうまく嚙み合わず、パスカルは懸案している。

(あの男については、さらに資料を請求すべきかもしれないな……)

 パスカルは天界ダイヤルを回した。衆生課にかけあう必要があった。

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