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『とりあえずお前らにはやってもらわないといけないことがある』
「……何だ?」
チエロが何も答えないので、パスカルの命令には天飼が答える。
『聞くだに悍ましいが、天飼、お前はチエロと性交した。それは変えようのない事実だ。であれば、彼女が子を成してしまうことだけは何としてでも避けなければならない。貴様、どうせ避妊とかしてないだろ』
俯いていたチエロがビクリと震える。
「それって、じゃあやっぱり薬局とか行った方が良いか。あぁ今は閉まってるか」
中出しした後七十二時間以内であれば緊急避妊薬の効果があると、ニュースで報じていた気がする。
『無駄だ。天使に人間の薬が効くわけないだろう』
「じゃあどうすれば」
『良いかチエロ、残念だがお前の地上での最初の任務だ。その男のアパートから最寄りの教会に向かえ。そこに薬を届ける』
天界の男・もといパスカルはやはりバサバサと紙を捲っているようだった。PCのキーボードを荒っぽく叩く音も聞こえてくる。
男二人が完全にふさぎ込んでいる天使の応答を待つ。
しかし、その答えは
「……取ってきて」
「……だとさ。パスカル、教会の場所を教えてくれ。俺の責任なんだし、俺が取りに行く」
天飼は妙に落ち着いており、チエロの心情を酌むにそっとしておくのが善と考えた。
『駄目だ。チエロが行け。それか天飼に同行しろ。少なくともチエロが行かないと駄目だ』
「……なんでよ」
今度はチエロが答える。
『この時間に教会が開いてるワケがないだろう。門を通るにはチエロの力が必要だ。天使にとって教会はセーブポイントだからな。鍵かかかっていても開けられる』
天飼は近所の地図を思い浮かべた。確かにそう遠くないところに小さな教会がある。時おり、信者たちが集まっているのを目にすることがあった。
「教会じゃなくて、俺の部屋に薬を届けることはできないのか?」
『貴様の部屋のような神秘の欠片も無い場所に天界とのパスを繋げられるわけないだろう』
そういうものらしい。天飼は無宗教者であった。
『チエロ。まずはこれだ。天飼の処遇も、これからのことはこれから考えれば良い。だが今を逃すと、本当に取り返しのつかないことになるぞ』
「………………」
長い沈黙。その果てに、ついにチエロはゆっくりと立ち上がった。
*
「あんたが前を歩きなさい。絶対私の後ろに立たないで」
「あぁ、分かった」
深夜の路地を、天飼と天使・チエロが行く。
この国の夏は夜でも暑い。月が銀色の光を放ってはいるが、その明かりからは微塵も涼しさが感じられない。
路地は古い街灯に頼りなく照らされている。明滅を繰り返す蛍光灯は二人の姿と、時おり道端を走る小動物の体毛を闇夜に描いた。
閑静な町であった。遠い何処かから、酔っ払いたちが呵呵大笑するような声が響いてくる。金曜の夜なのだ。飲み会でも行っているのだろう。
「………………」
「………………」
天飼と天使は言葉を交わさなかった。天界の男・パスカルも、手順は教会に着いてから伝えるとだけ言い残して黙ってしまった。
天飼はこれからのことを考える。背後には羽を揺らして歩く天使、そして脳内———というか天界からは、あれこれ指示を飛ばしてくる男がいたが、天飼は自分でも驚くほど落ち着いていた。
四十年近く人生を生きてきて、少しでも寿命を延ばす秘訣は感情の波を立てないことだと学んだ。同僚が自殺したときも、職場の上司に活火山が如く叱責されたときも、作業場の職員が目の前で機械に巻き込まれて挽肉になったときも、天飼の心は凪だったのだ。
目の前に天使が現れた際は、泥酔も相まって流石の天飼も混乱して罪を犯したが、今となっては状況を受け入れていた。
この先の己に向けられるであろう罪過の制裁ですら、そういうことがあるのだろうと冷めた視点で見据えていた。
あぁ、俺は何時から、何物にも心を揺さぶられなくなったのだろう。
(——————)
脳裏に焼け付き片時も忘れられないのは、苦悶に歪む家族の顔。
『どうした。時間が無いんだ。早く歩け』
天飼が物思いに立ち止まってしまうと、二秒でパスカルが指摘してくる。
背後のチエロは無反応だった。天飼が歩けば付いてくるし、立ち止まれば立ち止まる。早く歩けば早く付いてきて、遅く歩けば遅く付いてくる。機械の様だった。
天飼は感情と身体を乖離させることが得意だった。苦悩していても何も起こらない。とりあえず目下のところ、教会で薬を入手することが目的だ。脚を動かしていれば、いつかは辿り着く。
夜景に浮かび上がる教会は、その威圧的な建築意匠から平素より巨大に見えた。外周には刈り揃えられた植込みが巡っており、丁寧な仕事ぶりが感じられる。
『よし、チエロ、呪文を』
「………………」
パスカルに促され、チエロが前に出る。天飼は数歩後ろに下がった。
植込みの門の正面部分には鉄柵が設けられており、錠前がかけられている。チエロは柵の上部の鉄棘の上に手をかざす。
「■■・■■■■・■・■■■■■」
呪文が終わると同時に、誰も触れていない錠前が音を立てた。
「……はい」
『よし、二人とも中に入れ』
天使とパスカルがいるのだ。不思議な現象を目にしても最早その原理は気にならない。チエロの無言の視線に促され、天飼は鉄柵を横に引き開けた。
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