2

 何がまずかったのかと問われれば、それは今日が金曜日だったということだろう。

 男は夜勤や短期バイトで雀の涙ほどの賃金を得て生き延びている、しがない独身男性だった。親しい友人もいないし、親との縁もとうの昔に切れている。身内はいない。

 なけなしの日銭を稼ぎ、自身の悪い酒癖から貯蓄は遅遅として貯まらない。気がつけば数十年が経過していた。

 独り寂しい男の暮らしにとって数少ない楽しみは、酒と、煙草と、精々自分を慰めることくらいであった。

 とりわけここ数日は激務が続いており、家に帰っても一滴の酒を飲む気力も無かった。そんな中やっと訪れた金曜日である。男は呑んだ。

 明日は休日である。男には酒が多く入っていた。二十三時を回ったところで、男はいよいよ下半身を露出したのだった。

 その矢先のことである。

「こんばんは! こちらの人間さんに協力して頂きたいことがあるのですが!」

 鍵の掛かった窓を何故か突破し、光り輝く少女が部屋に現れたのだ。

 男は愕然とした。見慣れぬローブを纏い、背中から場違いな大きさの翼を生やした者が侵入してきたのだから当然である。

 天使ははじめはニコニコしていたが、すぐにその笑みを納めた。

「………………げ」

 部屋の中には、布団の上で下半身を露出し、重ねて言えば、己を必死に慰めている男の哀れな姿があった。

 天使は羽を羽ばたかせて宙に浮いていた。丁度、男の上である。

 男は状況を理解できなかった。しかし、極度の疲労と酩酊から判断力が著しく低下しており、脳の思考機能はあってないようなものだった。男は簡単にその策をとった。

 男は自分の数センチ上に浮いている天使の両腿を鷲掴みにした。

 そしてそのまま両腕を下に振り下ろした。

「ぎゃ———っ!!!」


 そこからはもう、それはそれは荒々しい事が始まった。



 男は内心、金曜の深夜に一人暮らしの男の家を訪ねる相手にも問題があると思っていた。しかしそれを口にすると天界の男のさらなる激昂を呼ぶことが容易に想像できたため、黙っている他なかった。

『しかし、これは不味いことになった……おい、男、貴様の名前は』

「あ、天飼矢門だ」

『そうか、縁起でもない名前だな』

 天界の男は冷たく言い捨てる。声に混じって、何やら紙を繰る音も聞こえてきた。

『天飼、矢門……男、三十九歳、一人暮らし、家族は無し、定職無し、か』

「何でそんなこと知ってるんだ」

 天界の男には、天飼の素性が知られていた。

『天界の情報網を舐めるな。一切の情報秘匿は無意味だと思え』

「…………………」

 握りしめた拳が震える。全身から汚水のような汗が噴き出した。

(隠し事は無駄、か———)

 脳内に、天界の男のものとは別の声がフラッシュバックする。それはいつの日か聞いた悲鳴や怒号。天飼は大袈裟に深呼吸をして黒い記憶を遠ざけた。

 脳内には天界の男の声以外にも様々な音が聞こえてくる。天界の男の周囲の環境音なのだろうか、誰かの足音や遠くの喧騒、紙とペンの音などがした。長らく行っていないが、市役所のような雰囲気だった。

 天飼は天界の男の鋭い態度にすっかり萎縮してしまい、黙っているほか無かった。男は何やらブツブツ言いながら別の作業をしているので、天飼はその場から動くことができなかった。

 と、その時、

「……ぅお……効いたわ……」

場に第三者の声が響く。天飼はゾッとしたし、天界の男も作業を止めた気配がした。

「あっれー……私一体何を………………あ」

 天使が目覚めた。床から上体を起こし頭を掻いている。つむじの上には、先ほどまでは無かった“天使の輪”が発光していた。

 天使は呆けたように周囲を見回していたが天飼と目が合うとハッと記憶を取り戻したようで、勢いよく立ち上がった。

 天使は後ろを向くと纏っていたローブの裾の下から手を入れ何やら内部を弄った後、キッと天飼に振り返り、

「なにしやがんだ! 人間!」


———思いっきり、その顔面をぶん殴った。


「………………ッ!」


 天飼の頬は天使の拳の直撃を受けて捻じれ、身体は吹っ飛び背後の壁にぶち当たった。

『止めろチエロ、その男には然るべき裁きが下る。自力救済をするな』

「うるさい! あぁもう! 何でこんな目に!」

 天使は頻りにローブの中の身体のあちこちに手を入れて確認をしていた。

「ちょっと何これヤダ! お前どんだけ……っ、死ね! 私の純潔を返せっ!」

 天使は声は大きく床も踏み荒らすため散々な暴れようだった。天飼は壁にもたれたままその様子を眺める他なかった。殴られた痛みよりもむしろ、壁の薄いアパートの階下隣室への騒音の方が心配だった。

「もう帰る! 悪魔狩りなんてやってらんないわ! 人間の方がよっぽど悪魔よ!」

 チエロと呼ばれた天使は天飼を睨んでから振り返り窓際までずかずか歩いたかと思えば、再び天飼に向き直り傍まで歩み寄ってくると、ドン! と天飼の顔の左の壁を蹴り上げて穴を空け、また窓際へと向かっていった。

「じゃあな、強姦魔。色欲の悪魔にでも食われちまえ」

 チエロは背の一対の白翼をはためかせる。そして窓を開け、今まさに部屋から飛び立とうとした、その時———

『飛ぶなチエロ』

「は?」

 天界の男の静止。チエロは羽先を揺らして立ち止まる。


『お前、堕天してるぞ。恐らく飛行能力も失われてる』


「——————え」

 チエロの表情が空白に置き換わる。天飼は未だ壁に寄りかかったままである。天界の男の深々とした溜息が聞こえてきた。

『本当に———本当に、本当に面倒なことをしてくれたな、天飼。チエロは今や堕天使だ。人間とまぐわったのだからな』

「———嘘」

 天飼への語りかけに、答えたのはしかしチエロだった。懐から手鏡のようなものを取り出す。

「へ、ヘイローが! 変わっちまってる!」

 天使の頭上には、天使の輪が浮かんでいる。それは円に対して斜線を加えたような模様であり、赤い色も相まってちょうど車両通行止めの道路標識のようであった。

『そうだ……それは堕天の証。今のお前を、天界は受け入れることができない』

「ちょっと! じゃあ天界に帰れないってこと⁉」

 見るからに慌てふためく天使。天飼は自分で堕天させておいて天使が不憫に思えてきた。

 天使は瞬く間に生気を失い、先ほどまでの威勢はどこへやら、力なく座り込んでしまった。

『………………』

 天界の男の無言が聞こえてくる。天飼はいたたまれなくなった。

「なぁ、天界の、その何とかしてやれないのか? 俺がやっちまったことだが……」

『差し出がましいな諸悪の根源が。犯罪者のくせに、何故そのように気が回る面を持ち合わせているのだ』

「それもそうなんだけどよ……」

『それと、俺の名はパスカルだ』

 パスカルと名乗る男は冷たく言い捨て、また黙ってしまう。

 目の前には、消沈し絶望する天使。同じく部屋にいるのは犯罪者たる天飼。空の上には厳し気な上官。

 数分後にパスカルが口を開くまで、室内の重力は十倍だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る