第4話 自堕落な生活にサヨナラを……

 まだ薄暗さの残る早朝、俺は両親に起こされた。

 ぼんやりしていた頭が現実を認識し始めると、自分よりも真剣な両親の顔が飛び込んでくる。

 今日は試験のある詰所に行く日だった。

 早く支度を済ませるようにと言い残し、父親が先に出ていく。

 ご飯用意しておくね、と言って、母親も後を追って部屋を出る。


 自分以外誰も残っていない部屋は、ピンと糸を張ったように静かだった。窓の外も、まだ一日は動き出していない様子だった。


 枕の脇に、綺麗に折りたたまれた服が置いてある。

 俺は頭をぼりぼりと掻いて、布団から出た。とりあえず着ている寝間着を脱いでいく。

 半裸になると冷えた空気が肌に当たり、体をぎゅっと縮こませる。

 寒さから逃げるように着替えを済ませると、いよいよ気分が落ち込んできた。


 いつも着ているだらけた服とは違い、今日の為に用意してくれた正装だった。

 しかし、この服に着替えるだけで、なんだか息切れがしてくる。布団の上に座り込むと、このまま寝てしまいたくなる衝動に駆られる。


 誘惑に負けそうになっていると、頭の中で試験を受けると決めたときのことが思い出される。

 あのときは場の雰囲気に飲まれて了承してしまった。

 けれどその後が人生に岐路だった。詰所が黒い所であるということを、何故言えなかったのかということだ。

 何度も父親に抗議しようとしたが、試験対策をしてくれている父親に対して自分からその話をするのが恐ろしく、無念ではあるが、そんなことを言えるはずが無かった。


 入口の横には昨日準備していた荷物がある。肩掛けの付いた大きめのカバンには、試験を受けるのに必要な各種書類や着替えなどが入っている。出先で必要になるからと、幾らかお金も貰っている。そこに貯めていた小遣いを加えると、かなり贅沢が出来るだろうと思われる。


 あの日買ったグルメ雑誌は、昨日寝る直前にカバンに入れた。父親に見つからないようにするためだ。

 その代わり、昨日の夜まで使っていた試験対策の本は、書き込みや折り目が付いていて、雑誌とは比べ物にならない程、この20日間で使い込まれている。


 父親が仕事に行くと、嫌々ながら参考書を開き、一般教養や面接の応答の問題に取り組んだ。けれど覚えることがありすぎて、休憩と思って夕方まで寝過ごしたことがあったのだが、あの時は帰ってきた父親に、サボりを疑われ、遅くまで付きっきりで見張られてしまった。


 仕事が休みの時は朝から晩まで勉強のための生活を強いられた。逃げ出すために大量の水を飲み、何度もトイレ行ったりもしたが、それも長く続けられず、諦めて部屋に戻ることとなった。


 そんな甲斐もあってか、10日でマスターならぬ20日でそこそこマスター?位にはなれたと思う。


 疲れていても根気よく見守ってくれた父親には、感謝している。母親もサポートしてくれた。どこまでやれるか分からないが、もしかしたら合格できるかもしれない。そうすればニートは卒業となり、俺は詰所で働く人間となる。

 そうなるのが一番いい結果だろう。働かずにダラダラと過ごす日々を送ることがベストだとは思っていない。そこから抜け出すには、今回の採用試験はいい切っ掛けになるに違いない。それは間違いなかった。


 けれど詰所の条件が悪すぎる。


 明らかに危険な香りのする職場体制を思い出すたびに、俺は逃げ出したくなる気持ちで満たされていた。


 やりたくない仕事をする為にやりたくない勉強をする。これこそ時間の無駄というものだ。

 働くということは本当に時間を大切にしていると言えるのだろうか。


 まぁ、食べて寝て遊ぶためには、お金が必要なんですけどね……。


 それでも、と俺は思う。


 試験に合格するわけにはいかない。

 この20日間でやったことは、全て無駄にしなくてはならないのだ。

 この時間を惜しんで合格してしまうと、この先辛い日々が待っているのだから……。


 溜息を付いて、しぶしぶ立ち上がる。襖を開けて廊下に出ると、居間の方から朝食の香りが漂ってきた。お腹がグーっとなり、居間へと向かう。

 すでに父親と母親は席に着いていた。俺の分が置かれている席に座る。

「遅いぞ」

 父親から小言を言われたので、用意してたんだよと返す。

「着替えただけだろう」

 淡泊な声に少しむっとしたが、瞬時に閃く。


 ここでキレれば、詰所の文句も言えるんじゃね?うまくいけば、試験に行かなくてもいいんじゃね?


 良いアイディアだと思ったのも束の間、母親が「いただきます」と手を合わせたので、口に出すことはなく、3人でご飯を食べ始めた。


 いつもよりぎこちない食事が続く。

 それを破ったのは父親の一言だった。


「ヌト乗り場までは、俺も付いて行く。遅れたら一大事だからな」


 その言葉に、俺は父親を見た。父親もこちらを見ていた。


 ヌトとはその辺の人間よりも大きく、体重は押してもびくともしないほど重い、四足歩行の動物である。見た目通り力があり、荷車運びに人を載せて歩くことが出来る。意外と体力もあり、長時間動いても息切れしないのだ。

 そのため運搬や農業の仕事などに欠かせない存在となっていた。


 首都までは、そのヌトが引っ張る箱車に乗っていくということを、以前から聞かされていた。


 初めは、乗り遅れれば試験受けなくていいんじゃね?と喜んだものだが、じゃあ試験が終わって家に着くまでどこで暮らすのかと考えると、それを解決するだけの知識がない俺には難しかった。


 いや、1人で行けるよ、と口を開きかけたが、どことなく不安だったので「わかった」とだけ答えた。

 ここまで来て、行かないという行動を取ることは至難の技だった。


 けれど父親は、もしかしたら、1人だという俺の不安な気持ちを汲み取ってくれたのかもしれない。


 食事が終わると、父親はすぐに立ち上がり、壁に掛けてあった白を基調とした長物の羽織を身に着けた。その隣には少しだけ裾の長い同じ調度のものが、もう一つ掛けられている。

 それを眺めていると、父親はそれを壁から外してこちらに寄こしてきた。

 手に取ると、皺ひとつない新品のものだと分かる。


「あら、もう出るんですか?」

 母親が確認すると、父親は襟を正して答えた。

「少し早いが、余裕をもって行動した方がいいからな。相手が早く来ることも考えた方がいい」

 それは母親へというよりも、俺に向かって話しているように感じた。


 相手、というのはヌト車のことだろう。

 俺はヌト車を使ったことは無いが、ヌト車がほとんど時間に遅れることが無いことは、父親も知っているはずだ。今から出ても、ここからなら十分すぎる程時間がある。


 試験を受けると告げた日も、父親は仕事へと向かった。父親の仕事はよく覚えていないが、環境保全の何かしらだということは知っていた。この街で働くこともあれば、他の街に行って仕事もしている。

 もちろん首都にも行ったことがあり、ヌト車も使っているはずだった。

 父親が言うならその通りにするのが良いだろうと、自分を説得した。


 本当はギリギリまでのんびりしていたかったけれど、立ち上がって羽織を身に着ける。改めて、真面目な格好をするのが少し恥ずかしかった。

 そんな俺の姿を、両親が見つめている。昔感じていた視線に似ているような気がした。


 また恥ずかしくなって、荷物を取りに行こうと部屋へ向かう。後ろでは父親が玄関へと歩いていた。

 部屋に入り、脇に置かれているカバンに手を取りかけて、机の上に10日間マスターの本が置いてあることに気が付いた。

 置いたままにしておくわけにはいかないからと、俺は机に向かう。


 今では自分の体に不釣り合いな大きさになっている机には、本の他に見たことのない小動物のぬいぐるみが、文房具や小物たちと一緒に座っている。

 まだ俺が小さいときに父親から貰ったお土産で、白い毛の体に、所々黒い模様がある。毛並みは重力に逆らえず、くたびれたように見えるが、ほとんど触っていないせいかあまり汚れは無かった。


 部屋中の至る所に、自分が子供だったことを思い出させるものがあった。背の低い自分の姿が遊んでいる記憶が、目の前に現れては消えていった。


 本を手に取り、カバンに仕舞う。肩に掛けたカバンは、ずっしりと重たかった。嫌でも試験を受ける気持ちになってくる。


 父親の後を追うように玄関へと向かう。

 すでに用意が済んでいて、俺のことを待っていた。母親は家着姿のままだったから、ヌト乗り場までは来ないのだろう。


 靴を履く俺の背中に


「気を付けてね」


 と声を掛けてくれる。

 外に出るときはいつもそう言ってくれることが当たり前になっていたが、今日は何か特別な感じがして、胸の奥が、きゅとした。

 カバンのベルトを握りしめ、先に出る父親の背中を追う。


「いってらっしゃい」


 と母親に見送られて、父親と一緒に外へと出た。

 父親の歩みが少し早く、後ろに遅れた形となって付いていく。


 そこで気が付いた。


 父親の背を、自分の背が追い越していた。


 けれど、それ以外は到底追いつけていないことにも、気が付いている。


 一度家を振り返る。これまで何度も見た家が、もうすでに懐かしく感じていた。


 次に帰るときは、自分も少しは大人になっているだろうか。…いや、なってねぇな。


 そう考えながら、大通り繋がる道を歩いて行った。

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