没原稿『リミット(仮)』

 ◆ 結月由乃の途切れる日 ◆



 この世界に永遠なんてない。

 不思議の連続と数多の偶然は、重ねられた紙束として質量を表し私の人生を著すだろう。

 有限かつ絶対的じゃない運命に人ひとり毎の質量は異なるかもしれない。

 けれどそれでいい。

 例え私が人より長く生きられなくとも、構わない。

 その物語のページが少なくても、それが濃密であれば気にしない。

 冗長とした未来なんかより、ぎゅうぎゅうと押し込められた瞬間の方が大好きだ。


 だから、問題ない。気にしないでほしい。

 ――この物語はトゥルーエンディングなのだから。


 ◆ 一 ◆


「うん、じゃあまた……」


〝ああ、今日も失敗してしまった〟


 玄関先で腰を下ろし、スニーカーの靴紐を結び直している昭吾の後ろ姿を見つめ、刻一刻とタイムリミットが限界に近づいているのを理解しながら。

 二月も下旬に入ったこの頃の夜はまだ肌寒く、部屋着の上からカーディガンを羽織り、しかしユノはそう諦めてしまえば胸元をきゅっと握り締める。

 ――コツコツと爪先を打ち付けて履き馴染ませるその音が耳に残った。カチャリとドアノブを引いた音がしたと思ったら、途端に差し込む冷気が肌を突き刺して。

 身震いしては両腕を擦ったけれど、意外にもドキドキとしているこの胸が体温を暖かくしてくれていて心地よく覚えてしまう。あと、焦燥感も。

「じゃあな。今日はあんがと」

「うん。こちらこそ」

 まだチャンスはある。今なら言えるはずだ。失敗しただなんて早々に諦めなくとも、今ならきっと言えるはず!

 ……けれども、ユノには勇気がないのだ。

 胸のうちの葛藤をその小柄な体躯に収めて、努めてユノは冷静に別れの言葉を告げる。

〝今日はこれで終わりでも、また来週にでも会えるんだから大丈夫だよ〟――だなんて、自分自身に言い聞かせては、自分のことを信じきれないで。

 そんな感覚がどうにもキライで仕方がなくて、たった一言言ってしまえば済む話なのは理解しているのだけれども。

 それが出来たら苦労していないのが本音なわけでいて。

「大丈夫? ユノ」

「うぇっ? あ、ううん、なんでもないよ。なんでも……うん。大丈夫」

 俯き加減になってしまったユノに、肌寒い空気へポツリと感想をこぼして外を見渡していた昭吾が振り返って訊ねてくれる。

 けれど、やはり踏み出せない。こればっかりは仕方ないと、我ながら自分自身が嫌になる。

「そっか。んじゃ、おやすみユノ」

「おやすみ。昭ちゃん」

 昭吾の支えを失うと自然、閉まろうとする玄関扉に身を乗り出して押さえ、玄関から遠ざかる寒さげな昭吾の背中を見送った。カンカンと金属製の階段を踏み締める音が響き、いよいよ今日はもう終わり。

 嘆息にも似た長いため息を吐けば、ずるずると引き下がるようにユノは扉を閉めた。

 崩れ落ちては、肩をがっくりとさせて。


「好きって言おうと思ったのに、言えなかった……っ!」


 ――結月由乃と朝桐昭吾の交際は大学のとある学科で知り合うことから始まり、一年二ヶ月。歳のわりには純情な二人のその進展速度はとても緩く、未だ同棲には至れていないけれど月数回のデートは行う。春休みに入ればなおさらに。

 今日だってその日で、今回は自宅デート。昼間二人で近場のショッピングモールから買ってきた食材を、ユノの家でユノが調理するという……不安も気恥ずかしさもあったけれど充実した一日だった。

 チャンスは何度かあったと思う。

 さっきだってそうだ。見送る時に一言、ただ一言、たった一言「好き」と言えば今日はもっと幸せで忘れられない日になったかも知れないのに、ユノは言えなかった。

 理由は本当に単純で――彼女が極度の人見知りであるからである。

 苦節十数年。小学校低学年まではとても明るい活発な少女であったのだけど、恥じらいを覚えるにしたがって自分を主張することのない地味な子へと移り変わり、気付けばコミュニケーションとはなにかを考えるようになり。

 大学に入れば、少し自分を出してみようとサークルに参加、知人も出来たけれどエンジョイとまではいかず、細々とした大学生活を送る。

 ――そう、ユノは、結月由乃という人物は、人見知りを拗らせて自分に素直になれなくなっていた。


「言えない言えない言えないよぉぉ~~~! 恥ずかしいもん!」

 今日一日や、これまでの付き合いのなかで、完全にタイミングを逃している気もした。どこか今更感や雰囲気を考えて、唐突に言えば恥ずかしくなるのも恥ずかしく思われるのも躊躇ってしまう要因だった。

 じたばたと七帖ワンルームのリビング兼寝室奥に鎮座するシングルベッドへ向かい、ダイブするように沈んでは、両足をブンブンさせながら顔を枕に埋めて身悶える。

 穴があったら入りたいくらい、後悔と恥ずかしさと興奮と不安がある。

 ごちゃまぜな心は年頃の乙女にとって、恥ずかしい試練といえて。

「あー……昭ちゃんカッコいい。ものすごく優しい。まじ惚れる。大好き」

 半日、昭吾と過ごしていたこの部屋は昨日とは全く変わった空間へと変貌している。

 自分の家であるはずなのに、微かながら残る昭吾の匂いにドキドキしてしまう。まるで自分の家ではないようで、ぜんぜん落ち着かない。

 この身体のドキドキがものすごく辛くて、枕をぐぐうっと抱き締めて発散して、ぽつぽつと言えなかった分の感情を独り吐き出していく。

 けれども気持ちは落ち着かない。本当に切ないと思う。

 ただひたすらに、今日という日常を噛み締めて。

「ニャンゴロー……」

 興奮冷めやらないが、しかし消沈したように棒の字になって暫く。

 だらしない顔を隠すように枕とシーツにサンドイッチされたままふいにそう呼び掛けてみると、遠くでチリンと鈴が鳴った。

 次いで、高いところからシュタッと着地する肉球の音と飛びきり大きな鈴の音がすれば、それは一定の感覚で音を揺らしながらユノの元へ擦り寄っていくのを感じる。

 またチリンと大きく鈴が鳴った。同時に、頭部を隠したユノの背中に乗る重み。

「ふにゅう」と幸せに押し潰されて声が漏れてしまう。

 慣れたようにユノの背中を歩み、丁度肩甲骨下の辺りに来ると丸くなったのはキジトラの雑種、ニャンゴローと命名されたペット。今時珍しいだろうか、このアパートでは動物OKと知るや否や、実家から連れてきたのが懐かしい。

 そんな長年の友であるニャンゴローの体温はとても高くて、肌寒いこの頃にはその温かさに幸せを覚えてしまうがカイロのような熱に汗ばんできた。

 また、一日の出来事といい時間帯なのがものすごく眠気を誘ってきて……。

「にゃーんごろー……」

 それと、ほろ酔い加減でもある。

 あんまりな暑さで、逃れるように寝返りを打って仰向きになるとニャンゴローは背中とベットの間に一度落ちた。が、ユノの腰をよじ登ることで無事危機を脱し、少し警戒するように離れてこちらを窺うのを感じる。

 しかし、そんなのっそりとしたユノの動きが止めば、呼び掛けたのもあってまた擦り寄ってきてくれた。

 そんなところがいじらしくて愛らしいと、メロメロになってしまうのだが。

 大の字に寝転がるユノの広げる両手、その片側の懐に丸くなって落ち着いた。

 頭の上にあった枕もいつの間にかベット下へ落ちていて、にへらっと気持ち良さそうな、それでいてだらしない表情を浮かべる彼女に部屋の明かりが照らされて現れる。

 眼を開けてみれば眩いばかりなLEDライトに目頭を刺激されてイヤになり、胸元へ尻尾をゆらりゆらりと撫でつけるように動かすニャンゴローをぎゅーっと掬い上げ抱き締めながら再び横の体勢に。

 そして。

「~~~!」顔をうずくめた。

 チリンと鈴を鳴らして少しビックリした様子で逃げようとするニャンゴローを、逃したくなくて抱き締める。

 温かい熱ともふもふな毛、ちょっとデブなのか柔らかいお腹を堪能する。

 そんな、とても愛らしいニャンゴローに声にならない萌えを確かに感じた。

〝めっちゃかわいい‼︎〟

「にゃんごろー!」

 ミーア、と返事が返ってきて。

「にゃおーん……」

 ミャーォ、と間延びした嬌声にきゅんきゅんする。


「にゃんっ! にゃんにゃんっ♪」


「ユノ?」「――はっ!」

 ものすごくテンションが上がり、両手を丸めて招き猫のように構えたにゃんにゃんポーズでも取ってあざとくいれば、ふいに昭吾の声が聞こえてピシッと凍り付いた。

 静寂のなかでユノの拘束を免れたニャンゴローが鈴を鳴らしながらどこかへ去っていくのが印象深い。

「……しょっ、昭ちゃん……。な、なんでいるの?」

 さりげない速度で、ギギギと構えた両手を下ろし。振り向いては起き上がり、無理矢理ながら平然を装う。

 いち早く逃げたニャンゴローに心のなかで文句を覚えつつ。

「いや、スマホを忘れててさ。あ、ごめん勝手に入って。インターホン鳴らそうと思ったんだけど鍵かかってないっぽかったから」

「あ、ううん、それは別に……。ほっ、他に何かあるのかな?」

「や、ごめん。大丈夫。じゃあ次会えるのは来週、かな。またね、ユノ。おやすみ」

「う、うん! おやすみしょうちゃん……っ」

 絶妙にぎこちないこの空気はやはり見られてしまったのだろうか、どうなのだろうか。

 問い質したい気もあるけれど、もし見られていたら恥ずかしくて死ねるので、触れずにいるのが一番かもしれない。

 ……お酒が入っているとは言え、猫にはしゃぐ姿を見られたとか一生の恥だ。お嫁にいけない。

 チラッと廊下の方にフリフリと揺れるキジトラ模様の尻尾が見えて、『お前のせいだぞ~!』と八つ当たりにも程がある念を送れば、危機でも察知したのかチャリンと鈴を鳴らして隠れてしまった。

 肩を落とした嘆息一つ。

「もう他にないよな……」

 リビングのテーブル下にさりげなく置かれていた自らのスマホを回収した昭吾が、玄関へと歩きながらコートのポケットをパンパン叩いて他に忘れ物がないかを確認している。

 その様に微笑ましいものを感じてちょっと笑顔を浮かべていれば、口を尖らせた昭吾に「なんだよー」と文句を言われてしまった。

 ――ひょっとして、これはチャンスなのだろうかと。

「あ、あの、昭ちゃん」

「うん?」

「あ……えっと」

 ドキドキする。声音が不安定だ、ざらつきを覚える。喉が渇いた。なにか飲みたいと思ってしまうが、ダメだ。それをする余裕がない。

 ちゃんと言えるだろうか。言い間違えたらどうしよう? 大丈夫かな、変に思われるだろうか。

 急に言ったら驚かれちゃうかも。チャンスかもと思ったけど、やっぱ唐突すぎるよね……? こんなこと言われたら昭吾は、困っちゃうかもしれない――。

「どうかした?」

 やっぱり。

「ううん、なんでもない。電車逃さないでね」

 ――難しいのだ。

「……?」

 一度深呼吸すれば、極めて冷静に。普段のまま、微笑んで。

 なんでもないような振りをすれば、昭吾も言及しはしなかった。

 ユノのそういう癖に慣れているのが正直な所なのだろうが、しかしユノとしては〝興味がないのかな……〟だなんて面倒くさい邪推を覚えてしまう。

 どっちが間違っているかなんて明白なのに、複雑なこの心境はどうにも居心地悪くてキライだ。

「おう、ありがとう。今日はご馳走さまでした、楽しかった」

「ふふ、何回言えば気が済むの。おそまつさまでした」

「いやだってさ……とと、時間無いな。じゃあ真面目にまたな、ユノ」

「うん! バイバイ」

 下らない会話が少し盛り上がって、次の電車が近くなる。別れの挨拶を交わし、最後にチラリとユノを見ていった昭吾のその表情が妙に心に残っていて。

 今度はアパートの階段を降りる音がどこかリズミカルにも聴こえた。

 気のせいかもしれないけど、改めてちゃんと見送れたのは良かったなと嬉しく思う。

 扉を閉めて、部屋に向き直って、ホッと息吐いて。


〝――ダメでした!〟


 崩れ落ちるような失意体前屈で嘆く。うわーんと泣きたくなるような自分の意気地の無さをものすごく恨んでしまった。

 せっかくのラストチャンスだったのに! サービスチャンスだったのに!

 いや、ふいにしたことはまだいい。悲しいかな、よくやってしまうことだから。

 それよりもここまで自分に素直になれない自分がとっても腹が立って仕方がないのだ!

 玄関で茫然とそのまま佇むユノへ、ミャオーと鳴いたニャンゴローがとてとてと近づいてきて、腕比べを付くユノのその左手に巻き付くように擦り寄った。

 その媚びるようなご機嫌取りに身をほだされてしまいながら、しかし。

「お前なー……なんで逃げたんだよー……寂しいじゃんかよー……」

 見捨てたことは忘れない。


 ◆ 二 ◆


  ――この人生は、常に思い付きが基本なのだと自分自身思う。

 だから、こんな夜更けにコンビニへ行こうとふとした考えも、それを是として行動に移した現在も、あまり不思議には感じなかった。

 言ってしまえば運命の巡り合わせ。

 大抵になにか意味があるというのが、ユノの持論だ。

 だから、この偶然が必然に置き換わる瞬間をいつも大切に思う。


「ありがとうございましたー」

 くたびれた様子の夜勤アルバイトに見送られ、明るい光に集る小虫を気味悪く思いながら肌寒い駐車場へと躍り出る。

 その日の夜。時間にして、二十二時も終わる頃。

 疎らに止まる車の間を抜けるように歩道へと出ればすぐに横断歩道があり、信号機の緑光を待ちわびながら吐く息の白を楽しむ。

 寒さに縮こまりながら横断歩道を渡り、用水路沿いの夜道を進んでいく。ザブザブとした川の音が何度も何度も繰り返して耳に残った。

 最近、近所には不審なバンが近隣を走っている噂を聞く。暗闇にはどこか不安を掻き立てられるけれど、夜という時間帯が嫌いなわけじゃないし、数は少ないものの隣を通う自動車のヘッドライトとテールライトは眩いばかりに彼女を押し出しては導いてくれるので、安心だ。

 そこまで心配するものでもないと思っていた。

 そんな、ユノに光をもたらしてくれていた大通り沿いから住宅街に入る脇道へ。

 民家のなかへと向かっていくこの道はさすがに、この時間だと寝静まったように真っ暗だ。

 それでも、冬の空は空気も澄んでいるようで見上げる空は明るい。ぽつぽつとした星と大きな月明かり、それとちょっとの街灯でもあれば、十分だろう。

 しかし寒さは耐えがたかった。一際冷えた空気が肌を撫でれば大きく身震いして両腕を揉み、そんな夜空の寒さを考慮して本来買う予定の無かった肉まんを一つ。

 こんな夜更けにはむはむと頂くことに、どこか罪悪感を覚えつつもそれを楽しく思う。

 ユノのアパートは近場のコンビニから徒歩七分ほどの位置、住宅街のなかほどにあり、駅までは自転車で十五分と行ったところ。家賃はそこそこ、特に不満もなければとりあえずは住んでいられるようなお家だった。

 近所には、小規模ながら公園もあったりする。鉄棒とブランコ、中が空洞で上と前後に穴が開いた球体状のオブジェが一つ。たったそれだけの奇妙な公園だ。

 道路沿いには紫陽花が植えていて、梅雨頃は綺麗だったりする。写真を撮るのが最近の趣味だ。

 パクっと残り一口の肉まんを口へ放り込んだあと、夜だからかどこかいつもと姿の違う公園を眺めていると、ふいに。

「あれ……え……」

 目敏くもそこにいたナニかに気付いてしまった。

 ぎょっとして立ち止まり、咄嗟に後ろを向いて眼を瞑る。その立ち止まった拍子に肘に吊るしたビニール袋がガサッと鳴って、半ばセルフにも恐怖心を高めあげてしまいながら。

 五秒くらいそのまま、見間違いだと自分に言い聞かせてから恐る恐る眼を開けて、次いでにスマホのバックライトを灯して。

 振り返り、ナニかに光を突き当て、その正体を暴いてみせようと意を決して見れば。

「な、んだ……」――ホッとする。

 いや、ホッとすることも出来ないか。改めてその異変性に不自然な心地を覚えながら、公園の敷地へと足を踏み入れてそのオブジェへと寄った。

 ――そのなかで俯き、ユノの足音にもバックライトの光にも気づくそぶりを見せないで一人孤独にいるのは、小学五年生くらいの男の子だった。

 息を吸い込み、意を決して。

「……あの、どうしたの?」

 ふいに掛けられた声に少年はぴくんと反応して面を上げた。バックライトの光を受けて、途端眉根を潜めて嫌がる少年にすぐ光を足元へと落とす。

 眼を腫らしているところを見るに、泣いてでもいたのだろうか? 怪我は見当たらないし、だとすると迷子か家出?

 ここが住宅街であることを考えれば、どちらかと言えば家出なのだろう。着の身着のままのようで、特に何かを持っている様子もないし、近所の子だろうか。

 残念ながらユノは近隣に詳しくないため、助けになれそうもなかった。

 だから。

「近くの交番まで、行ってみよっか。大丈夫だよ」

 こんなことは初めてで、正直どうすればいいのか良く判らない。だけど、目の前のこの小さな少年を安心させるべきだとは思って、優しく声掛けながら手を差し出してみると。

 交番、という言葉にビックリするような挙動を見せると、彼は何を思ってか、

「あっ、ちょ」

 おもむろに立ち上がって逃げようとする、その少年の手を繋ぎ止める。

「どうしたの? お姉さんに教えて」

 何故だろう、心配だ。どうにも胸がざわついて仕方なく思う。近ごろ不審者の噂があるから? それとも彼が交番というワードに拒否反応を見せたから?

 悪いことをするような子には見えないが、どちらにせよ十一時にもなるこの頃の公園で一人踞っていたのはおかしいと思う。

 暗闇のなかでも輪郭を掴める少年の眼を強く見据えて、問うてみる。

 掴んだその手は、とても冷えていた。二月の下旬、冷えない方がおかしい。そのあんまりな体温に、温めてあげたく思いもう一方の手でその手を包みつつ。

「――なんだったら、私の家に来てみる?」

 交番へも届けられず、ここに留まられたり、どこかへ逃げられるよりは、ぜんぜん良い。

 若干未成年を自宅にあげようとするこの行為に不安を覚え、自分のなかでそうやって正当化しつつ、でも思ったほどに正当化もできないで冷や汗を掻いてしまいながら。

 昭吾がもしここにいてくれればきっと最善策を考えてくれるから、良かったのだろうけど。ユノとしてはこういう類いの答えを見つけるのがどうにも不得意で、これ以上考えることがどうにも出来ない。

 が。

「……うん」

 了承を受けると、いよいよ自分の軽率な選択に後悔を覚えてしまう。


 ◆ 三 ◆


「そこらへんでゆっくりしてて」

 その後。

 招き入れた少年をリビングへと誘導し、ユノはコンビニから買ってきたものを収納しながらキッチンへに立つと、余りのコップがあったはずだと食器棚を覗く。

「飲みたいものある?」

 ちらりと彼の方を見てみてみれば、どこかソワソワしてる様子はあっても答えてくれそうにはなかった。

 仕方ないかと嘆息一つ、取り出したマグカップと干されていた自身のマグカップを回収すれば冷蔵庫の中から低脂肪牛乳を取り出して注いだ。

 適当にインスタントの紅茶でも良かったけれど、きっと寒かっただろうから暖まりやすい飲み物を作ることにする。

 本当ははちみつの方がなおのことポカポカすると思うけれどあいにく切らしてしまっているようだ。

 冷蔵庫からイチゴジャムと取りだし、果肉多めに小さじ二杯よそうと更に砂糖を小さじ一杯。

 もちろん牛乳は冷えているから砂糖なんて混ざらないけど、軽くスプーンを踊らせてからラップを掛けた。

 六〇〇ワットに設定したレンジのなかに二つのマグカップを入れる。タイマーは一分三十秒にしておいて。

 その間、ユノはちらりと行儀良く待機する少年を横目見てから大学の数少ない友人へSNSでメッセージを飛ばす。

『急にすいません、男の子拾ったんですけど、こういうときってどうすればいいと思う?』

 すぐに返事は来た。

『児ポ案件で草』

 ……この友人は使えないとスマホの電源を落とすことで無慈悲に判決を下す。手をバッテンにして妙に煽る表情のウサギのスタンプがイラっとした。

「まったくもう……」

 後でちょっと文句を言おうと思う。

 なんて思っていれば、レンジが鳴ったので頭をふりふり。

「あちちっ」

 よく温まってくれたようだ。ラップを捲り、途端込み上げる湯気を避けながらスプーンでよくかき混ぜれば、白かった牛乳は綺麗な薄紅色へと変貌していく。

 イチゴジャム入りホットミルクの完成。

「お待たせ」

 初対面でも構わずに腹を見せるニャンゴローのお腹をわしゃわしゃと撫でて楽しんでいた少年に声を掛け、イチゴミルクを差し出す。

「あ、……りがと」

 彼がマグカップをユノからそう受け取っている合間、チャリンと鈴を鳴らしたニャンゴローが彼の膝上から退くとユノの元へ寄ってきてくれた。

「ぁ……」ともの悲しそうな声を漏らして手元から居なくなったことを残念がる少年が見えて、少し面白く思ってしまいながらニャンゴローの喉元を撫でる。

「良かったらこっちおいで」

「う、うん……」

「猫好きなの?」

「うん。好き」

 そう言いながら、ひゃ~~~!と、蚊の鳴くように細い歓声を口から洩らしてニャンゴローを見つめる彼は年相応にも見えて。

 まるで壊れ物でも触るかのように慎重な手つきでニャンゴローを愛でる彼の眼はとてもキラキラしていて、ものすごく楽しそうにしているのが伝わる。

「なんでこの猫、靴下履いてるの?」

「これね、靴下猫っていうの。ソックスタイプ。キジトラではあるんだけど、柄が君の言う通り靴下に見える猫のことをそう呼ぶんだよ」

「へえ……」

「かわいいよね」

「うんっ、かわいい……」

 気分でも高まってるのか、ムフーッとちょっと鼻息荒くなっている姿を見て思わず吹き出すように笑ってしまう。

 始めこそ心配していたけれど、ここまで元気なら大丈夫そうだ。

 と、見ていれば。

「な、なんだよ……」

「あは、ごめんごめん。なんでもないよ」

 睨まれても先程までの姿があるせいか、あんまり怖く思えない。笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながらそう断りを入れる。

「はー……そうだ、君、名前は? 私は結月由乃。この子はニャンゴローだよ」

「あ、えっと、空。……よろしく?」

「うん、よろしくソラくん」

 疑問符は現状から不自然にでも感じたのだろう。

 それはさておき、だいぶリラックスしてくれているようだ。会話が一旦止むと、熱いイチゴミルクを啜る音とマグカップをコトリとテーブルに置く音が際立つ。それと小さな鈴の音。

 少年、もといソラはニャンゴローを愛でるのに釘付けで、その幸せそうな顔を見てるとなんだかこちらも幸せになる。

 猫の扱いに慣れているのか、ニャンゴローはいつの間にか絆されているようで、ユノが触っていなくてもゴロゴロと喉を鳴らしているのが判る。

 ユノは暫くそんな彼らを、微笑ましいものを見るように見守っていた。

「さて……ソラくん。何があったのか教えてもらってもいい?」

 そろそろ話してくれるだろうか。ふいに尋ね掛けてみると、再度マグカップへと伸ばしていた手がピシッと固まることにちょっと申し訳なく思う。

 少し間をおけば。

「ゆ、さっ……ね、お、っゆぁ……」

「あは、ユノでいいよ」

「……ユノ姉は、学校行かない人のことどう思う?」

「不登校ってこと?」

「うん」

 うーむ、と呟きながら俯き、考えてみる。ちらりと彼の顔を覗いてみれば、眼を泳がせて不安がっているように見えた。

 この質問の意図は、もしかして彼自身の事なのだろうか? とすると家出はその事についての喧嘩とか?……いや、変な邪推はやめるべきだろう。

 ユノ自身に問われたのだから、ユノの心で答えなければ。

「一般的な価値観として、もったいないかなとも思うよ」

「………」

「それは、……いじめとか?」

「……違う。行きたくないだけ」

 尻下がりに声音が涙声へと移り、頭を落として眼を合わせようとしないソラの姿はなんとも言えないような苦悩が見える。

 そんな彼に、まどろみの内にいたニャンゴローはチリンっと鈴を鳴らして急に起き上がれば心配するように擦り寄った。

 この短時間でのなつき様に〝浮気者め〟と思う反面、辛そうなソラを支えてあげてねと微笑ましく見守る。

「そっか。ま、人生は色々あるからね。そう思うのも、悪くないと思うよ。うん、人生のスパイスだ」

「……そんなもん?」

「うん、そんなもん。ただし、自分で責任を持つこと。わかった?」

「………」

「へーんーじー」

「……はい」

「ごめんね。私ちょっと酔っぱらってるんだよ」

 エヘヘと笑いながらユノ。その忠告は、恐らく説教という態を取っていればソラも反発していたかも知れないがユノが自然体であるからか、素直に呑み込むことができた。

 人生は様々だ。価値観は様々だ。一介の赤の他人に口出しできるような世界じゃない。

 彼がそう思うなら、彼が思うままに選ぶ道が正解なのだろう。この『思うまま』には、『見て聞いて自分に残されている選択肢を理解した上での最終結論』という意味があるけれど。

「無知ほど恐ろしいものはないが、無知ほど楽しめる人生もない」

「……?」

「んん、私の大好きな書籍の引用。いい言葉だと思わない?」

「思う、けど。どういう意図?」

 どういう意図、と来たか。ちょっと困る。

 悩むようにイチゴミルクを煽り、先程の断りのわりに酔いのない頭で言葉を選んでみる。

「ようするに、ソラくん。人生は短いよ、それは理解できるでしょう? その人生のなかで、どれくらいの幸せがあるかな。どれくらいの不幸があるんだろう? 未来を見据えてみるんだ。妄想してみて」

「………」

「ちょっとウルサイかもしれないけど、聞いて」

 重々しげな首肯を受け入れ、苦悩する彼のためにも『いい答え』を見つけてあげたいと思う。

「まずは就職だよね。最近何かと学歴が求められちゃうからなぁ大変だ。でも通信制の高校とかもあるし、大学は何歳でも入れるからね。勉強だってやろうと思えばいつでも出来るよ」

「ツーシン?」

「うん。高校にいってない人でも高卒認定書とか貰える場所。ともかく、不登校でも道はあるんだよね。言っちゃえばフリーターの方が稼げるとも言うし、時給少なくても企業より条件緩いだろうし。安定は、しないだろうけど」

 不必要な人材はあり得ない。SNSもある今の時代、昔よりももっと自由度に溢れていて、その性質はピンからキリではあるだろうけれど心が負けない限り生きていけるはずだ。

「まぁ手堅い人生とは言えないし、迷うことも多そうだよね。自由なだけ責任はあるから」

「………」

「まぁ、楽しいとは思うよ。楽しいと思えるうちは」

「それが、無知ほど楽しめる人生もない、に繋がるの?」

「んーん。そうだけど、そうじゃない。もっと深い言葉で、この無知っていうのは運命とも置き換えられる」

 ――運命ほど恐ろしいものはないが、運命ほど楽しめる人生もない。

「未来は誰にも予測できない。選択肢があるようで、その実選択肢はないわけで、実際は決まった通りに道を進む。私が何をしようと、君が何をしようと、それは必ず運命だ。裏切られることはない。だから、恐ろしいし、面白いよね」

「……それって、なんかすごいバカっぽい。悩むことがただの無駄になる」

「うんうん。でもこれだって、どっちに進もうと全てが筋書き通り。悩むことも知ることも、全てを含めて運命様の思い通り」

「……判んない。そんな考え方、納得できない。つまんないと思うし」

「私もそう思うよ。でもね、この考えで大事なのは、自分の存在の大きさを知ることなのだワトソンくん。全てが大衆の流動性のなかで流れていく。あらゆる思考が折り込み済みで、決定済みなそのなかで」

 少し間を作り、息を吸って、彼の眼を見据えた。

 それなりの読書家としての、行き着いた結論を唱えるために。

「生は謳歌するべきだ。目の前だけを直視しろ。真剣で居続けろ。だけど、ふとした時に、今までの選択に後悔してしまいそうな時に、こうやって考えてみる。間違いなんかあり得ない、今ここに立っているソレこそが、正解なんだと胸を張れる」

「………」

「未来は未知だ。選択は未知数だ。運命様は全てを知っているから恐ろしくないし楽しくもないだろう。そのなかで、無知を体感できるのは私たちだけなんだ。特権なんだよ」

 その思考回路は、一種の諦めとも言える。どの未来が待ち受けていようと、どの間違いを犯そうと、仕方ないじゃないかと言ってしまえるだけの価値観ではある。

 そんな考えはしてほしくない。

 また、これは、ユノがそれなりに幸運であるからなのかもしれないが、

「人生はいつだってプラマイゼロに収束するよ。傾いた天秤はいつか必ず戻るんだ。だから、希望を持ってたって損じゃない」

 後悔すれば、人生に迷えば、しかし思い直せば、これは未来への布石なのだと夢見れる。希望を持つ条件に足り得るのだ。

 しかし。

 ――けれど、と言葉を繋ぐ。

「責任を放棄すれば、天秤もまた錆びてしまう。動かなくなってしまう。だから、正しくあり続けるんだ。そうすれば、きっと、君がどんな未来を歩もうと、楽しめる人生が待っているはずだから」

「………」

「ごめん、スイッチが入った。けど、覚えておいてほしいよ。私一個人の価値観、人生観なんだ。コレが、君の思考にどこまで影響を及ぼすのか判らない。受け入れられないならそれでいい。その上で、自分が知る価値観とは全く異なる一つの価値観を知った上で、君は君の道を選ぶべきだと、私は思う」

「うん」

「責任だけは忘れちゃダメ。いつだって自己責任! 君に覚悟があるならば、君の人生は無限大なんだ! これが、お姉さんの助言だよ」

「……うん、……うん。わかった」

 ――そうだ、人生はなにが起こるか判らない。そして、とっても短い。一寸先は闇で、どうなるかは読めない。だから、全ての偶然を必然性の糧として血と肉と骨にして、等身大の人間へとなっていきたいと思う。


 今日、ユノとソラは出逢った。

 その事に、意味を見出だしたい。


 ◆ 四 ◆


 それから。

 色々な話をした。と言っても、ユノが一方的にソラへ質問していくだけだ。子供だからか分かりやすく、反応によって掘り下げたりスルーしたり。とにかく適当に質問して、まだ完全には心を開いていないソラのぽつぽつとしたコメントにリアクションする程度の些細な会話を繰り返す。

 それでも、すっかり飲み干されて並んだマグカップが夢中の程を教えてくれた。

 いくつか質問してみれば、判ってきた事もあれば、複雑だなぁと思うところがあった。詮索するつもりはないのでほどほどの情報しか知らないことに変わりはないが、それでもだ。

 例えば、将来の夢。少しの熟考のあと、思い付かないと首を振られた。趣味も趣味と言えるほどのことはなく、友達との付き合いで何かしても熱中することができないからつまらないとも言っていた。

 それは少し寂しいことだ。言ってしまえば素のままで、本人はその味になれてしまっただろうがユノ始め他人から思わせれば味気ないと言われるだけの寂しさがある。

 趣味も夢も人生のスパイスだ。なんでもいいから作るべきと、お節介ながらも言わせてほしい。


「……――好きな人もいないの? ひえー、私なんかその年の頃は誰彼構わず好きになってたよ。お恥ずかしいけれども」

 恋に恋するお年頃と言うやつ。

 そのおませちゃんな時代の癖が抜けきっていないのか、今でも惚れっぽい所はある。……素直になれないから常に奥手だったりもして、そのおかげで苦い記憶もあったりするのだが。

「好きになる人は一人でいい」

「……お、おおー……!」

ちょっと予想外すぎてリアクションが遅れてしまった。照れながらもそう宣ってしまうソラの硬派な感じが少し可愛く見える。

 少し古い固定観念にも思うけれど、今の時代はこれくらいの方が幸せに生きていけるのだろうか。

「そ、そうだね、いいと思う。かっこいいよソラくん」

「……バカにしてる?」

「ややや、してないしてない。うん、男の子はそれくらいはっきりしてる方がかっこいいよ。ちょっと胸が痛くなるほどド正論」

 友達にチョロインとまで言われていた自分の過去を心苦しく思いつつ。

「そういう姉ちゃんはどうなんだよ。好きな人いないわけ?」

 ぶすっとむくれながらも、言いながら照れたのか遠い方を眺めながら訪ねられる。

 その調子をウブだなぁと微笑ましくも思いながらここは正直に、こともなげに答えた。

「これでも彼氏がいます、どやっ」

 いつの間にかユノの話になってしまったのはさておいて。

「どういうとこが好きなの?」

「うううーん……そう訊かれると困るなぁ」

 考える。昭吾に対して、どこか抽象的に好きなところはないのだ。いつからか好きでいた、と言うだけで、きっかけは彼からの告白だし、それ以前は知り合い未満の関係であまりよく判らない。

 そう言えば、と、とある小説にはこんな事が書いてあった。

 恋をするのはきっかけであって行程ではない。対して、愛は一緒にいて培われるものだと。

 それは愛着とも呼び、人に対して覚える思い入れが全てで、好きと感じる第一印象だったり抽象化した一部分は愛とは直結しない。

 つまるところ。

「ん~~~っ、全部?」

 あるいは、恋をしていないことになる。

「ウザ……」

「ブッ! ちょっ、訊いといてそれは酷くない⁉︎」

「なんか面白くない」

「まったくもう……」

 イヤ、わかる。ユノだって、例えば恋バナになった時、彼氏持ちの友人が上記のような惚気方をされたらと考えるとシラケるのも理解できる。

〝だけど、だけれど、言わせてほしいなぁ!〟

 妙な精神状態でちょっと悔しくて、昭吾との思い出を指折り数えながら努めて好きな点を探した。

 補足すれば、大好きに違いはない。ただし(恐らくユノが今まで素直になることもなかったからだろうが)言葉にするとしたらという意味で、昭吾のどういう所を挙げればいいのか悩む。

 どうせ、ユノがどれだけ言葉を尽くそうと、ユノの愛を誰かに把握する事なんて出来ないのだろうし。

「ちょっと待って、いま考えてる」

「や……もう別にいいけど」

「うるさいっ」

 こうなれば意地だ。この生意気な少年に昭吾の素晴らしさを叩き込んでやる。なんでこうなったのか自分でも判らないけれど。

 んー、と口元に人差し指を当てて判りやすく悩み込む。初めてのデートは、確か映画館だった。当時はデートという認識も薄く、観に行ったのがアクション映画だったこともあり友達感覚が強かったのを覚えている。

 色々とサブカルチャーの好き嫌いが似通っていたのもあり、仲良くなるのに時間は掛からなかったのだろう。

 たったといったらおかしいけれども、毎日が充実した記憶でいっぱいで、全てを思い出せない。全てが楽しかったことは明瞭として心に刻まれているけれど。

 日記をつける習慣があったので、それでも見返せば思い返せるのだが、さすがにそこまで全力で洗い晒したらソラが真面目に引いてしまいそうなので行動には移せなかった。

「優しいところとか……」

「五分かけてそれなの?」

「むむむ」

 やばい、やばいやばい。これ以上悩むと昭吾をあまり好きじゃないように思われちゃう。それは違う。

「でも、一番好きなところはやっぱり優しいとこかな」

 昭吾の人格になら、惚れているのかもしれないと、ふと思って。

「言っちゃうと、バカなんだよ。損得勘定が出来なくて、自分にできることなら誰かのためになんでもやっちゃう。尽くしちゃう。たまに自分を殺しちゃうのがほんとバカなんだけどね。我が儘ならぬ他が儘かな」

 ちょっと上手いこと言えた気がしたのでドヤ顔を浮かべつつ。

 昭吾という人間は、果てしないほどに都合が良い生来の善人で、自身の利益になる、ならないを考えることが出来ない。人を見る眼は備わっているからか、そんな性格をしておきながら騙されたことも実際に尽くして損に回ったことがないというのだから驚きだろう。

 幸運、と一言言えば失礼だが、昭吾は確かに持っている人間で、ユノはそんな彼の性質に尊敬していると言えるだろう。

「私と昭ちゃんは、実は相性良くないのかもね。お互いが消極的で空気を読んで譲り合う性格だから、どっちかが我が儘になんないと話が進まないこともあるよ。頑固でさ」

 似た者同士。けれど、それが恋人としての相性というかというと難しい。お互いがお互いの気持ちを理解していながら性分ばかりはねじ曲げれないからだ。

 けれど、それでも、昭吾と一緒にいたいという意地は心の深奥に刻んでいる。

「そんな男がいいの? ユノ姉は」

「言い方言い方っ……。まぁ、好みのタイプかと聞かれたら、また違うよね。でも昭ちゃんのことは愛してるんだ。難しいんだよ、判らないでしょ?」

「もっとはっきりさせればいいのに」

「それが出来たら苦労しないっ、てね」

「じゃ、それをショウチャン? カレシに伝えてみれば?」

 ひどく投げやりにそう提案されてドキッとする。

 それも出来たら苦労しない……。

「恥ずかしいよ!」

「僕にこんなに惚気ておいて⁉︎」

 返す言葉がなかった。しまった、だからちょっと不機嫌だったのか。止まらなくて、と言い訳したいところだけど言えるタイミングが掴めずに終わる。

「ほ、ほら、本人に言うってなると、恥ずかしいじゃない?」

「そういうもん? 恋人って言い慣れてるんじゃないの?」

「古典的なラブラブはしてないの……恥ずかしいでしょ!」

 ちょっと想像したら恥ずかしくなる。ちょっと待て、なんだこの少年は。急に饒舌になって。

「ウブなんだね」

「君絶対よくない言葉覚えてるよ! 眼を見て言うんじゃありません! 含み笑いするなぁああああ!」

 十も離れている子供に手玉に取られていると思うと悔しい以外の何物でもない。しかも、子供特有の顔付きか、生意気で憎たらしい表情に浮かぶどや顔が最高にムカッと覚える。

「もう! やめやめ、私の話は終わり!」

「タコみたいだね」

「うるさいっ!」

 覚えてやがれ、と妙な因縁を呟きながら、真っ赤っかにゆで上がったような顔の熱を感じるようにむにむにとほっぺを引っ張っては表情を正すよう努めた。

 少しどころじゃなく騒いでしまって、お隣さんに申し訳なく思いつつ。

 少しの時間をかけて、はぁーと息ついて落ち着くと、良い頃合いになっていた。

「さてじゃ、そろそろ行こっか?」

「ん……うん。ありがと」

 時計をチラリと見れば、時間は零時も越えた夜更けだ。一時間くらいか、青少年の活動時間帯的に問題アリアリだろうに、付き合わせてしまって大人として恥ずかしい。

 今さら気づいたかのように苦笑いで誤魔化しつつ、ソラと二人して立ち上がるとアパートを後にすることにした。

「ひゃー、冷えたね。大丈夫? ソラくん」

「うん……眠い」

「あは、ごめんね。お母さんに謝るよ」

 階段を下り、縮こまりながら向かうのはソラの家だ。渋るかとも思っていたが従順にも応じてくれたソラの案内を頼りに散歩して向かう。

 夜の静けさが異様に不気味だったけれど、握る掌は温かく。

「いや、それはいい。……あのさ」

「ん?」

「今度遊びに行ってもいい? またお話ししたい」

 立ち塞がるように回り込んで、意を決したようにユノへ頼み込むソラを受けて立ち止まり、思わず笑う。

 とたんにぶすっとした膨れっ面を感じながら、目尻の雫を拭いながらユノ。

「ふふ、いつでも飲み物準備して待ってるよ。近所だしね」

「そっか。そっか……んん。じゃあ、もう、なんでもない」

「ふふ、照れてるー。可愛いー」

「……仕返しのつもりならなってないから」

「にへへ」

 一期一会も良いけれど、こうやって偶然が未来へと結び付いていくのは堪らない。人生の拡大を感じてしまって、ウキウキする。

 顔を逸らすソラの頭に手をポンポンと乗せながら、判りやすく純情な態度を微笑ましく感じながら。

「後は少しだから、ここまででいいよ」

「ほんと? 私が着いてった方が、怒られにくいかもよ?」

「家出は僕の原因だし、姉ちゃんが嫌われちゃうし、遊びに行きづらくなりそうだからいい」

「そっか。――カッコいいぞー、ソラくん」

「~~~っ、いいよもう……」

 消沈気味に諦められてしまった。

「じゃあまたね。ソラくん。君は君らしく生きるんだぜ!」

「参考にするー!」

 大きく手を振って、振り替えして、遠ざかる小さな背中を見送った。

 元気よく〝参考にする〟と、そう言ってくれるだけで十分だ。確かに彼の世界が広がっているのが、言葉の一つでよくわかる。

 楽しかった。そう胸を張れる、一時の邂逅であったと思う。

「日記に書くことが増えちゃった……」

 それははにかむような声音で、嬉しそうに漏らした言葉だった。

 少年の姿は闇に消え、ちょっとの喪失感と最後に取り付けた約束に思いを馳せて、振り替えって、背を向ける。

 帰路につこうとした時。

「えっ――」

 いつの間にか眼前に、黒い物体があるのを感じる。それはふいに、ピカーンと一対のランプをランランと輝かせれば暗闇のユノの存在を際立たせた。

 光の跳ね返りで、物体の輪郭も現されて、ソレがなんであるか、十分に理解させられる。

〝――噂の黒いバン〟

 そう思うときには、複数人の男がバンの扉を押し開けていて、ユノはどうしようもなくなってしまっていた。


 ◆ アサギリショウゴの見える世界 ◆



 ――呆然とした、虚ろとした。

 中身がなくなったような、全てを抜き出されたような。

 まるで脱け殻のような態をした少女が、実家の母と警官の、いくつかの詰問にピンと来ない様子で答える。

 ぽつぽつとした事情を聞いて、無くなってしまった感情を教わって、貰っていたはずのものを少しだけ取り戻して、だけど何一つ元通りとならない状態で。


 悲しむ母と、呆然とする妹が視界に映るけれど、なんとも言えない気持ちになる。

 ――あなたが誰だか判らない。


 少女の身体を労るように警官は柔らかい口調で、よくわからない事を訪ねてきた。

 わからないものだから、答えられず、「覚えてません」と言えば、その場にいる誰しもが悲痛に彩られる。


 ずっとピンと来なかった。


 その、一人だけのけ者にされているような、形容しがたい孤独がいかんともし難くて、思い出そうとすると、脳が軋むようにその行為を否定する。

 締め付けられるような、殴られるような、警告のような頭痛が繰り返し響いて、苦しめば、みんなが心配してくれた。

 でも、それどころじゃなくて。

「貴女の彼氏さんには……この事を伝えますか?」


「言わないで、ください。お願いします……」

 少女は、少女じゃなくなった。


 ◆ 一 ◆


 ――昭吾の元に電話が届いたのは、朝の八時。バイト先であるファミレスでの朝の朝礼を終えた直後で、各々が仕度に入るなか、昭吾はスマホにでかでかと入る名前を見ては咄嗟に断りをいれて応じる。

「も、もしもしマオちゃん? 久しぶりだけどどうかした?」

 彼女の名前は結月真央。他でもない、ユノの妹なのだが。

 一度面識があるだけで、こうして電話が掛かるのは初めて。当初出会った頃は、あまり好かれていないようで、連絡先を交換しても使わないだろうと思っていたものだ。

 しかし、咄嗟になんの前触れもなく掛かってきたこの通話に妙な焦りを感じる。

 これは昭吾に言わせれば、嫌な予感でしかない。

『も、もしもし。昭吾さんですよね。あの、お姉ちゃんが……』

「……? ん、ごめん。よく聞こえない」

 厨房が多少騒がしくなってきたのもあるが、それ以上に彼女の声自体が尻窄みに途絶えたのだと感じる。

『あっ、あのね』

 少し焦れったくも思いながら、「うん」言葉を促すように首肯して。

〝胸のざわつきが、不愉快だ〟

 形容しがたい侘しさを覚える。

『お姉ちゃんがね、その、いま入院してる』

「はっ……」

 ――いや、どういうことだ?

 昨日の別れ際の笑顔を思い返す。

「……ちゃんと説明して。ユノは平気だよね?」

『う、うん、大丈夫。怪我とかしてるわけじゃなくて、ただ、その、倒れてた? みたいで』

「はぁ? もっとちゃんと――」

『んんんもうっ! 知らないよ! 早く来て!』

 キィーンと耳に残る金切り声で逆ギレされて、少し冷静を掻いていたことを自覚する。判りやすく顔をしかめて苦悶しては、その余韻が遠ざかるのを待った。

「とりあえず、ごめん。今は抜けれそうにない。でも午前中には終わるから、そのあと行くよ」

『……うん。待ってる。お姉ちゃんのために、早く来てあげて』

「うん。最後に、ユノは、大丈夫なんだよね?」

『たぶん』

「判った。後でそっちにいくから」

 腑に落ちない所もある。問い質したい事もある。けれど、さすがにこれ以上時間をかけるとなにより同僚の眼が痛く、最後に一つ確認をとれば早々に通話を切り上げて目の前に向き直ることにした。


 ――……昨日の夜、別れた直後から、妙な胸騒ぎと、脳裏にチリつく影がある。

 それが何かは判らなくて、ずっと気味が悪いとは感じていたが、コレだったのか。

 漠然とした予感に胸を縛り上げられる。もっとこの感覚に眼を向けて、気付けていたらと――叶いもしないであろうことを夢想しては自分を責めて、ユノに後ろめたさを感じた。

 我ながらバカだと思う。

 けれど、思わずしていられない。


 結果的にそんな心ここにあらずの昭吾は十全に仕事を果たせず、午前のバイトを終わらせれば先輩たちの視線から逃れるように自転車に跨がってすぐさま病院へ向かった。ユノがいる街は隣街、電車は、ちょうどそろそろ出るんじゃなかろうか。ここから駅まで自転車で十分、全力で漕げば五分は縮められる……。

〝間に合うか?〟――最短を刻みたい。

「ちっ」

 そこまで考えて、次々に赤信号に引っ掛かってしまうという自分の悪運がウザったらしいと嘆いた。

 いつもは滅多に引っ掛からない場所でなるとなると、いくら昭吾でも不満を吐き出さずにはいられない。

 トントントントンと焦れったそうにハンドルを人差し指で叩き続けては、バクバクとする心臓を押さえ付けるように深呼吸する。

 本音を言えば信号を無視したいところだが、そうも出来ない。嫌なことは続けて起こるというのが昭吾の持論で、看過することは出来なかった。

 切り替わり次第、駆けていく。

 時差式の信号機は連鎖的に引っ掛かりやすい覚えがあるので、少し迂回したルートで信号を避けていく。

 結果、それでも到着は十一分後。まだ大丈夫。

 駐輪場に入り込んで鍵も忘れてホームに入る。

 静謐な無人駅のなかに入り込むと、自ずと図書館にでも行ったかのように気を使いつつ。

 すぐさまに切符を買えば、滑り込むように乗り込んで息をつく。

 がらんどうな電車の座席に背中を預けて息を整え、スマホを取り出しては、昭吾を呼び出してくれたマオにラインを送った。

『いま向かってる、大丈夫?』一拍おいて既読がついて、すぐに文面が持ち上がると。

『もう落ち着いたみたい』

 ――ホッとした。

 と同時に、続けて下から押し上げてきたもう一つの文面に眼を奪われる。

『いま事情聴取受けてるよ』

『ん? 事情聴取ってどういうこと? ユノに何があったんだ?』

 既読はすぐについたが、返事が遅い。

 電車のゴトゴトとした揺れを味わいながら、待って三分。

『わたしが説明できることじゃないと思います』

 思わせ振りな文面が、妙に不愉快で、昭吾の不安を加速させていた。


 それから昭吾が病院にまで到着したのは午後一時、二十分後の事だった。

 受け付けに部屋番号を尋ねて向かう。

 コンコンと、心臓を落ち着けるように深呼吸してノックすれば。

「どうぞ」

 ――知らない女性の声がした。

 扉越しに聞こえたその声音に、てっきりユノが反応してくれるだろうと思っていた昭吾は少し声が出なくなる。

 ふいを突かれたように足を止めて立ち止まり、息を呑んでもう一度、覚悟を決めて室内へと踏み込んだ。

 まず最初に、警官服を着込む二人の女性が丸椅子に腰掛けているのに気付く。そのものものしい姿に、少し腰が引けてしまいながら会釈すると、優しめに微笑まれる。

 そんななかで、覗き込むようにベッドの枕元を見れば、シーツに入って小さな寝息を立てるユノを確認した。

 その姿にどっと肩を落とし、先程までは汗だくで青白く晴れない表情だったのがみるみるうちに笑顔へと移る。笑みが浮かぶ。

 笑えるようになる。

「すみません。結月由乃さんの彼氏の方……で、よろしいでしょうか」

「あ、はい。朝桐昭吾と言います」

「こんにちは、県警察生活安全課の桜井です」

「同じく佐野です」

「ども……。あの、詳しい内容を聞いていないんですが、ユノは大丈夫なんですか?」

「健康面でいうと問題ありません。……ただ、昨夜に強いストレスを経験したらしく、その、大変申しづらいのですが」

 言いかける最中で、佐野と名乗った人物が桜井と耳打ちして何やら相談を始める。

 さすがに聞き耳は立てられず内容は聞き取ることは出来ないが、ただその行為が妙にイラっと来てしまいながら「なんですか?」と強めの語気で問い質した。

「この事件は非常にデリケートな物となります。詳細は、ユノさんに一任するべきで、私たちに報告できるものではないと判断しました」

「………」

「身体面で言えば複数のアザと怪我があり、ですがそれらは数日で完治するでしょう。ここからが重要ですが、心して聞いてください」

「はい」

「ユノさんは――」「ん、んうぅ……」

「あ、ユノ?」

 事情を訊かせて貰おうとすれば、まるで呼び掛けに反応するかのように呻いて身動ぎしたのはベッドの上のユノだった。

 少し微笑ましく見守って、女警官の話は置いてベッド脇に寄り添う。

 心配させやがってお前なー、という文句に近い嬉しさを感じながらペチペチと頬を叩いては。

「ユーノー? 俺に言うことあるんじゃないのー?」

「んん……」

 視界の隅に、どこか止めに入ろうとするような女警官の姿が映るが気にはせずに呼び掛ければ、ゆっくりとその瞼を上に持ち上げて、寝ぼけ眼のユノに見据えられる。

 ぽけ~~っとして、数秒。

「やっ⁉︎」

 ――ものすごい拒否反応を見せられて、遠ざかるようにシーツを胸元へ手繰り寄せたユノが印象的だった。

 簡単には言い表せない違和感が走る。

「ゆ、ユノ?」

「ぁ。あ……ぅ」

 少しの間、彼女の眼は現実を見ていないようにどこか儚げで、自分を持っていないようだった。

 言葉が思い付かない様子で、応答も出来ない彼女を、つい訝しげに眺めてしまう。

 彼女へ指を伸ばそうとして、なんとなく腕が止まった。

〝――何かオカシイ〟

「あ、あの……」

 チラチラと女警官の二人を伺うように目配せするユノは、たぶん昭吾が到着するまでにいくつか話はしていたのだろう。

 どこか警官へ救いを求めるようなその態度に、漠然とした違和感を覚える。

 その上で、ゆっくりと不安げなユノの眼が、昭吾へと、向いた。

 一拍おいて。


「あなたは、誰ですか?」


 ◆ 二 ◆


 ――はぁ、とひどく長いため息をついて、待合室。羅列して並ぶ座席の隅の方に肩を落としながら座り、自販機で買ったペットボトルのラベルを意味もなく流し見する。

「どうすればいいんだ……」

 あれから数十分。

 半ば逃げ出すように部屋を抜け出せば、何も出来ずにここにいた。

「あ、ここにいたんだ」

「っ、びっくりした。マオちゃんか。電話ありがと……」

 一瞥すれば、気力も無さげにお礼を告げて俯く。

 手元のペットボトルが万華鏡のように回り、手の内に揺られて沈み込むような中の水の重みをただ呆然と楽しみながら。

「お姉ちゃんとは会えました?」

「会えたよ。知ってたの?」

「電話した後にだけど」

「そっか……」

 語るべくもないだろう。もう一度深呼吸するように、ため息を全部吐き出して、新しい空気を受け入れる。

 それでも気持ちは洗われない。

「グミいる?」

「ん」

「こっちにたぶんお母さんたちいるでしょ? ちょっと話してくるよ」

「あ……ん、休憩室にいると思う。お父さんはタバコかな」

「ありがと。ごめんな、俺のせいで」

「……別に昭吾さんのせいじゃないデショ」

 呆れたようなジト目に見送られながらその場を後にして、閑散としたポッドと長テーブルがあるくらいの休憩室へと足を運んだ。

 そこには……ユノの母親が、失意にでも暮れたように一人で座っている。

 そんなお母さんの様子に胸が締め付けられるようで、昭吾の感情がぐっちゃにかき混ぜられた。

 言い表せぬ罪悪感に吐き気を覚えてしまいながら。

「結月、さん」

「……ああ、昭吾くんじゃない。お久しぶりね」

「お久しぶりです。あの」

「いい。何も言わないで頂戴。もういいわ」

 ―――。

 もう、それ以上なにも言えず、そこにいることを許されていないのだろうと理解した。

 紡がれない言葉を漏らしてしまいながら、一歩二歩と後退するように壁がお母さんとを遮ってくれるように身を隠す。

 お互いが視認できない死角にまで移動して。

 そこで初めて、昭吾はお母さんの言葉を租借することが出来た。

〝俺のせい……なのか〟

 壁に背を預けて、ドッドッドッドとがなるような心臓をたしなめる。胸元に置いた手を握り締めれば、シャツに皺が浮かんだ。

 はぁー、と深く息を吐く。もう何度目かは判らない。気も休まらなかった。

 とぼとぼと踵を帰す。

 ユノがいる部屋にまで、最後にもう一度――。


 勇気がなかった。

 すんでのところで立ち止まり、喉を鳴らして思い止まる。

 まるで目の前に透明な壁が出来たかと思うほど、進むことが出来なかった。心のどこかが阻んでいた。

「どうすればいいんだよ……」

 全生活史健忘。医師の診断だそうだ。

 あのあと女警官に聞かされて、信じられなかったが、今はソレを如実に感じる。

 やっぱり、今の自分に今のユノの姿は見られないと諦めてしまえば、翻ってすぐ。

 知らない男の人とすれ違った。

すぐにユノの父親なのが、面影から判る。

「君は?」

 たぶん、昭吾がユノの部屋から出てきたように見えたのだろう。関係者だと思い立った彼が、端的に尋ねてくる。

 それに対して、及び腰ながら。

「ユノ、さんのお父さんです、よね。初めまして、朝桐昭吾と言います。……彼女とお付き合いさせていただいています」

「そうか」


 ――気付くと男子トイレの一番奥で、吐いていた。流す水の音に自分の存在を掻き消してくれるような感覚を覚える。

 肩で息をしながら、便座に向かい合う。

 いくら吐こうと、スッキリもしなければ更に感情が淀むだけだった。

「ぃて……っ」

 頬骨に、神経を突き刺すような断続的な痛みが響く。指で触ると尚更痛くなって、思わず声が漏れ出でた。

 おまけに口の中も切れているようで、吐く度に気に触る。舌でつつけば苦悶の表情を浮かべるほどの痛みだった。

〝これも全部受け止めなきゃ……〟

 あの後お父さんに言われたことはほとんど覚えていない。激しく責められた気もするし、同情するような……いや、単純に、身勝手な監督責任を押し付けられただけだ。

 それも全部どうしようもない事実に対する八つ当たりであることは判るし、仕方ないとも思える。

 彼ら家族よりも昭吾の方が、物理的な距離は近かったのだから。

 けれど、それでも。

 こっちにだって言いたいことがあるのは、理解してほしい。

「げぇ……ゴホッゴホッ」

 吐き出す嘔吐物に鬱憤を乗せてなんとか整理をつけようとするも、ままならない。答えが出ない。

 全身に入った力がほだされることもなく、その持続にも気持ち悪さを覚えてしまいながら、ただどうしようもない。

「さすがにキツいな……」

 自嘲するようなひきつった笑みをひとつ、最後にレバーを引けばなんとか引き離れることが出来て。

 洗面台の冷たい水を掌に突き刺しながら、一瞬でやさぐれたような自身の顔を鏡越しに見て〝ひどいな〟と思った。

 どこか貧血ぎみにフラフラするのは吐いたからだろうか、絶妙に身体が動かしづらく、不調であることを認識せざるを得ない。

「やっぱり会っていくか……」

 あのお父さんの様子だと、絶交されかねない。

 このままだとユノに会えるのが今日で最後になる可能性を感じて、嫌になる。

 ユノの両親はいま何処にいるだろうか。

 もう鉢合わせたくないな、だなんて憂鬱に思う。

 息を吸い、吐いて。

 扉の前で、二度目のノックを打って。

 ――覚悟を決める。

「あの……」

 もう女警官達はいなかった。お父さんや、お母さん、マオもいない。ベッドで上体を起こすユノが、物憂げに窓の外を眺めているのが印象的だった。

 昭吾はそれに、ゆっくりと近付いていく。なんとなく慎重に、自分を認識されるのが嫌で足音を立てたくなかった。

 そのわりに、少しずつ心音が加速する。

「ぁ……」

 振り向いた彼女と眼が合う。喉が一瞬で張り付いた。

 ――何も言えずに佇む昭吾へ、一番初めに口を開いたのはユノ。

「話は聞きました。私の……そ、その、彼氏さんなんですね。昭吾さん」

「………」

「端的に言います。何も覚えていません。あなたが誰だか、知りません」

 叩き付けられる。ハッキリと言われてしまう。

 目の前が遠くなった。目の前が白くなった。何も認識できなくなった。何も判らなくなった。

 それでもユノは、止まらない。

「私のスマホ、アルバムとか、ラインとか、パッと流し見してみたんです」

 ――ハッとするようだった。思わず面を上げて、続く回答を求めるが。

「私が映っていました。貴方も映っていました。たぶん……デートなのかな、色々な場所にいる二人が、たくさんありました。でも、思い出せないんです。昨日のオムライスだって、さっき初めて知った。ケチャップで書いた文字も覚えてなかった。貴方に対する感情を、何も覚えていないんです」

 ユノの今まで取ってきた写真がどういうものかは察しがつく。

 だからこそ、何も言えない。全部覚えてる。全部思い出せる。なのに、共有できない。

 昨日の事でさえも。

「幸せそうだった。楽しそうだった。見てて、読んでて、そう思うんです。でも私には、今の私には判らない。判れないんです」

「……何が言いたいの?」

 若干イラつき気味に問い、突き付けられる現実をうざったく思いながら先を求める。


「今の私はあなたの知る私じゃないんです」


「判ってるよ! もうさんざんっ、――嘘みたいだ。なんでこうなっているか判らねぇ、誰も説明してくれない。言葉を濁して、意味も判らなくて、だから俺はユノの気持ちが判らないしっ、寄り添うことも許されてない気がした! もうわっかんないんだよ、なんでこうなった……ッ」

 ぐちゃぐちゃな心で、悪態を付く。静謐な病院に響いた昭吾の怒号が、看護婦や、彼女の両親と妹を駆け付けさせる結果となった。

「訳わかんねぇ……俺はユノの力になりたい。強いストレスがあって、それが原因で自分を閉ざした現状だと言うのなら、助けになってやりたい……。でも許されてないじゃないか。俺は他人で、何一つ教えてくれない。全部人伝に知らされる。干渉できる立場じゃないんだってこと、いま身に染みて思った。……」

「………」

 誰も声をかけてはくれなかった。誰も答えはくれなかった。

「ちょっと頭冷やします。申し訳ありません、でした」

 幾度目かの深呼吸をして、天井を見上げる。古びた病院の天井は隅々に黒いシミが目立ち、とても清潔とは言いがたいなと思った。

 踵を返そうとして、間際。お父さんと眼が合う。

「うちの娘は実家に連れてくぞ」

「――は?」

 待って。待ってくれ。なぜそうなる? なんでそうなった? 理解が追い付かず、信じられない者を見る眼でお父さんを見据えて。

「な、なんでそうなるんですか!」

「当たり前だろう。それとも君は、記憶喪失の娘を一人置いていけるというのかね?」

「っ……ででも、オカシイでしょ? 間違ってる」

「間違ってない」

「ユノの意思が大事だ!」

「そちらに寄る可能性は低いと思うがね」

「ぐ……」

 どうすればいい。このままではもう二度と、本当にユノに会えなくなる。ダメだ、嫌だ、そんなのは、耐えられない。

 どうにかして、どうにかしないと、許されない。そんな終わりは、絶対に嫌だ。

 心臓ががなる。言葉を紡ごうとして、口がぱくぱくとする。指先が痺れ、身体中が覚束ない。

「だ、だって。だって!」

「赤の他人が口出しするな!」

「っ」

 もうダメなのだろうか。許されないのだろうか。昭吾の知るユノは、もうどこにもいないのだろうか。

「――一言いいですか?」

「ユノ……?」「なんだ」

 彼女が言った。

「人を殴るような人は、怖くてとても近付けないです」

「なっ!」

 今度は異を唱えるように単発とした声をあげたのは、お父さんだった。

 途端に昭吾の眼を見て「告げ口したのか?」と聞いたげに睨んでくるので、まるでコントのようにブンブンと首を振って否定する。

 まさか気付かれていたとは思わなかった。

「私はいま、何も判らなくて、今だって動転してるし、信じられない事ばっかりで、嘘か真かを判断する術がない。今だってこれはドッキリなんじゃないか、あなた達は私を騙しているんじゃないかと、内心は疑っているんです」

 その言葉に、昭吾含め一同がまるでショックを受けたように硬直する。

 娘の言葉を、姉の言葉を信じられないように、記憶喪失という事実が全員のもとへ、如実に叩きつけられた。

「正直に言うと、私は私しかいま信じられるものはいないと思ってます。だって、仕方ないじゃないですか。私自身の審美眼にかけて、そう思ってしまったんです。ごめんなさい」

 ふいに昭吾は、ユノのその孤独感を読み取ることが出来た。

 目覚めて以来彼女に事実と虚偽はあってないようなもので、判別する経験値が欠片もなく、聞かされた全てが真実に思えてしまう。

 どれだけこちらが真摯に向き合っても、巧妙に騙されている可能性が否めず、ユノのような賢い頭をしていれば、それは疑わざるをえないのだ。

 故に、孤独なのだろうと、彼女の気持ちの一片をいま知れたような気がして。


「……――結月さん、少し二人で話しませんか?」

 未だ彼女の言葉のショックに打ちひしがれた様子のお父さんを連れて、一旦その部屋を退出した。

 言葉を作るようになんどもなんども心のなかで覚悟を決め、深呼吸しながら、再び一対一で向かい合った。

 少し怖い。が、やらなくては全てが終わってしまう。

「全生活史健忘。俺、それがどういうものか判らなくて、調べたんです。心因性の解離症状で、強いストレスから起こるものだと、知りました」

 震える指先で、震える声音で、上擦った口調で、ゆっくりと語りかけるように話を持ち掛ける。

 息を吸うのが苦しくなって、肺がなぜか痛くなって、でも深呼吸しないと落ち着かずに、ゆっくりと。ゆっくりと。

「改善の方法は、催眠療法の想起などもあるそうですが、思い出の品に接触させたりすることで、徐々に記憶を取り戻す可能性も、あるようなんです。それに、短期的なものだとも」

「ああ」

「この一年、俺はユノと思い出を積み重ねてきました。こういうとアレですけど、ここ最近のユノには常に俺がいます。だから、だから――」

 昭吾の物言いに若干イラついた表情をするのは、娘への確かな愛なのだろうと思う。

 しかし、そんななかで、挫けてはいられない。伝えなきゃいけない。頼まなきゃいけない。


「娘さんを、僕に任せてくれませんか」


 土下座なんて生まれて初めてした。

 プライドが邪魔するんじゃないかとか、心の隅でずっと思っていたけど、そんなことは全然ない。

 ユノのためなら、惜しみなく地に額を擦り付けられる。

 本当に。

「お願いします。彼女の記憶を取り戻して見せます。昨日までのユノとまた逢いたいんです。お願いします、お願い、します……っ」

「………」

 心の底からそう願う。

 心の底から頼み込む。

 初対面のお父さんが、答えてくれるとは思ってもいない。賭けにしたって割りに合わないものなのは理解してる。

 だけど、やらなきゃ気がすまない。やらないと全てが手遅れになる。

 いつだって、最善を尽くしたいと思うから。

「俺には時間があります! まだ大学生という身分で、何も知らないガキには変わりないけど、時間がある。寄り添える。もう眼は放さない」

「そこまでの覚悟が、あるというのか」

「あります。俺は、彼女が何も信じられないというのなら、彼女が信じられる未来を作りたい」

「もし今後娘の身に何かあったとすれば、私は激しく君を責め立てる」

「今日だけでもう十分です」

 そんなことは絶対にあり得ない。

「……後は娘次第だ」

「はい。――ありがとうございます!」

 そして。


 お父さんの計らいで誰もいなくなった病室に、ユノと二人、向き合って座る。

 まっすぐと昭吾が見据えても、ユノはどこか戸惑うようにずっと眼を揺らしていて、定まらせてはくれなかった。

 それがなんとも悲しく思う。

「ユノ。……ユノ、さん」――尊重の意思を持ち、敬称を着けて呼べば。

 彼女をユノじゃない誰かとして扱うこの意義に、胸がしめつけられそうになってしまいつつ。

「はい」

「俺は……あなたに恋をしています」

「……はい」

「でも、だけど、俺の愛した人はいま、いません。もう、どこかにいってしまいました」

「………」

「だから、俺と一緒に――彼女を探してくれませんか?」

 ボタッとふいに、大粒の雫が手の甲に跳ねた。

 それが一瞬判らなくて、気付けば視界はぼやけていて。彼女の輪郭があやふやになって、何も捉えきれない世界で、頬に熱いものが伝う。

 それは理解できるものだけど、理解したら本当に止まらなくなりそうで、堪えるようにそっぽを向く。

 溢れ出る感情が、居なくなったユノを再確認する言葉と共に、決壊する。止めどなく。

 昨日までの彼女はもう居ない。

 それを理解した途端に、もう収まりが着かなくなっていた。

「……っ」

 膝上で、溢れ出る雫を受け止めるように、昭吾の手の甲に重なるみたいに彼女の小さな手が乗った。

 それに雫を落とすのが嫌で堪らなくて、だけど一粒落ちてしまうと、もう収集がつかなくなって、彼女の手を握りしめる。

 感触を確かめるように、存在を確かめるように、ちょっと濡れてしまった両手で、雫の伝ったその手を。

 ぎゅっと握りしめて、屈むように踞ると、彼女が背中をポンポンと叩いてくれる。

 ――無責任な優しさは、止めてほしい。

 堪えきれなくなるから。


「はい」


 彼女の答えが、胸に染み込むようだった。


 ◆ 三 ◆


 身体的な障害はなく、すぐに活動できるほどの体力と意識を取り戻したユノは彼女の両親と共にすぐに退院手続きを施していた。

 昭吾はマオと二人、病院入り口の外で眺めながら待つ。

「お姉ちゃんは大丈夫かな」

「任せて……」

 赤くかぶれて腫れぼったい目元を揉みながら力なく、けれど確かにそう答える。

 マオがにーっと笑ってくれた。何気に初めて見せてくれる笑顔で、涙目を隠すことも忘れてつい眺めてしまう。

「その顔どうにかしないの?」

「……この歳になって泣くとは思わなかったから、色々と無理。いま自分を偽る余裕がない……」

「お姉ちゃん、記憶がなくてもお姉ちゃんなのは変わりないんだから、あまり心配かけさせないで」

「ん……ごめん」

 深呼吸。力強く伸ばした指を力強く握り込み、「よしっ」と小さく呟いて立て直す。

 もう少し頑張らないと。

 ――そんな矢先、退院手続きを終えたユノとご両親が出てきたので、駆け足で寄っていった。

 昭吾が片手を差し出せば、ユノが手を差し出してくれる。それがなんとも嬉しくて、照れくさくて、ちょっと元気が戻ってくるのを感じながら、ご両親へと向き直った。

 ちょっとお父さんが不機嫌そうだ。

「娘さんを、任せてください」

「ああ。頼む。……ユノ、何かあったら電話しなさい。私達の事を信じられなくても構わない。だが、昭吾くんと例えば何かあった時は、私達がいることを思い出してほしい。いいな?」

「……はい。ありがとう、お父さん。お母さんも、ごめんね」

「今度また姿を見に行くわ。大変でしょうけど、あなたはもう子供じゃないものね。でも無理しちゃダメよ」

「はい」

 娘と親の別れを、どこか胸の締め付けられる想いで見守る。昭吾に口出しは出来ない。珍しく我を通したこの結果がなんとも居心地悪くて仕方ないけれど、それも全部昭吾の都合なのだ。

 彼らのこの世界に、昭吾という原因はあっても、昭吾の介入は必要とされていなかった。

「じゃあ、またね」

 どういう表情をすればいいのか迷った様子で、どこか後ろめたそうにふりふりと弱々しく手を振ったユノが印象に残る。

 やはり、どこか他人意識は払拭できないのかもしれないな、なんてぼんやりと思えば悲しくなって。

 彼女の手を握る昭吾の手が、確かめるように少しだけ強く握られた。

「また何かあればご連絡します」

「頼む」

「じゃ、行こっか、ユノ……さん」

 慣れない敬称に複雑な笑みを浮かべられて、照れ臭くなりながら。

「うん」

 彼女は優しい笑みを浮かべてくれた。

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