第6話本能寺の変
天正十(1582)年
三月二三日、二九日 信長、旧武田領国の国割を発表
徳川家康 駿河一国
滝川一益 上野一国、信濃小県郡・佐久郡
河尻秀隆 甲斐一国(穴山梅雪分を除外)信濃諏訪郡(穴山替地)
森 長可 信濃高井・水内・更級・埴科郡
毛利長秀 信濃伊那郡
木曽義昌 本領(信濃木曽谷)安堵、安曇・筑摩郡加増
穴山梅雪 本領(甲斐河内)安堵。
(駿河江尻領も安堵され、徳川家康の与力大名になる)
嫡男勝千代に武田の名跡を継がせ武田家当主にすることが認められる
団 忠正 美濃岩村城(河尻秀隆旧領)
森 成利(乱丸) 美濃兼山城(森 長可旧領)森長可実弟、信長側近
北条氏政 「駿河でひとかどの働きをした」と評価はされるが恩賞はなし
四月三日 信長、甲斐古府中に到着
十日 信長、甲斐古府中を出発
「信長、古府中を出発、駿河から東海道を通り安土へ戻るものと思われます」
「明智勢、池田勢など、信長本隊の軍勢も同じく陣払いをして続々本国に引き揚げております」
四月下旬、春日山城での景勝と兼続の会話
「これで信長が率いる本隊が攻めてくることは無くなったようじゃな」
「早速、信濃に出しておる軍勢を引き揚げ、越中に振り向けねばなりませぬ」
「うむ。魚津城の後巻きをせねばならぬ。われらも出陣するぞ」
魚津城からは籠城戦の窮状を訴える書状が御側取次である兼続に提出されている。
「魚津在城衆十二名連署書状」(四月二三日付)
当月五日、十一日の御書御両通、昨夜戌の刻松倉より到来、謹んで拝見し奉り候。
卯月(四月)廿三日
中条越前守景泰
竹俣三河守義綱
吉江喜四郎信景
寺嶋 六三長資
蓼沼掃部助泰重
藤丸 新介勝俊
亀田小三郎長乗
若林九郎左衛門尉家吉
石口采女正広宗
安部右衛門尉政吉
吉江常陸入道宗誾
山本寺 松三景長
直江与六殿
「…敵が壁際まで取り詰め、昼夜四十日にわたって攻められていますが、今日まではなんとか持ちこたえてきました。この上は、全員滅亡と覚悟を決めました。この由を景勝公に御披露下さるようお願いいたします」
文中に四月五日、十一日の書状とあるが、これは残っていないので内容は不明である。しかし四月十三日付の魚津城の城将宛て景勝書状の写しが残っている。
その表今に長陣の由、辛労心づくし、中々痛み入り候。各心中の程思ひやり、心も心ならず候。随分の衆楯籠られ候故、城中思ひも無き由、勿論、左様にこれ有るべきと察せしめ候。
織部(吉江)父子三人、喜四郎事は、すでに謙信御芳志御眼力を跡々けがさず候間、もつともその恥を思ふべく候。若林・蓼沼の事は、旗本のさね(核)に候間、是非申す事なく候。石口事、何れも兄弟共かねて聞き及ぶと云ふ。このたび旗本に召し遣ひ候上は、そのしるしこれ有るべきと思ひ詰め候。安部の事は沙汰に及ばず候。藤丸の事は賀州において
はたまた信州口の仕置、隙あき候間、この節出馬せしめ、北国弓箭の是非を付けるべく候。これによつて先勢として能州朝倉・遊佐家中、両三宅、温井ならびにその外上杉五郎(上条宜順)・斎藤下野守(朝信)、河田軍兵衛尉、石動山城の者、境の城主いづれも指し越し候。能州衆打ち立ち候を彼の飛脚見届け候間、才覚をなさるべく候。直馬は三日あとたるべく候。直馬なき以前、その地重ねて指越人数と合はせ、一宛行肝要に候。目出たくその表において申すべく候。謹言。
天正十年 景勝
卯月(四月)十三日
中条 越前(景家)殿
寺嶋 六蔵(長資)殿
吉江喜四郎(信景)殿
亀田小三郎(長乗)殿
藤丸 新助(勝俊)殿
安部右衛門尉(政吉)殿
山本寺松三(景長)殿
竹俣三河守(慶綱)殿
蓼沼 掃部(泰重)殿
若林九郎左衛門(家吉)殿
石口 采女(広宗)殿
長 与次(景連?)殿
吉江常陸入道(宗誾)殿
籠城の辛苦を
三月十一日に富山城を奪還した柴田軍一万五千は(文面から逆算すると)三月十三日頃、魚津城・松倉城を包囲している。景勝書状の文中で三日後に出馬すると約束しているように、すぐにでも後巻きに出陣したいところだったが、信長本隊の越後進攻の可能性もあったので、春日山城を動けなかったのだ。
「それがしも与板衆を率いて出陣いたします。柴田軍と決戦して、包囲されている魚津城、松倉城の将兵を救出するつもりです」
出陣前日にお船に情勢を聞く兼続。
「それで信濃、上野の情勢はどうなっておりますか」
「北信四郡には森長可、上野に滝川一益が封じられた。森長可は信忠軍の先鋒として活躍し、滝川一益は勝頼公の首を挙げる大功をたてて勢いに乗っておる」
「四月の初め芋川親正殿が北信で組織した八千の一揆軍、わずか二日で森長可に蹴散らされたようじゃ。飯山城はとれず長沼城はとられた」
これが天下統一の勢いなのじゃろうか。
何をやっても上手くいく相手は調子に乗り、われらは浮足立っておる。
「森長可は手早く長沼城を攻略し知らずに入城しようとした一揆軍を奇襲、千二百余の首を挙げたそうじゃ。その後も徹底的に追撃し、一揆軍の拠る大倉城を攻撃、千余の首を獲っておる。女子供お構いなしじゃ。これで一揆軍は瓦解、芋川正親殿は越後に逃亡してきておる」
「なかなかの戦上手のようですな」
「調子に乗っておるだけじゃ」
「森長可は海津城に北信四郡の国人領主の人質を集めておるようじゃ。領内を掌握して越後進攻の機会を窺うつもりのようじゃな」
「上野から上田口への進攻も考えねばなるまい。武田の家臣だった真田や小幡、内藤など上野の国人は許されて、みな滝川一益の被官となっておる。上杉進攻や北条進攻の先手として使い潰すつもりのようじゃ」
「武田の家臣でも許されておるものがおるのですか」
真田の顔が浮かぶ。殺されずに済んでよかったな。
「そのことじゃが、ようやく武田家滅亡の詳細が判明した。御実城様、御台所様に今晩報告するつもりじゃ。今後の対織田作戦の参考にもなるであろう。そなたも同席するのじゃ」
夕方、春日山城実城御殿。
景勝、菊姫、兼続に武田家滅亡の詳細が報告される。
「三月十一日。武田四郎勝頼公、武田太郎信勝公、甲斐天目山近くの田野で御自害。御台所様も御自害。土屋惣藏昌恒殿、安倍加賀守貞村殿、跡部尾張守勝資殿など武士三三名・僧二名・女子十六名が殉死されております(人数は景徳院牌子による)」
淡々とお船が報告する。
勝頼公、最後の戦いは五十名にも満たない人数で戦われたわけか。ひと月前には二万の大軍を率いておったのに、いったい何が起きたんじゃろうか?
土屋惣藏殿も亡くなられたか。眉目秀麗な美男子じゃったが、最後は力戦奮闘されたようじゃな。断崖で蔓草を掴んで敵を撫で斬りにし「片手千人斬り」の勇名を残された。それがしも同じことができるじゃろうか。口には出さないが近未来に土屋惣藏と同じ運命になる可能性が高いと思わざるを得ない兼続である。
「二月十六日、鳥居峠で典厩信豊様の先手今福勢を打ち破った木曽勢には信長の弟や甥など織田の一門衆が加勢していた由。選りすぐりの鉄砲隊を率いていたようです」
「緒戦で絶対に負けないように最精鋭部隊を配属させておったのじゃな。緒戦で負けると、武田の士気が上がる可能性もあるからな」
「確かに今福隊は夥しい犠牲者を出して敗退したという報告がありましたな」
「信長は木曽義昌の謀反を高く評価しておりまする。同じく謀反した穴山梅雪が本領安堵にとどまっているのに対し、木曽には本領安堵さらに二郡加増しております」
穴山梅雪は、家康から駿河江尻領を安堵されておるようじゃが。
「二人とも勝頼公の姉婿でございました」菊姫の低く尖った声が響く。
「穴山、木曽以外で信長に内通しておったのは伊那松尾城主小笠原信嶺です」
「二月六日に下条信氏の家臣の謀反で滝沢要害を突破された後、十四日に謀反して松尾城を開け渡しております。驚いた飯田城主保科正直が十七日に逃走し、大島城にいた逍遥軒信廉様も同日逃亡しました」
「最前線から誰も戦わず城を明け渡しておったから、自分以外は信長に内応済みではないかと疑心暗鬼になり恐慌状態になったようじゃな」
「小笠原信嶺の正室は逍遥軒信廉様の娘です。両者の間になんらかの意思疎通があったのではありませぬか」
菊姫、あくまで裏切り者を糾弾する姿勢を堅持する。
「二月十四日の浅間山の噴火も、勝頼公が天運に見放された出来事として将兵から受け止められたようです」
単なる自然現象にしても確かに間が悪いのう。
「大島城では地下人が反抗して二の丸に火を付け、とても戦える状況ではなかったという報告もあります」
「三月二日に高遠城陥落。前日、穴山梅雪の裏切りを知った勝頼公の本陣勢が諏訪上原城から新府城に撤退しておりますから、後詰なしの孤立無援で戦っております。しかも内通した小笠原信嶺が川の浅瀬を教えて織田軍を大手門まで誘導しております」
昨日までの味方を我が身可愛さで売る。それが人の本性なのか。
「搦手からは信忠直率の精鋭が柵を引き倒して乱入したようで、城方の女子供も武器を取って戦ったようですが、多勢に無勢で全滅したようです」
「三月七日、甲府に到着した織田信忠は、武田の一門、重臣を探し出して片端から処刑しております」
「三月七日、竜宝(信玄次男・盲目のため僧籍)様は自刃、武田信友(信玄弟)様は捕縛され相川河原で処刑されております。三月十日、一条信龍(信玄弟)様、甲斐市川郷上野城で徳川勢と戦い討ち死に。三月十六日、武田典厩信豊(信玄弟・信繁次男)様、小諸城で家臣下曽根浄喜に裏切られ自害。三月二四日、武田逍遥軒信廉(信玄弟)様、甲斐古府中相川左岸で処刑されております」
「同日、勝頼公を最後の最後に裏切った小山田信茂と葛山信貞(信玄六男)様、武田信尭(信友の子)様、甲府善光寺で誅殺されております。なお信豊様を裏切った小諸城城代・下曽根浄喜も誅殺されております(異説あり)」
「信勝公が仰せになったように、武田一門は新府城で華々しく戦って滅亡するべきでした。十郎(葛山信貞)殿は、わらわの同腹の兄でございますが、主君を裏切り恩賞欲しさに、のこのこまかり越して誅殺されるとは見苦しすぎます」
菊姫、実兄の進退に厳しい感想を述べる。
「山県昌満、馬場信忠(昌房)、朝比奈信置・信良親子、諏訪頼豊、今福虎孝・友久・昌和親子、跡部勝資、長坂光堅など、甲斐・信濃・駿河の侍大将は大体殺されたり自害しております。織田軍は、武田旧臣の首を持ってきた者に報奨として黄金を与えると布告しており、民草による厳しい残党狩りが行われております」
「助命された曽根昌世、岡部正綱は、穴山・木曽と同じく事前に内応しておった者です」
「同じく助命された真田昌幸、内藤昌月、高坂(春日)信達は、それぞれ東信、東上野、北信の有力者です。生かしておいて、領地経営の役に立てたり、先手として使い潰す気なのだと思います」
「滝川一益、上野一国拝領と言うても、甲斐・信濃・駿河と違って上野は武田が完全に領有しておったわけではない。真田や内藤を殺せば上野への足掛かりを失うことになるであろう。殺すという選択肢は最初からなかったようじゃな」
「あと松姫様の行方でございますが、杳として知れませぬ。笹子峠を越えて北条領内の秩父の山中に隠れておるという噂があります。その噂には尾ひれがついており、武田攻めの総指揮官・織田信忠は松姫様の元の婚約者だから密かに松姫一行を庇護しておる、所在が不明なのも信長を憚って信忠が隠しているため、という話になっております」
信忠に信長に隠し事をする度胸があるとは、とても思えぬが。
「もし無事なら、松姫殿の意向にもよるが、越後に呼び寄せることもできるが」
景勝が訊く。
「妹には妹の存念がございましょう」
もし無事で呼べたとしても、今後の越後が安全とは限らぬ。むしろ危険やもしれぬ。今回の武田崩れで、武田家に仕えておった侍女が、大勢さらわれたり殺されたり自害しておる。松姫様のことで御台所様に過大な期待を持たせるのは酷なことになるやもしれぬ。
「ところで武田の家臣どもは、勝手に陣中から逃亡し家に引き籠って、信忠軍が来たら挨拶にまかりこして殺されておる。どういうカラクリによるものなのじゃ」
「穴山梅雪が添え書きした信長・信忠連名の書状が武田家中に出回っておったようです。抗戦しなければ助命し領地を安堵する、加増もあるという内容です。甲斐一国、駿河一国、信濃半国と大盤振る舞いの内容を信じこんだようです」
「愚かじゃ」
「絶望の中、人は信じたいものを信じてしまうのでしょう」
明日は我が身か、と、ひとりひとり思い沈む。兼続、気になって景勝の顔を見ると、意外なことに、景勝は、ホッとしたような顔をしており機嫌は悪くないようだ。
その夜。
景勝の寝所
「お菊は春日山城で死にとうございます。
「うむ」
勝頼公は北条夫人に手をかけたのじゃろうか。
心静かに切腹する時間はあったのだろうか。
直江屋敷。
「意外でした。御実城様はホッとしたような顔をされておりました。何故でしょう」
「そなたも、まだまだじゃのう。御実城様が一番恐れてることが何か、お分かりか。
信長の調略で家中がバラバラにされ、ろくに戦えもせずに滅ぼされることじゃ。勝頼公のようにな。敗北して滅びることを恐れているのではない。りっぱに戦えず、謙信の家の弓矢に傷をつけることを恐れているのじゃ」
「今回の武田崩れ、われらにとって痛恨の極みじゃが、すべてが悪いというわけでもない。今回、はっきりしたことは、信長の調略に乗っても命を永らえることができる者は、ほとんどおらぬということじゃ。助けられておるのは木曽や穴山など実際に役に立った者と、真田など、これから役に立つと思われた者だけじゃ。後は大抵殺されておる。これでは、上杉家中で命惜しさに、これから裏切ろうと思っていた者も二の足を踏むことになるであろうよ」
「ははーあ。信長の調略には危なくて乗れないから、上杉の家の結束が保てるというわけですか」
「そうじゃ。信長は悪逆非道な男じゃが、他人の不義が許せぬ男でもある。今回、小山田信茂などは老母・八歳の嫡男・妻・三歳の娘ともども処刑されておる。辞世を作る暇もなしにじゃ。信忠は“古今未曾有の不忠者”と面罵したらしい」
「信長に拝謁できる、恩賞が貰えると思って、人質の妻子を伴って織田の本陣に参上したら、不忠者と謗られて家族もろとも皆殺しじゃから、人の悪さは織田の方が一枚上じゃの」
上杉景勝は、魚津城救援に出陣する三日前(天正十年五月一日付)に佐竹義重に書状を出し「決戦への覚悟」を披歴している。
(「上杉景勝、常陸佐竹義重並びに芦田盛隆に、信濃等の仕置堅固なる由を報ず」)
遥かに久しく音問を絶ち、本意の外に候…景勝好き時代に出生し、弓箭をたずさえ、六十余州を越後一国をもって相支え、一戦を遂げ滅亡すること、死後の想い出、景勝ごとき者には甚だ不相応に候か。もしまた万死を出て一生を得ば、日域無双の英雄たるべきか。死生の面目歓悦、天下の誉れ、人々のその羨巨多たるべきか…
「…景勝はよい時代に生まれました。弓矢を携え、六十余州を越後一国で相支え、一戦を遂げ、滅亡することは死後の想い出です。景勝の境涯には、はなはだ不相応なことではないでしょうか。もしまた万死を出て一生を得ることができれば、日域無双の英雄というべきでしょう。死生の面目歓悦、天下の誉れ、人々の羨みも大きくなるでしょう」
景勝は日本全国六十余州(「甲陽軍鑑」の数え方では信長の分国は三七ヶ国だが)を挙った大軍を迎え撃って一戦して滅亡する覚悟を、すでに決めている。
五月四日。上杉景勝、春日山城を出陣。
揚北の新発田重家の抑えに、色部長真、本庄繁長。
上野から三国峠を越えて進攻してくる滝川勢の抑えに、栗林政頼、長尾景憲。
信濃の森長可には国境に吉江与太郎、芋川正親を配置し、信濃の一向門徒に蜂起を依頼して越後進攻を妨害させる。
各地に兵力を分散したため、与板勢一千・旗本二千、計三千による出陣となった。
五月十五日。上杉景勝、魚津城より東方へ約一里の天神山城に布陣。
「早く毘沙門天の旗を立てるのじゃ」
先発し松倉城に詰めていた上条宜順や斎藤朝信などを招致して軍議が開かれる。
「魚津城は五月六日に二の
「敵は兵を交代させて夜昼構わず攻め立てております」
「柴田軍の攻城陣地は要塞化されております。柵が設けられ空堀が造られております。
「後巻きの軍勢を拒止して、城攻めに専念する態勢をつくっておるのか」
「夜襲はどうじゃ」
「魚津城から夜襲し敵兵二百ばかり討ち取ったこともあったそうですが、その後警戒されて難しくなっております」
埒があかないので景勝自ら大物見となって偵察することにした。
「あれは何じゃ」
「柴田軍は、井楼を幾つも組み上げて制圧射撃しております」
「あの有様では、城方は手も足も出ず、なぶり殺しされておるようなものではないか。憐れじゃのう。何とか出来ぬのか。城方と連絡はつかぬのか」
「蟻の這い出る隙間もありませぬ」
「矢文でもかまわん。なんとか連絡をつけよ。兵糧を入れることはできぬのか」
厳しい戦いであることは予想していたが、予想をはるかに超える不利な状況で何もできない。
しばらくして城方の矢文が届いた。
井楼から射撃される柴田軍の鉄砲の威力は凄まじいもので柱も打ち砕く威力がある。人馬がバタバタと射ち殺され、城内は死体の山になっている。なんとか井楼を破壊しようとして闇夜に決死隊を出したが、鳴子縄が仕掛けられており、それにひっかかり集中砲火を浴びて決死隊は全滅した。どうも夜襲の経路を読まれていたようで、きっちり射線が敷かれていた。
われらは井楼の死角の壁に隠れて立ったまま寝ている。敵が本丸に入ってきたら、せめて一太刀浴びせたいという一念だけで、敵の攻撃に耐えている。
「助けてくれと書いてないのか」
「はい」
「何か策はないのか」
兼続も前線まで出て、敵情を偵察するが攻め口が見つからない。
敵は一万五千。われらは魚津城一千、松倉城二千、天神山の本隊三千で計六千じゃ。
われらを小勢と侮って、仕掛けてくれれば勿怪の幸いと、さまざま挑発するのだが、柴田軍は攻城陣地から一切出てこようとしない。
強引に槍隊を突撃させようか、いや全滅するだけじゃ。われらが焦れて攻撃してくるのを待ち構えておる。城方には、もう、われらと呼応して打って出る兵力も体力も残っておらぬ。敵も、それは充分承知しておる。
そんな時、越後に亡命していた能登の国人・長景連が「海上機動によって自分の元の領地に上陸し敵の後方を撹乱したい」と意見具申してきた。
景勝は兼続に「止めさせよ」と言う。兼続、長景連を呼んで説得する。
「お気持ちは嬉しいが、全滅するだけじゃ。そなたたちが上陸して橋頭堡を確保しているところを、われらが援護できればよいのじゃが、能登はいささか遠すぎる。なにとぞ思いとどまられよ」
「全滅することは、もとより覚悟しております。わしら一族がこれから為すことは愚行じゃ。戦局にも何の影響も無いかも知れませぬ。しかし、われらはもう死ぬしかないのじゃ。能登や越中の国人領主たちが信長にほとんど殺されたことはご存知か。織田に降参したにもかかわらず、みな、だまされて殺されておる。まして敵対した、われらは必ず殺される。どうせ死ぬなら自分の城、領地で死にたい。みなも同じ気持ちじゃ。お願いいたす」
万分の一の僥倖を期待して作戦を許可したが、案の定、一日で鎮圧されてしまった。
さらに悪い知らせ。北信の森長可の軍団と上野の滝川一益の軍団が、越後に向かって進撃を開始したとの報告。
「仕方ない。撤退するしかないか」
森長可は、自分一人で春日山城を落として見せると広言しておるようじゃが、春日山城は難攻不落じゃ。森自身、そんなに簡単に落とせるとは思うておるまい。
どう考えても陽動じゃ。われらを越後に引き揚げさせて、魚津城を攻略した柴田軍の越後進攻に呼応して総攻撃するつもりじゃろう。敵の陽動に引きずり回されておることは分かっているのに、どうすることもできない。
魚津城の諸将も失望するじゃろうが撤退するしかないじゃろう。断腸の思いじゃ。
純軍事的には春日山城は不落の要塞であるが、国人領主の謀反や離反とか、想定外の事象が起こる可能性がある。どう考えても撤退するしかない。
「北国弓箭の是非を付ける」有無の一戦と気負いこんで出陣したものの、強力な陣地に拠る柴田軍に相手にされず、何もできないまま、味方が殲滅されているのを手をつかねて見ているだけ。どうにもこうにもならない。
「魚津城へ降伏を許可する書状を送りたい。連絡をつけるのじゃ」
忠節を尽くす家臣を見捨てるわけにはいかない景勝、城兵を救う決断をする。
ところが十重二十重に囲まれた魚津城本丸に連絡する術がない。矢文では内容が内容だけに、敵の謀略と思われるかもしれず心許ない。
「与六様、うちが行ってくるよ」
波里が連絡役を買って出る。
「だめじゃ。そなたは、それがしの傍らを離れてはならぬ」
「細作が何人も送り込まれましたが誰も帰って来ておりませぬ」
「なおさらじゃ。そなたまで死なせるわけにはいかぬ」
「大丈夫。考えがある」
「どんな考えじゃ。説明せよ」
「魚津城の西側は海に面しております。泳いで行って上陸したら、遊び女に化け、隙をついて本丸に入ります。いかがでしょうか」
本当は行かせたくないが、時間がないので仕方なく許可する。
「必ず生きて帰ってくるのじゃ」
「(帰ってきたら、いっぱい可愛がって下さいね)」耳打ちする波里。
魚津城を死守しても春日山城が陥落したら何にもならない。須田満親を国境に残し魚津城を撤退してきた将兵を収容させることにして、春日山城に強行軍で帰還する。
「管窺武鑑」によれば春日山城と天神山の連絡は早飛脚で二日、軍勢の移動で四日とある。それに基づけば五月二七日に天神山を引き揚げた上杉軍が春日山に到着したのは四日後、数えると五月二八日・五月二九日・六月一日(太陰暦なので天正十年五月は三十日以降がない月)六月二日になる。
天正十年六月二日未明に本能寺の変が発生しているが北陸ではまだ誰も知らない。
「蓼沼友重殿、新発田軍を破って新潟に突入」
「本庄繁長殿、新発田城下まで迫り攻撃中」
新発田を抑え込んでいる勝報も届くが、心は浮き立たない。
「五月二三日、三国峠に進攻してきた滝川益重(一益の甥)率いる二千の敵を邀撃、勝利しております」
「さらに栗林政頼殿は、敵の策源地である上野猿ヶ京城を夜襲しております」
上田口からの勝報も届いた。栗林殿は勇将、峠を守る上田衆は精鋭、士気も高い。
しかし今後のことを思うと全く喜べない。滝川一益は上野に着任して日も浅い。小手調べのつもりじゃろう。柴田軍の越後進攻に呼応して、本格的な攻勢をかけてくるつもりじゃろうな。どれくらいの兵力になるか、北条も協力するじゃろうから、少なく見ても二万は下るまい。
「森長可、関山を越えて二本木まで進出しております。推定兵力五千」
「明日にも出陣する。物見を出して敵の動静を報告させよ」
魚津城が開城する前に撃破しておきたいが、こちらの考えが手に取るように分かるようで、牽制するだけで戦う気はないようじゃ。五千ということは、森長可の領地・北信四郡から動員した兵だけじゃな。甲信に分封された毛利や河尻、それに徳川家康の後詰が来れば二万を下るまい。
魚津城を攻撃中の柴田軍が一万五千、越後進攻となると参陣する地侍も増えるじゃろうし、二万近い大軍になるじゃろうな。信長の親征もあるやも知れぬ。
越中から二万、信濃から二万、上野から二万、信長の親征があったら本隊四万がこれに加わる、総勢十万!さらに会津の蘆名や米沢の伊達も攻め込んで来るじゃろう。
どう考えても絶対絶命である。
「一戦して滅亡する」ことさえ難しくなってきている。大軍が進攻してくれば戦意を失って逃亡する兵も出てくる。武田崩れの時は諏訪上原城に詰めておった二万の大軍が逃亡兵続出で千まで激減したらしいが、同じことが起きる可能性も出てきた。
「力及ばず申し訳ございませぬ」
お船に詫びる兼続である。
「何を言っておるのじゃ。戦はこれからじゃ。そなたが弱気になってどうする」
流石に腹は殴られなかったが、大変な剣幕で怒られる。
「できる限りの兵糧を集めて城内に運び込んでおいた。籠城戦じゃ。寄せ手が降り積もる雪に押しつぶされて全滅するまで戦うぞ」
そうじゃ、われらには雪という強い味方がある。雪が降り始める時まで籠城して粘れば勝機が出てくるやも知れぬ。
「まだ時間はある。対策を考えるのじゃ」
「はい」
「そなた柴田軍をどう見た」
「火力の充実には目を見張るものがありました。どうにもこうにもなりませんでした」
「柴田軍の先鋒は佐々成政じゃ。織田の鉄砲隊の指揮官を長く務めた男じゃ。長篠の戦いでも鉄砲隊を率いておった、鉄砲の使い方が上手いのは当り前じゃ。柴田軍と、まともにやりやっては勝負にならぬ。あやつらの領国で一揆を起こすのじゃ。今のところ信長に圧殺されておるが一向門徒は健在じゃ。これに連絡をつけるのじゃ」
「森長可はどうじゃ」
「武田攻めの時は、信忠軍の先鋒として大活躍したそうで、なかなかに手強き男じゃと見ております」
「こやつの弟は信長の寵臣じゃ。故に、かなりの自由裁量を認められておる。抜け駆けなど軍律違反を重ねて戦意なき武田相手に大暴れして調子に乗っておるだけじゃ。どこぞに伏兵を忍ばせて、おびき寄せれば、命を取ることも容易いと思うぞ」
段々とお船の話に引き込まれた兼続、「では滝川一益は」と、つい聞いてしまう。
「滝川は一向一揆を殲滅した後の北伊勢五郡を任された男じゃ。難しい国を治める力量があると見込まれて上野に派遣されてきたのじゃろう。しかし北条は内心快く思ってはおるまい」
「武田は利根川以西の西上野しか領有してなかったのに、滝川は利根川を越えて厩橋城に入っておる。北条領を奪い取るつもりじゃ。上野は上杉憲政様の頃より北条が執着してきた地じゃ。横取りされると思っておるはず」
「反北条の北関東の諸将は争って厩橋城に出仕しておる。北条の危機感は強まっておるじゃろうな」
「なるほど。さすがに北条も、上杉の次は自分の番だと思い知ったでしょうな」
「北条は、われらにとって不倶戴天の敵じゃが、信長に対抗するために共闘する余地は生まれつつある」
「ともかくできる限りの手を打つのじゃ。まだ時間はある」
そうじゃ。最後の最後まで強気で戦い抜くべきじゃ。元気になった兼続。
「ところで、そなた用事があったのではないか」
「そういえば、森長可に敗れて越後に逃げてきた元武田家臣の言によれば、松姫様一行は仁科様の小さな姫を連れて八王子まで落ちのびられておる由。ご無事です」
「それを早く言え」
「ぐふっ」
やっぱり腹を殴られる。
亭主を、直江家の当主で上杉家の執政を殴る暴力妻ってどうなんだろう。
お船、走って菊姫のところに報告に行く。
「松姫様の消息が判明しました。武蔵国八王子というところで御健在です」
「そうか、松姫は無事じゃったのか。本当に良かった」
「武田の旧臣がお守りしておるようでございます」
「不自由はないのじゃろうか」
「春日山城にお呼びいたしましょうか」
「いや、二度も亡国の憂き目に合わせるわけにはいかぬ。わらわには、そなたがおる。これ以上のことを望めば罰があたるであろう」
お船、黙ったまま平伏する。なぜか涙がこぼれる。
天正十(1582)年
六月三日
春日山城・上杉軍本陣。
「森長可、二本木から動きません。各地に物見を出しているようです」
二本木で、柴田軍の越後進攻を待っておるのか。敵中に孤軍で突出しておるので不安もあるのじゃろうな。
「森の軍勢の背後に回り、あたかも退路を断つかの如く陽動するのじゃ」
「上条宜順様、小出雲に進出。織田軍と対峙しております」
「それで魚津城はどうなっておる」
「二日前の情報になりますが開城に向けた交渉に入っておるようでございます。国境で待機している須田満親殿より柴田軍の銃声が止んでおるとの報告がございました」
波里、無事城内に入って連絡出来たようじゃな。本当に良かった。
魚津城は落城し、城将十二名(吉江景資を加えれば十三名となる)は自害しているが、情報の伝達に時間がかかるので景勝主従は、まだ知らない。
六月四日
春日山城本陣に昼過ぎに悲報が届く。
「須田満親殿より、急使。魚津城落城いたしました」
「なに」
「開城に向けての交渉しておったのではないか」
「柴田軍は城兵全員を助命する。証人(人質)として佐々成政の甥、柴田勝家の従弟を出すというので、二人を受け取り本丸を明け渡して三の曲輪に集結したところ、突如内外から攻撃されたようです」
「なんと」
波里は無事じゃろうか。蒼ざめる兼続。
「乱戦の中、人質を殺し本丸を奪還し、そこで皆様自害されたようでございます」
「みな、死んだのか」
吉江親子、山本寺、竹俣、中条…みなの顔を思い浮かべる景勝。
忠節を尽くした家臣にすぐに会えると、八十日を越える敢闘を労うつもりだった景勝は大変な衝撃を受けた様子で、ひとりになりたいと毘沙門堂に籠ってしまった。
「柴田軍の動静は」
代わって兼続が尋ねる。
「引き続き松倉城を攻撃しております」
松倉城には誰も残っておらぬ。今日は宮崎城を攻略し、明日には、国境を越えてくるじゃろうな。
「ご苦労じゃが、早速立ち返り須田殿に毎日伝令を送るようにお願いするのじゃ」
波里、大丈夫だろうか。
しかし織田の
「森長可の動静はどうなっておる」
せめて森の首でも取らないと溜飲が下がらない兼続、奇襲できないか偵察させる。
六月五日
昨日に続いて、ひとり毘沙門堂に籠る景勝、自問自答している。
わしは上杉家の家督を三郎(上杉景虎)殿と争った。血筋から言っても、わしの方が謙信公の後継者にふさわしいはずじゃと、どうしても譲ることができなかった。与六やお船の助けもあって、わしが後継者になることができた。しかし、それは本当に正しいことだったのか。
もし勝頼公が冷徹な計算をされるお方で三郎殿に加担しておれば、わしは滅亡しておった。しかし三郎殿が上杉の家督を継いでおれば、武田と北条が手切れになることはなく、上杉・武田・北条の三和が実現しておったはずじゃ。さすれば、武田が徳川・北条に挟撃されて疲弊することなく、滅亡することもなかった。
勝頼公は信玄公が亡くなって九年、家を保った。謙信公が亡くなって四年と少ししかならないのに、上杉家は滅亡のみぎわじゃ。勝頼公を憐れむ立場ではない。
三郎殿は姉婿、わしは譲ることはできなかったのじゃろうか。いや、道満丸を謙信公の後嗣に立て、わしが後見する道もあったやもしれぬ。あのとき三郎殿と話が出来ておれば…。
わしは謙信公が三郎殿の方を寵愛している、気に入っているという事実を認めることができなかった。謙信公は、十歳で父親を亡くしたわしを、わが子のように慈しんでくれた、その日々が偽りになると思ってしまったのじゃ。
いや、魚津城の城兵たちのように、わしのために忠節を尽くして死んでくれた数多の家臣の事を思うと、わしは弱気を見せてはならぬ。いや、わしの進んできた道は間違っておらぬ。正しい、正しいはずじゃ。正しくなければ、死んでいった者たちが浮ばれまい。いや、死んでいった者たちのために正しいことにせねばならぬ。それが上に立つ者の務めじゃ。
謙信公は毘沙門堂に籠っておられたが、何を考えておられたのじゃろう。一心不乱に仏事に没頭しておられたのかな。冥府でお目にかかったら、お叱りを受けることになるじゃろうか。不肖の者として…
お詫びのしようもない。天下に武名を轟かせた謙信の家をわしが滅ぼすことになる。
上杉家滅亡が目前となり、心が千々に乱れる景勝である。
六月六日
「森長可の陣に動きあり」
「春日山城への進撃を始めたのか」
「いや、一部の部隊が信濃へ撤退しております」
「北信で何か起きたのか?一向一揆が蜂起したのか」
本能寺の変
天正十(1582)年
六月
二日 本能寺の変。
大坂の織田信孝・丹羽信秀、午前中に本能寺の変を知る
三日 備中高松城で毛利と対陣中の羽柴秀吉、深夜に本能寺の変を知る
越中魚津城陥落、直後に柴田勝家、本能寺の変を知る(異説あり)
四日 午前、高松城主清水宗治自害。午後、秀吉軍撤退開始。
徳川家康、岡崎城に戻る。
五日 織田信孝、津田信澄(光秀の娘婿)を大坂城で討ち取る。
柴田軍、宮崎城(親不知付近の国境の城)を攻略
六日 柴田軍、撤退開始(柴田が知ったのは六日説もある)
九日 羽柴秀吉、姫路城出陣。
十三日 山崎の合戦
十八日 柴田軍の先鋒、近江長浜に到着
二七日 清洲会議
天正十(1582)年
六月八日
「越中魚津城の柴田軍、六日に撤退を開始いたしました」
「二本木の森長可も陣払いして撤退を開始しております」
春日山城で、あっけにとられる景勝と兼続。
「いったい何が起きたのじゃろう」
「上方で、織田政権中枢で何らかの凶事があったのでしょうか」
「なんじゃ。信長が死んだのか」
そんなうまいことがあったら、躍り上がって喜ぶが、そんなことあるわけない。
六月九日
東国で唯一信長と敵対していた上杉家には、なかなか正確な情報は入ってこない。
景勝と兼続の会話。
「秀吉が毛利方に捉えられたため、その救援のために信長が出陣したが秀吉は死亡、軍を返した信長は撤退の途中で甥の津田信澄の謀叛に遭い、切腹したらしいです」
本当かな。
「信長が死んだ。まことか」
「真偽不明の情報が乱れ飛んでおりますが、信長が死んだことは確実だと思います。それ以外に、柴田勝家・森長可が軍勢を撤退させた理由は考えられませぬ」
「上杉家滅亡の危機は去ったということか」
「はい」
「天下の大軍を相手に一戦することはなくなったのか」
「はい」
どうも、はっきりしないので心の底から喜ぶことができない。
「こんなことになるなら、天神山から撤退しなければよかったな」
そうすれば魚津城で忠節を尽くしてくれた十三将を殺さずに済んだ。
「御意」
誰も明日の事はわからない。信長も横死するとは思わなかったじゃろうな。
波里、死んでしまったのじゃろうか。行かせるべきではなかった。
直江屋敷。
「森長可は海津城から逃亡したようじゃ」
「では、早速北信四郡を接収せねばなりませぬな。明日にでも出陣いたします」
「まてまて、兵も疲れ切っておるじゃろう。四、五日日休ませるのじゃ」
「しかし」
「そなたも疲れておるじゃろう」
布団の中で、お船が優しく抱きしめてくれる。
そういえば武田家滅亡から魚津城落城まで、毎日張りつめておったような気がする。
「波里を殺してしまいました」
涙をぼろぼろ流しながら、言えなかった秘密を懺悔する兼続。
「聞いておる」
「行かせるべきでなかった」
「仕方あるまい。他に手段がなかったのじゃから。それに魚津の城将たちと連絡はついたのじゃから、任務は達成しておる」
「しかし」
「魚津城では多くの者が忠節を全うした。残されたものが悔やんでばかりおると成仏できぬぞ」
いつになく優しいお船。
ところが次の日。
「ひどい目にあったよ」
ひよっこり、波里が帰って来た。
「生きておったのか」
「生きておるのか」
肩を触って確かめる。亡霊かもしれぬから。
安心したら、猛然と腹が立ってくる。
「今まで何をしておったのじゃ」
「ともかく寝かせて」
寝てないのか、仕方ない。
休みといっても、景勝に報告する戦功の吟味など終日仕事のある兼続。
夕食時に、お船に報告する。
「まだ寝ておるのか」
「はい」
「本当に良かった」
「はい」
翌朝、やっと起きてきた波里に事情を聞く。
「六月三日に開城することが決まったので、日の出とともに、うちらは三の曲輪に
「そなたは何をしておったのじゃ」
「山本寺景長様に、お子様とお腹様をお守りするよう頼まれたので護衛しておりました」
なんと。景長様は若いから、戦陣でも子供ができたんじゃね。
「二人を連れて城の西側の柵の下の海に隠れておりました。潮が満ちてきたので、うちが肩車してたんよ。小さいお子様が泣くので気が気じゃなかった」
「大変じゃったのう」
「城内を念入りに捜索されたら見つかると心配してたんだけど、柴田の軍勢は“上様が亡くなった”とか言って慌ただしく陣払いを始めたから夜まで待って逃げたんよ」
「それから」
「不動山城までお二人を送って、そのまま待機しておりました」
山本寺家の居城までか。
「なぜじゃ」
「いや柴田軍が国境を突破したら、不動山城が真っ先に攻撃されるでしょう。また避難しなくちゃならないから」
「不動山城にも山本寺の家臣がおるじゃろう」
「それが魚津城の包囲を突破した負傷兵の手当てにかかりっきりで、誰にも頼めなかったのです」
「なるほど」
「柴田勝家・前田利家は領国に戻り、佐々成政は富山城に後退したことが分かったので、任務達成ということで帰って来たのです」
「ご苦労じゃったな。山本寺は上杉一門、大切なお血筋を守った功績は大きいぞ」
「それじゃあ、御褒美下さい」
優しく抱きしめる兼続。
「もう二度と、それがしの側を離れてはならぬぞ」
「あい」
「そなたを殺したと思って生きた心地がしなかったぞ」
「くちづけ下さい」
仕方ないなあ。
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