第5話武田家滅亡

 天正七(1579)年七月二十日、春日山城に武田勝頼の妹・菊姫が輿入れしてくる。

「御実城様(上杉景勝)おめでとうございます」

実城御殿の庭から城下を見渡しながら会話する景勝と兼続。

「うむ。武田信玄の娘が上杉謙信の甥に嫁に来るとはな」

「戦国乱世の有為転変、人智では測りがたいものがありますな」

 

 上杉景虎の敗死から四ヵ月、徹底的に焼き払われた春日山城下や府内の復興も進んでいる。商家を再建するため、忙しく立ち働く民草の間を縫うように華やかな花嫁行列が近づいてきている。


 長い祝宴の果てた夜半になって景勝と菊姫はやっと二人きりになることができた。

「武田信玄が娘、菊でございます」


 永禄元(1558)年生まれの菊姫は、この年二一歳。武田信玄の四女である。信玄の娘は黄梅院(北条氏政正室)見性院(穴山信君正室)真竜院(木曽義昌正室)菊姫、松姫(織田信忠と婚約⇒破棄/後に信松尼)と五人いる。いささかとうが立っているのは、伊勢長島願証寺の僧(顕忍)と婚約していたが、天正二(1574)年信長によって長島一向一揆が殲滅され婚約者・顕忍上人も戦死したからである。


「景勝である。遠路ご苦労じゃったな」

甲斐の国色といわれた母親(油川氏)譲りの美しい面差しを上げる菊姫。

「末永くよろしくお願いいたします」

「信玄公の娘御を嫁に貰えるとは一生の誉れじゃ。大事にいたすぞ」

抱き合う二人。

「そなたとわしの子は、信玄公と謙信公のお血筋。日本一ひのもといちの武将となるであろう」

「はい」


 次の日、兼続とお船が呼ばれて菊姫に紹介される。

「樋口与六兼続でございます。お目にかかれて光栄です」

「わしの腹心じゃ。忙しい男じゃが気が利く。頼りにするがよい」

「与六殿、よしなに」

「直江信綱の室、お船でございます」

「奥向きの差配をしてもらっておる。困ったことがあれば相談するとよい」

「お船殿を姉様と思って頼りにいたします。よろしく」


お船の指示でお茶が運ばれてくる。

「みなさまに聞いて頂きたい話があります。菊のかつての許嫁、顕忍上人の話です」

「この二人は、わしの身内も同然、何を話されてもかまわぬぞ」


長島一向一揆の殲滅

元亀元(1570)年  

 九月 石山合戦始まる

十一月 長島一向一揆、長島城奪取。

    尾張・小木江城を攻略し信長の弟信興を自害に追い込む

元亀二(1571)年

 五月 信長の第一次攻撃。

    退却中、殿しんがりの柴田勝家負傷、氏家卜全戦死。

天正元(1573)年

 九月 信長の第二次攻撃。

    退却中、殿の林通政戦死。

天正二(1574)年

六~九月 信長の第三次攻撃。 

     一揆の立て籠もる五城(長島・篠橋・大鳥居・屋長島・中江)を水軍も動

     員して陸海から封鎖し、兵糧攻めをした。

  八月 大鳥居陥落(三日)篠橋陥落(十二日)  

  九月二九日

 兵糧攻めに苦しんだ長島城の一揆勢は降伏を申し出、船で退去しようとするが、信長は許さず鉄砲で殲滅した。この時、顕忍上人や下間頼旦が戦死した。騙し討ちに怒った一揆勢八百が織田本陣に突入、信長の叔父信次、庶兄信広、弟秀成、従兄弟信成、妹婿佐治信方などの一門衆の歴々と新井新八郎など多くの旗本が戦死する。

怒り狂った信長は、残った屋長島、中江を柵で封鎖した後、火攻めにし二万余が焼き殺された。

 今川義元の軍師・雪斎に三河安祥城で捕らえられ松平竹千代と人質交換されたことで知られる織田信広も、ここ揖斐川河畔で戦死している。


「長島一向一揆の攻撃で弟や重臣を戦死させた信長は、長島一帯を海上封鎖して飢えさせ、攻略した大鳥居、篠崎の門徒を長島城に追い込んで、さらに飢えさせた後、大将が切腹したら他の者は許すと、偽りの降伏勧告を出し、武装を解除して出てきた門徒衆に鉄砲・弓を射ち込んで殲滅しました。菊の許嫁の上人様は十四歳でしたが、この時亡くなりました」

知れば知るほど、胸糞の悪い奴じゃな。信長は。

「信長の降伏勧告を信用せず、抜き身の刀を隠し持っていた八百余人の一揆勢がいなければ、むざむざと全員が殲滅されてしまっていたと思います。本陣に突入して包囲を突破した一揆の生き残りが大坂に辿り着いて、信長の悪辣な策略が明らかになったわけで、殲滅されていたら永遠に分からなかったでしょう」

兼続もお船も黙って聞いている。

「信長に情はなく敵対した者は決して許しません。しかし、その調略には人を信じ込ませる力があります。人を信じたい状況に追い込んで信じ込ませるのです。岩村城で騙されて長良川で逆さ磔にされた秋山信友は武田家中で知将と評されておりました」

 菊姫様は許嫁の亡くなった事情を自分でこつこつ調べたんじゃろうね。

「そして信長の調略の手は武田にも、この上杉にも及んでおります。ゆめゆめ油断なさらぬように、お願いいたします」



「真田昌幸殿、久しいのう。元気じゃったか。三七、酒を持ってこい」

「合点」

菊姫の花嫁行列の護衛部隊に真田昌幸が紛れ込んでいた。いろいろ話があるみたい。

「まあ、一献」

「樋口殿、こたびの内乱、心配しましたよ。御無事でうれしいです」

十三歳上なのにへりくだるのは、からかい半分も、多分にある真田昌幸の癖。


「決して不満を言っておるわけではないが、どうして松姫様ではなく菊姫様になったのじゃ」

 松姫は永禄四(1561)年生れで菊姫の三歳下の十八歳。年恰好から言って、当初は松姫が輿入れされるようなことを聞いたような気がしたので、純粋に疑問に思って訊ねただけだが、真田昌幸の顔が突然曇る。


 相変わらず怖い男じゃ。こいつはどこまで知っておるんじゃろう。嘘ついて誤魔化しておこうかの。いや、いや、いや。こいつには嘘をつきたくないな。

 真田昌幸、値踏みするかのように目をずるく光らせ、しぶしぶ白状するかのように嘘をつきかけて、思い直し、やはり、そなたには伝えておこうと武田の秘密を話す。


「松姫様が、かつての許嫁・織田信忠に操を立ててお断りされたから、菊姫様にお鉢が回ったというのが表向きの理由じゃ」

「裏は」

「武田は信長との和睦も考えておるのじゃ。常陸の佐竹を仲介役として。岩村城で秋山信友が捕虜にして甲府に送った信長の五男御坊丸と、信長の長男信忠のかつての許嫁松姫様は、数少ない大事な手駒じゃ。信長との和睦交渉のための温存じゃ」

な、な、な、なんと。び、び、び、びっくりした。そこまで考えておるのか。

 

 後世、独ソ不可侵条約に「欧州の天地は複雑怪奇」と驚いて内閣総辞職した平沼騏一郎首相なみに驚く兼続(歴史上滅多にない驚きを表す形容と考えてご寛恕下さい)


 親織田派の松姫を手元において、反織田派の菊姫を送り込んできたわけか。

「信長が乗ってくるとも思えぬが」

「可能性は少ないじゃろうな。じゃが外交は不可能を可能にする芸術じゃろ。そなたも上手くやったではないか」

ははあー。こいつ、高坂弾正殿に何か聞いておるようじゃな。


「ところで武田と北条との関係は、どうなっておるのじゃ」

「決裂寸前ですな。勝頼公も北条に対する不信感でいっぱいじゃ」

「われらは六月には越後に入って和睦調停を二ヶ月もしていたのに、氏政が上野に入ったのは七月中旬、氏政本人はとうとう最後まで三国峠を越えてこなかった」

「佐竹を盟主とする反北条連合軍に拘束されて動けなかったというが、そもそも謙信公が亡くなった時点で、北関東に出兵するべきではないじゃろ」

 真田のというか武田の北条に対する不満が噴出する。仏の弟子たらんとした謙信公でさえ、北条氏政には腹を立ててたしな。氏政は人をムカつかせる男なのじゃ。

「いや、われらが心配することではないが、北条の作戦おかしくなかったか」

「おかしゅうござった」

「それがしは三郎殿は本当に北条氏政の実弟だったのか、そこから疑っておる。あまりにも薄情すぎてな」

「氏政は“江戸、葛西、川越、岩槻の勢一万五千の着到にて、碓氷峠を越え、信濃路より押し入るべき評定”というておったのに、上野の三国峠から上田口に攻め込んだのは不可思議ですな」

「そうじゃな。北条軍主力が碓氷峠を越えて信濃海津城あたりで武田軍と合流して、越後に押し出して来たら、われらとしても手の打ちようがなかった」


「結局、北条の野心は関東限定なのでしょうや」

「あれかな。三十六計の二十四番目の計」

兼続と真田昌幸、久しぶりに会って嬉しいのか飲み過ぎている。

「道を仮(借)りて越後を討つと見せかけて上野を手に入れるということですか」

「北條高広など東上野衆は、北条の作戦指導を深く恨んでおると聞いておるがの」

「東上野衆は、先手として雪降り積もる三国峠に放置されたうえ留守を調略されておったゆえ当然ですな」

「いや武田も調略しておったようじゃが。われらは東上野を手柄次第と武田に割譲しておるから、文句を言っているわけではないぞ」

「そうでしたか。心当たりないなあ」

「そう言えば真田昌幸殿、最近安房守を名乗っておるとか。安房守はいにしえの永享の乱や結城合戦で活躍された関東管領山内上杉憲実様の官途じゃな。当然上野も治めておられたお方じゃが。そなたも上野に野心があるのではないか」

「いやだなー。勘繰りすぎですよ。田舎武士の私称に取り立てて意味はないですよ。ぎゃははは」

真田、お前は飲みすぎじゃ。それに嘘も下手じゃな。


天正七(1579)年

八月末   厩橋城主北條高広、武田に服属。河田重親も服属(十二月)

八月二九日 徳川家康、正室築山殿を殺害する

九月 五日 北条氏政、徳川家康と同盟(天正八年には信長とも同盟)

九月十五日 徳川家康、嫡男信康を遠江二俣城で自害させる

九月十七日 徳川家康、遠江掛川に出陣


春日山城実城御殿でお船と兼続が情勢分析している。


「徳川家康、嫡男信康を切腹させたそうじゃ。築山殿も殺したようじゃな」

「妻子を殺して守る家とは如何なるものでありましょう。信長の命令ですか」

「どうも信康の正室徳姫から父親である信長に報告があったようじゃな」

「信長に知れた以上、ごまかすことができなくなって処分せざるを得なかったのでしょうか」

「重臣の酒井忠次を岐阜に送って信康切腹の許可を得たそうじゃ。あくまで徳川の事情で処分するが信康は信長の娘婿だから許可を取るという体裁を取ったのであろう」

「酒井とやらも、えらい迷惑な話ですな」

「家康は信長に、ほんの少しでも疑われるわけにはいかんから信康を殺さざるをえなかったのだろうな」

「嫡男を切腹させた二日後に出陣とは。家康の心中、察するに余りあるものがございますね」

「戦国大名の後継ぎは難しい地位なのじゃ。武田義信公といい、徳川信康といい。当主に反対する勢力が集まってきやすい。後継ぎがいないのも、別の問題があるが」

それは身に沁みています。


 徳川家康は、終生、武田信玄を尊敬し、武田家に好意的だった。穴山信君の子、勝千代が早世し穴山武田家が断絶した後も、五男信吉に武田の名跡を継がせ再興しようとした(信吉が若死にしたので失敗。見性院は幼い保科正之に最後の望みを託す)。

 足利氏の分国だった三河生れの今川育ちから来る生得の名家好き。天正壬午の乱で服属させた甲信の旧武田家臣団に対する配慮。信玄の卓越した統治や用兵に対する尊敬。さまざまな要因が考えられる。その核心には、愛する嫡男を自らの手で殺さざるを得なかった父親として、同じことをした信玄に対する共感があるのではないか。

 人質として長く忍従して育ったため、冷静で感情を表さない家康の数少ない悔恨を見せた逸話は信康に関するものしかない(関ヶ原の「せがれ」発言など)。

 三歳になる前に父親に生母を離縁され、七歳の時に父親が若死に(享年二四歳)した家康に兄弟はいない(生母伝通院が久松家に再嫁して生まれた、種違いの同腹の「弟」「妹」異父弟妹はいるが)。天涯孤独な家康にとって嫡男信康の誕生はどれほど嬉しいことであったか、どれほど期待し、どれほど頼りに思ったか想像に難くない。

 最愛の息子を殺さざるを得なくなった哀しみ、苦しみ、後悔、押しつぶされそうな家康を支えたのは、十二年前に同じことをせざるを得なかった信玄の存在だったのではないか。


「ところで家中の統制はどうなっておる」

「はい、まだ本庄秀綱や神余親綱が抵抗しており、完全に鎮圧できてない状況ですから、表面化しておりませんが、恩賞に対する家中の不満は大きいようです」

「御実城様も一日三十通書状出して多数派工作しておったからのう。空約束のつじつま合わせが大変じゃな」

「論功行賞と並行して御実城様のもと一糸乱れぬ上杉を造らねばなりませぬな」

上田衆の抜擢・登用、身内びいきと反発されるじゃろうな。じゃが謙信公の頃とは時代が違う。信長軍が越中まで迫っておるのじゃ。今の体制のままでは勝てぬ。

「そなたは前に出てはいかんぞ。恩賞とか難しいことは重臣たちに任せなさい。無用な恨みを買うことはない」

「もとより、それがしのような若輩に出る幕などありませぬ」

なんか、最近お船殿が優しい。


 お船の前では謙遜していた兼続だったか、景勝の専制権力が強まるにつれ第一の側近である兼続の立場も高まっている。国内の領地争い、恩賞や相続をめぐる訴訟、家督相続に関する願い、隣国の動静報告、前線の戦況報告などなど、国内外から寄せられる願望や報告が、ひとまず御側取次である兼続に一元的に集まり、景勝に報告される体制が確立されつつある。


天正八(1580)年

四月二二日 古志郡栃尾城落城、城主本庄秀綱逃亡

六月二六日 刈羽郡安田城主、安田顕元、自害。

七月 二日 蒲原郡三条城主神余親綱、家臣に叛かれ殺される



天正八(1580)年四月、景勝の率いる大軍が本庄秀綱が籠る栃尾城を包囲している。

「難攻不落の城のように見えるが」

城下に設営された本陣から、栃尾城を見上げる景勝と兼続。

「謙信公初陣の城でござる。天文の昔、謙信公の若年なることを侮って攻め寄せた敵の大軍を寡兵で打ち破ったとか」

「謙信公は、お幾つじゃったのか」

「確か十五歳かと」

「まさしく“栴檀は双葉より芳し”じゃな」

 本庄秀綱の父実乃は謙信公創業の功臣。秀綱も謙信公に愛された側近じゃった。謙信公に反逆した上田長尾の覇権を、どうしても認めることができないんじゃろうね。


「与六様」

「なんじゃ、三七」

「城内は逃亡者が相次ぎ混乱状態にあります」

「あいわかった。御実城様、孫子に“囲師には必ずひらき”と、あります。搦手を開けて逃亡させてやりましょう」

「うむ」

「三七、三日後に総攻撃という流言を城内に撒くのじゃ」

「かしこまりました。それで三日後には」

「そうじゃな、適当に火をつけて混乱させるのじゃ」

「かしこまり」

「まて、そなた自身は城に潜入してはいかんぞ」

「なんで」

「そなたは、それがしの小者をしておればよいのじゃ」

「過保護すぎる」

「細作の報告を、それがしに伝えるのは大切な役目じゃ」


三日後の四月二二日。

「栃尾城制圧いたしました。城内隅々まで探索いたしましたが、城主本庄秀綱の遺体を発見するに至っておりませぬ」

城内に突入した先手の大将よりの使い番が報告する。逃げたのか、意外じゃ。本庄秀綱の行方は、杳として知れなかった。

「次は神余親綱か」

景勝が呟く。


 六月末、いったん春日山城に兵をもどした景勝が再び大軍を率いて神余親綱の籠る三条城を包囲している。

 

 神余親綱。上杉の外交官として、長らく京にあり謙信の上洛にあたっては、将軍や天子に対する拝謁を成就させる外交手腕を発揮した。越後の特産である青苧の販売の奉行も勤め謙信の連年の遠征を資金面から支えた。謙信の信頼も厚く、天正五(1577)年山吉豊守・盛信と当主が相次いで亡くなった山吉家の転封に伴い、三条城の城主に取り立てられている。

御館の乱の当初、山吉景長(山吉家当主)とともに景勝派に付く動きをみせていたが、会津・蘆名氏の越後進攻の動きに備えて領内より人質を取ったことを景勝に咎められ反発する。上杉憲政が調停に乗り出したが不調に終わり、天正六年五月一日に景勝と手切れとなる。上杉家中で最大の戦力を誇った山吉家の城と領地を引き継いだ神余親綱の景虎支持表明は、御館の乱の戦闘開始のきっかけとなり、五月五日、最初の戦死者が出た第一次の大場の戦いが発生した。

 

「神余親綱は、菅谷綱輔殿に降伏を申し出たそうじゃが御実城様は蹴りました。戦は長引くのじゃろうか」

 何故か景勝と別れて急遽、春日山城に引き返した兼続、お船と情勢分析している。

「三条城は要害じゃし、神余の率いる兵も多いが、なんとかなると思うぞ。三条城には、山吉の旧臣も多い。山吉景長殿に調略させておる。先のない戦いで滅亡するのは誰も望まぬことじゃ」

「なんと」

「山吉家は、お船の母の実家じゃ。与六殿、景長殿に目をかけてやってくれ」

最近、こういう類の頼みごとをされることが多い兼続である。


「ところで、安田顕元殿が自害されたというのは本当ですか。御実城様も大変驚かれて、それがしを立ち戻らせた次第です」

「うむ。二六日に自害して果てたとのこと。かわいそうなことをした」

「三郎殿を討ち取れたのも鮫ヶ尾城の堀江宗親を調略した安田顕元殿の功績であったのに。何故」

「景虎派の切り崩しや、去就不明の中立派を味方につけるために恩賞を約束して、その不履行を責められたようじゃな。病気で亡くなられた揚北の新発田長敦殿の後をついだ、弟の新発田重家殿などに強硬に抗議され、武士の面目を守るために自害したらしい」

「かわいそうに」

 お船と兼続、まるで他人事の様なことを言っているが確信犯である。景勝の権力を強化するため子飼いの上田衆を抜擢・登用したために、安田顕元の恩賞の約束が結果として反故にされた結果の自害であるから。兼続は、信長軍と戦える体制構築を大義名分としているが、キレイごとにも思える。


「ところで、もっと重要な話がある。本願寺が信長と講和した影響が北陸でも出始めている」


石山合戦の終結

天正六(1578)年

 三月 上杉謙信、死去

 十月 荒木村重、信長に謀反

十一月 第二次木津川海戦。九鬼水軍、毛利水軍を破る

    荒木村重の部将、中川清秀・高山右近、信長に帰順

天正七(1579)年

十一月 摂津有岡城陥落。信長、荒木村重の一族・家臣ら人質を全員処刑。

天正八(1580)年

閏三月 本願寺(顕如法主)、信長と和睦(五日)。

    ①信長は本願寺を含め教団全体を赦免し、その地位を保証する

    ②本願寺は信長に大坂及び出城の花熊・尼崎を引き渡すこと

    ③大坂退去後、本願寺が敵対しなければ加賀江沼郡・能美郡を返還する

閏三月 教如(顕如の長男)大坂に籠城し、徹底抗戦を主張(十三日)

 四月 足利義昭、教如に援軍を送ることを毛利に要請(七日)

    本願寺顕如、紀伊雑賀へ下る

 七月 本願寺の出城、花熊など陥落。教如、信長に降伏。

 八月 教如、大坂退去(二日)大坂本願寺炎上


「四月初めまでに金沢御堂も攻略され、加賀一国ほぼ柴田勝家によって平定されたようじゃ」

「金沢御堂は、北陸における一向一揆の総司令部。われらが内戦をやっている間、織田軍の北上を食い止めてくれていた一向門徒が信長の軍門に下ったとなれば、織田軍の越後国内への進攻も目前となりましたな」

「これ以上、内戦をしておる時間はないということじゃ」


「武田が長篠敗戦で数多の侍大将を喪ったことに同情しておったが、考えて見れば、こたびの内戦でわれらが喪った侍大将はそれ以上じゃ。軍勢の強さを支えるのが侍大将だとしたら、謙信公の頃より強さは半減したとみるべきじゃろうな。当主の絶えた家を再興させたり、若手を抜擢して一軍の将にしたり、軍の強化にも努めねばならぬ。時間との競争じゃ」

“万卒は得易く一将は得難し”

お船殿のいうことは、いちいち尤もじゃな。その通りじゃ。


 七月二日、三条城の元城主だった山吉家当主山吉景長の調略が功を奏し、山吉の旧臣が神余親綱を殺害、三条城は開城した。

  

 本願寺が信長と講和し金沢御堂が滅亡するという情勢を受けて、春日山城に凱旋してきた景勝が重臣を招集し、今後の方針を決定する評定が開かれることになった。

参加者は以下の面々である。


上条政繁 景勝の妹婿。御館の乱でも活躍した。出家して上条宜順と名乗っている。

山浦国清 村上義清の息子。御館の乱の活躍で景勝より景の字を賜り景清と改名。


河田長親 謙信の側近。越中魚津城将。越中・能登方面の上杉方の総指揮官。

斎藤朝信 謙信の側近。刈羽郡赤田城主。

竹俣慶綱 謙信の側近。揚北衆。


直江信綱 謙信の側近だった景綱の養子。

山吉景長 謙信の側近だった豊守の次子。


山崎秀仙 謙信の奉行。儒者。専柳斎と号する。


泉沢久秀 景勝の側近。上田衆。

桐沢具繁 景勝の側近。上田衆。

大関親憲 景勝の側近。上田衆。後に水原と改姓。

狩野秀治 景勝の側近。

       

「山吉景長殿の調略のおかげで三条城を開城させることができました。自今、北條高広の老臣石口広宗が守る北條城や沼垂郡黒川城主の黒川清実など、景虎派の残党は調略で服属させたいと考えております」

仏像のように黙って座っている景勝に一礼した後、兼続が評定を開始する。

「如何なる手立てでやるのじゃ」上条宜順が聞いてくる。

「はい。上野・厩橋城におる北條高広は現在、武田に臣従しております。武田よりも穏当な処分を望む申し入れがございました」

おおかた、北條が真田あたりに泣きついたんじゃろうね。

「北條より石口に降伏勧告させるよう要求いたしております。一方黒川清実は、米沢の伊達輝宗殿に取り成しを願っておると聞いております。降伏は時間の問題かと、信長軍が迫っておる以上、これ以上の内戦は無用と考えております」


「北條高広殿は、それがしの岳父じゃが、なかなかにしぶとい。主を代えたのは、これで何度目じゃろうか」河田長親が軽めの冗談を言う。


 河田豊前守長親。天文十二(1543)年生れで、この年三八歳。永禄二(1559)年、上杉謙信二度目の上洛の際、近江大津・日吉大社で稚児をしていた長親の美貌を気に入り小姓に取り立てたと伝わる。謙信の信頼が厚い側近であり知勇兼備の良将。上野厩橋城代・沼田城代を歴任した。越中一向一揆との戦いが始まってからは、越中魚津城将を務めている。

 謙信が急死した三か月後の天正六(1578)年六月、飛騨から越中に進攻してきた斎藤新五郎に月岡野の戦いで敗れる。このため越中中部を失い、越中東部と能登・加賀の連絡は絶たれ、能登・加賀の国人が一斉に離反することになった。援軍を要請することもできず内戦にやきもきしながら、ひとりで前線を守っていた功労者である。


 河田豊前守殿(長親)、あいかわらず美男子じゃが、なにやら晩年の高坂弾正殿に雰囲気が似ておる。顔色が悪いせいかな、心労がたたっておるんじゃろうね。


「天正七(1579)年九月、能登・七尾城では畠山旧臣が織田方に寝返り、城代鰺坂長実殿は行方不明となっております。能登、加賀の国人に続いて、越中の大部分の国人も織田に誼を通じておるようでございます」

手取川の勝利で得たものを、すべてを失ったというわけか。


「われらは、魚津城・松倉城を固守し、折を見て武田の助力を得て攻勢に出るべきだと考えます」

武田に、その力があるんじゃろうか。

「北上してくる織田軍は、柴田勝家・前田利家・佐々成政など最精鋭の尾張衆を中核とし越前・加賀・能登・越中の国人を動員してくると思われます。それだけでも数万となります。さらに必要とあれば信長は数万の増援を動員することもできます」

河田長親、淡々と事実を述べる。

「いかに大軍であっても親不知は越えられまい」

気休めにもならないことを誰かが呟く。

「とにかく悩んでおっても仕方ない。各人ができることをやるしかない」

老将斎藤朝信のひと言で、重苦しい雰囲気のまま評定はお開きとなった。


「天下の情勢はどうなっておるのですか」

兼続がお船に聞きに行く。

「与六殿、どうしたのじゃ」

「信長に勝つ方法を知りたいのです」


天正七(1579)年

 十月 明智光秀、丹波・丹後平定を信長に報告。

天正八(1580)年

 一月 播磨三木城開城。羽柴秀吉、播磨平定。

    

「他力本願では無理じゃな。毛利も苦戦しておる。三木城が開城し羽柴秀吉は播磨を平定した。備前の領主宇喜多直家が織田に寝返り、美作で毛利と戦っておる。天正六年二月に五万の大軍を催して羽柴を蹴散らし上月城を攻略したような勢いは毛利にはもうない」

「謙信公の急死で上洛戦が中止となり、その後の内戦にかまけていて、気がついたら

御家存亡の危機ですから、いささか慌てております」

「斎藤殿の“できることをやるしかない”は至言じゃが、何もしないことも立派な対策じゃ。内戦に疲弊した諸将や民草をひとまず休ませ、民力休養せねばならぬ」

確かに。慌てて国内の城砦の改修に狂奔して民草を疲弊させれば、民心は離反する。

「山より大きな猪は出ないと言う。心配しすぎるのは良くない。ただ、覚悟は必要じゃ。これをご覧なされ」

 お船が文机の上から短冊を取り上げ、兼続に見せる。


「いまはただ うらみもあらじ 諸人もろびとの いのちにかはる 我身とおもへば」


「これは」

「播磨三木城の別所長治殿の辞世じゃ。今年の一月、兵糧攻めを受けた城兵の助命と引換えに切腹された。二六歳じゃったらしい」

“三木の干殺し”といわれる兵糧攻めじゃな。二年籠城したあげく開城したわけか。当初、織田に服属しておったのに、毛利・本願寺が勝つと思って寝返った。じゃが、毛利の援軍は届かなかったわけか。

「上に立つ者は自分の判断に責任を持たねばならぬ。そのことさえ肚に入れておれば大抵のことは大丈夫じゃ」

なんか、お船殿って師匠みたい。


天正八(1580)年

 八月 真田昌幸、沼田城を攻略(下旬)

 十月 高天神城の戦いが始まる

十一月 柴田勝家、加賀の一向一揆の首謀者の首級を安土に届ける(十七日)

天正九(1581)年

 一月 武田勝頼、新府城建設開始(~九月に完成?)

 二月 京都御馬揃え(二八日) 

 三月 河田長親急死(二四日)

 三月 高天神城陥落(二五日)⇒穴山信君・曽根昌世、徳川に内通

 六月 新発田重家謀反(十六日)

 九月 毛利秀広、直江信綱・山崎秀仙を斬殺(九日)

 十月 樋口兼続、直江家に婿入りして直江兼続となる

 十月 北条家家老松田憲秀の息子、伊豆戸倉城主笠原政晴、武田に内応

十一月 武田より返還された御坊丸(織田信房)元服し織田勝長と名乗る(二四日)


 天正九(1581)年三月、北條高広の指示により老臣石口広宗の守る北條城は開城。同じ頃、揚北の黒川清実の帰参も認められ、御館の乱は終結した。


「越中魚津城将の河田長親殿が石口など北條の家臣の転属を願い出ております」

「河田殿は一兵でもほしかろう。それに河田殿は北條の娘婿、双方顔なじみでやりやすかろう。許す」

 越中では、柴田勝家・前田利家など北陸方面の織田軍の将領が京都御馬揃えに召集された隙を狙って反撃に出るが、織田軍の圧倒的な火力の前に、どうすることもできない。作戦は河田長親が指揮し景勝も後詰に出陣したが、河田が心労のためか急死、作戦は頓挫した。敵の主力が留守なのに逆襲されて撤退を余儀なくされてしまった。


春日山城、上杉家重臣による評定

「織田の鉄砲隊は一段と強化されておるようじゃ。充分な距離を取って突撃隊形を作っていた槍隊があっという間になぎ倒されたという報告が届いておる」

「織田方の大将、前田利家や佐々成政は長篠の戦いの鉄砲隊の指揮官でございます。鉄砲隊の運用に優れた者どもかと」

「ところで河田殿はいくつじゃった」

「三九歳であった由」

「まだお若いのに、謙信公が亡くなって以来の心労が祟ったのじゃろうな」

「ひとりで上杉の前線を支えておったのじゃから無理もないのう」

「河田殿の代りができるのは、一門衆筆頭の上条宜順様しかおられまい」

斎藤、竹俣など老将の不規則発言で評定が進んでいく。

「上条殿、頼むぞ」景勝が発言した。


「鉄砲隊に対して、夜襲することはできませぬか」

手取川の戦いを思い出して兼続が質問する。

「無理じゃな。手取川の戦いの勝利は、一向門徒の協力があったればこそじゃ。お陰で織田勢の動静は、われらに筒抜けじゃった。今は違う。一向門徒は織田の軍門に降り国人どもは織田に靡いておる。われらの一挙手一投足は、すべて敵に筒抜けとなっておる。夜襲しようとしても、あべこべに待ち伏せされ包囲殲滅されるが落ちじゃ」

直江信綱が親切に答えてくれた。

「やはり武田の援軍を待って、攻勢にでるしかないか」

 他力本願の結論が出そうな評定の終り頃、衝撃的な知らせが届く。


遠江・高天神城陥落。


「何故、勝頼公は高天神城を救援しなかったのでしょうか」

不安になるとお船を訪ねる兼続である。

「分からぬな。三つの仮説がある。一、長篠の再現を恐れたため。二、ここで織田の援軍と戦えば和睦交渉の障りとなると考えたから。三、最初から降伏させるつもりだった。どれだと思う」

「三ですかな」

「確かに高天神城城主岡部元信は家康に降伏を申し出たようじゃが、家康は蹴っておる。全滅させて出城の援護もできない勝頼公の不甲斐なさを武田の家臣に見せつけるという意図があったようじゃな」

「なんと」

「勝頼公には、優しいというか人の良いところがあるな。長篠の前年、天正二年に高天神城を攻略した時、降伏した徳川方の諸将を許し徳川への復帰を望むものは、そのまま返したという。降伏を申し出ても許さぬ作戦とか想像もできないのじゃろうな」


「岩村城を見殺しにした時、謙信公は長篠敗戦に匹敵する失策と仰せでしたが、こたびの高天神城見殺し、大変な失策ではありませぬか」

「謙信公は兵を失うより信を失うことを恐れよ、とも仰せじゃったな。取り返しのつかない失敗じゃ。勝頼公の側近には人がいないんじゃろうか」

真田は何してるんじゃろう。上野で領土拡げて得意になっておるんじゃろうか。


 高天神城の戦いについて「信長公記」は「武田四郎(勝頼)御武篇(信長の武勇)を恐れ、眼前に甲斐・信濃・駿河三ヶ国にて歴々の者上下其数を知らず、高天神にて干殺ほしごろしにさせ後巻仕うしろまきつかまつらず、天下の面目を失ひ候」と批判している。

 

 天正八(1580)年八月、徳川家康は高天神城を奪還するため周囲に六つの砦を築き補給線を完全に絶った。高天神城主岡部元信以下小者に至るまで城兵全員の連名による救援要請が勝頼の元に送られた。しかし勝頼は高天神城救援に出陣しなかった。

 天正九(1581)年一月下旬、岡部元信は開城と小山城などの引き渡しを条件に城兵の助命を嘆願する書状を徳川家康に送るが、信長の意向もあって拒否される。

 天正九年三月二五日夜半、岡部元信を先頭に高天神城城兵は徳川陣中に突撃し全滅した。「信長公記」によれば首級六八八。厳しい兵糧攻めが半年以上続いており、最後の突撃以前に相当数が餓死していたと推定される。戦闘に参加する体力がなく城内にとどまっていた兵も見つけ次第処刑された。

 岡部元信は七十近い高齢だったと推定される。元は今川の家臣で、桶狭間の戦いで今川義元が横死し全軍が潰乱した時、ひとり鳴海城を固守し動ぜず義元の首を貰い受けて、ようやく撤退した逸話のある勇将である。勝頼の信頼も厚く、遠江の軍事指揮権を一任され、徳川の攻勢を何度も撥ね返していた。これほどの武将を孤立無援で戦わせ見殺しにしたことは、敵方と対峙する前線の諸将に深刻な影響を与えた。駿河防衛を担当していた穴山信君、曽根昌世は高天神城陥落後に徳川家康に内通している。

 高天神城で戦死した将兵の出身地は甲斐・信濃・駿河・遠江・飛騨・上野と武田領国全域に広がっており、勝頼は「頼み甲斐のない大将である」という認識を領国全体の国人より持たれることになった。唯一優勢に戦えていた上野でも北条の反攻を受けるようになったのは高天神城陥落の深刻な影響を表す一端にすぎない。織田信忠の武田攻めが開始された後、高遠城を除いて組織的な抵抗がなかった最大の原因である。


 六月下旬、春日山城に、さらに衝撃的な報告が届く。


「六月十六日、新発田因幡守重家謀反。新潟津を占拠、新たに城を築いている模様」


「なんということじゃ」

「信長の調略が越後国内にも及んだということか」

「会津の蘆名や米沢の伊達が後押ししておるやも知れぬ」

「しかし討伐するわけにもいくまい」

「同じ揚北衆の本庄繁長殿や色部長真殿に対応を任せましょう」

「因幡守が何を考えておるのか、本心を聞き出すのじゃ」

混乱する重臣会議だが越中戦線に集中する必要があるため放置されることになった。


「新発田重家は、何故謀反したのでしょう」

不安を抑えきれない兼続、またまたお船のところに聞きに行く。

「そなたは、どう思っておるのじゃ」

「新発田重家の兄である新発田長敦殿は、謙信公の重臣。御館の乱でも武田との和睦に尽力されました。重家も、蘆名勢の越後進攻を食い止めたり、神余親綱といくさしております。春日山城に参陣して、第三次の大場の戦いでも活躍し、御実城様から褒賞されております。それゆえ意外ですな」

「そなたが言ったことすべてが原因であろう。兄弟で大活躍したのに正当に評価されてないと思ったのでは。論功行賞のもつれじゃな」

「確かに。ただ御実城様は、亡くなられた新発田長敦殿(天正八年に病没)の家督相続を、すんなり重家に認めてやったことで良しと思ったのやもしれませぬな」

「揚北の者どもは、譜代の家臣ではないから家督相続を認めたくらいでは納得できないじゃろうな」

「それがしのところにも、論功行賞に関する訴訟が来ておりますが、どうすることもできません」

「御家存亡の秋に直面しておる現状では忠義の者どもを取り立てていくしかないじゃろ。裏切るかもしれぬ危険性のある奴に加増してやる余裕はない」


 兼続のところに来ていた“論功行賞をめぐる訴訟”には、毛利秀広の恩賞に関して亡くなった河田長親後室(後室は身分のある人の未亡人のこと)から出されたものもあった。取次の山崎秀仙(専柳斎)・桐沢具繁宛てに訴訟して、うまくいかず、改めて御側取次の兼続宛てに提出されたものである。

 御館の乱の際、安田顕元の多数派工作で景勝派に鞍替えし、武田との和睦でも活躍した毛利秀広に恩賞はなかった。毛利秀広が与力として所属していた越中戦線の指揮官河田長親は、毛利秀広の乱における功績を認め所領を与えた。しかし河田長親が急死し、毛利秀広の所領は景勝の承認を受けたものではないと取り上げられてしまう。そのことを憐れんだ河田長親後室が訴訟を提起したが、決定は覆らなかった。

 

天正九(1581)年九月九日

毛利秀広、春日山城内で山崎秀仙を斬殺。居り悪くその場に居合わせた直江信綱も殺害される。毛利秀広は駆け付けた近習の岩井信能・番衆の登坂広重に討ち取られた。


「御実城様のご身辺で、かような不祥事まことに申し訳ございませぬ」

兼続が景勝に事件の詳細を説明している。

「なぜ専柳斎(山崎秀仙)が狙われたのじゃ」


 山崎秀仙は儒学者で謙信に四書五経を講じていた人物。博学な知識を買われ外交でも活躍していた。信長への使者を務めたこともあった。


「どうも論功行賞の評定で山崎殿が、忠義の者を登用するべきだと主張したのを伝え聞いて誤解したようです」

 最初から上田衆抜擢は既定方針なのだが、あまりに露骨な身内びいきを糊塗するために、山崎秀仙に理論武装させ評定で言わせただけの話。それを毛利秀広は山崎秀仙の反対によって自分の恩賞を取り消されたと逆恨みしての犯行である。暗殺者の突拍子もない発想に心当たりがなさすぎて戸惑った景勝と兼続である。

「気の毒なことをしたな。それで藤九郎(直江信綱)は」

「岩井たちが駆け付けた時には絶命していたようです。とっさのことで、脇差を抜いたようですが」

「さらに気の毒なことになったな。言葉もない」

お船殿が心配じゃ。さぞ気を落としておられるじゃろう。信綱殿は大人しくて人の良いお方じゃったな。それがしとお船殿が、勝手に与板衆を動かしても笑って許してくれる度量もあった。重臣として、これからの上杉を支える大切な人だったのに。


一ヵ月後。

「直江家の後継ぎじゃが」

景勝に近侍して政務を裁いていく兼続に景勝が話しかけてくる。

「はい。藤九郎(直江信綱)殿には庶子が居るようで、その者が元服するまで、しかるべき親族に後見させればよろしいのではありませぬか」

直江家はお船殿中心で回っておる家じゃから、正直に言うと誰でも良いんだけどね。

「いや御家危急存亡の秋に、そんな悠長なことをしてはおれぬ」

即戦力の婿養子を見繕って直江家に押し込む算段か。何人か人選して御実城様に報告して決めていただこうか…

「与六、直江家の婿養子になれ」

はい。

いや、いや、いや、いや、いや、無いわ。

お船殿の父親は、それがしの母親の兄。従姉弟ですぞ。

それに、それがしはお船殿が世界で一番苦手でござる。

「その儀は平にご容赦を」

「主命である」


 仕方なく直江屋敷を訪ねる兼続。

「奥方様は、どなたともお会いしたくないそうです」

門前払いを食らう。そりゃ、喪中だから、そうなるよね。

景勝に復命すると「主命である。明日も参れ」と言われる。

 次の日、訪ねるとお船に会えた。

心労で痩せたか、凄絶な美貌はまるで知らない人を見ているよう。

お船、すっくと兼続の前に仁王立ち。

「幼き頃、わらわの後を追いかけていた鼻たれ小僧の成れの果てのそなたが、わらわの婿とは片腹痛し。顔を洗って出直してまいれ。主命と言えどもお断りいたす」

と追い返される。なに、なに、どうなってるの?芝居がかってない?どうして?

景勝に復命すると「主命である。明日も参れ」と言われる。

 さらに次の日、訪ねる。

「そなた、どこぞに女子おなごを隠しておるのではないかえ。家付きの後家が、年下の美男の婿をもろうたは良いが他所に女子を作られては、女の面目が立たん」

とズバリ言われる。「決してそのようなことはありませぬ」と反射的に答える兼続。

最初から、上から目線で圧しつけられる。

「そなたは、直江の当主になるということが、どういうことか分かっているのかえ。

わが父直江大和守景綱は為景公・謙信公・景勝公と三代に渡って家老を務めた。特に謙信公は信仰に生きるお方であったゆえ、すべてをわが父にお任せになった。内政・外交全般をじゃ。細かく言えばきりがない。直江津の管理、諜報機関の指揮、旗本の統率。御裏方も、わが母、今はわらわが差配を任されておる」

確かに。

「わが父はよく申されていた。直江の家が謙信公を戴けば、それが上杉本家じゃ。本陣じゃと。上田衆など、われらから見れば一門衆の一家に過ぎぬ。直江の当主は与板衆を預かるだけの、ただの部将ではない」

なんと。

「そなたは、これまでは景勝公の口舌のようなものじゃったが、直江の当主となれば、景勝公の片腕になることができるであろう。その覚悟と器量がそなたにあるか」

圧倒された兼続。

「姉上」

知らずに幼い頃の呼び方で「それがしは、どうすればいいのですか」と尋ねる。

「まずは、わらわを大事にすることじゃ。直江の家の者の忠誠心は、景綱の娘のわらわに向けられておる。そなたがわらわを大事にすれば、直江の者もそなたに服しましょう」

えええっ。つまり。

「すると、姉上は、それがしが婿に入ることご承知くださったのでしょうか」

「最初から承知しておる。姉上はやめなされ」

えええっ。


 話が長くなり夕食を摂り、なし崩しで直江屋敷に泊ることとなった。寝ている兼続の布団にお船がすべり込んでくる。

「与六殿、けじめをつけさせてたもれ。わらわは今夜生まれ変わりたい」

 平生であれば喪に服するべきだが、けじめをつけて先に進まねばならぬ。御家危急存亡の秋である。二人とも上杉家にあまり時間が残ってないことも分かっている。


兼続を迎え入れるお船。


その後、お船はしばらく泣いていた。信綱殿を忘れようとしておるのじゃな。

「藤九郎殿の想い出も含めてのお船殿でございまする。無理に忘れなくとも」

「そうはいかん。藤九郎殿の庶子は仏門に帰依させるつもりじゃ。今日を限りに忘れる。藤九郎殿のことは二度と言ってくれるな」

「そこまでのお覚悟。有難く存じます。それがしも命がけで、お船殿と添い遂げるつもりです」

お船を抱く兼続の腕に力がこもる。一瞬、波里の顔が脳裏をよぎるが打ち消す兼続。


「なにやら不思議ですね。幼き頃のままごとの延長の様にも、夢の様にも思える」

「そうじゃな。お互い主命とあらば仕方あるまい」

寝物語が続く。

「最初から承知であれば、何故、それがしを追い返したりされたのですか」

「それもこれも、すべて、そなたのためじゃ。最初の内助の功じゃ」

意味がわからぬ。

「三顧の礼を知らぬのか」

からの軍師の話ですね。文選に出師表が入っている」

先が読めぬ。

「そなたは、自分が他人から、どう思われておるか考えたことがあるか」

いや全く。

「景勝公の寵愛をかさにきた佞臣とかいうのは良い方じゃ。みなみな、そなたに嫉妬しておる。勿論、景勝公のそなたに対する寵愛は本物じゃから、表立っては誰も言わぬ。しかし、そなたが大きな仕事をしようとする時、必ず邪魔してやろうと待ちかまえておるのじゃ」

意味がわかりませぬ。

「さらに今回、国色無双といわれる美貌のわらわの婿になることが決まれば、さらにみなが口惜しがるであろう。だからじゃ」

自分でそこまで言うかな。

「まったく分かりませぬ」

「御実城様の寵愛をかさにきて威張っておる、そなたも美しい若後家に取り入ろうとして苦労しておるという可愛げをつけてやったのじゃ」

なんと。

「細作に命じて噂をばら撒いておいた。明日からは、みなの見る目が違うぞ」

にやりと笑うお船。怖い。それに公私混同してない。

「それと、そなたの周りには厳重な身辺警護をつける。直江の当主が、ころころ変わっては困るからの。して、それは口実。まことの任務は、そなたの浮気監視じゃ。どこにいても、わらわの目が光っていることを忘するるでないぞ」

波里のことはどう思っているのか、どうなっているのか、確かめることもできない。


「お船殿は、唐の軍師のようなお方でありますね」

「お船殿はやめなされ。お船と呼ぶのじゃ」

「お船」

「なんか馬鹿にされてるような気がする。ムカついた。与六、馬になれ」

理不尽なり。

「どう、どう、どう」

御機嫌なお船。

四つん這いになっている兼続。

お、重たい。ん、これでは昔と同じではないか。


 確かに、お船のばら撒いた流言の効果はてきめんだった。

一門衆筆頭、景勝の妹婿という血筋を鼻にかけ常日頃、兼続へのあたりのきつい上条宜順がいつになく優しく「婿に入るということは大変なことじゃ」と慰めてくれた。

「同病相憐れむ」という言葉が思い浮かぶ兼続。

 一方、なんでか侍女たちの人気が無くなったような気がする兼続。兼続が来ると、みな嬉しがって世話焼きたがっていたのに、急に冷たくよそよそしい。仕方ないか、妻帯者になったのじゃから。

 

 天正九(1581)年十二月初旬

 武田の新府城落成を祝って兼続が甲斐への使者に立つことになり、御台所様(菊姫)のところに贈り物を預かりに行って、侍女たちが冷たい原因が判明した。


「そなたも、かわゆきところがあるのう」

はい。

「お船から聞きましたぞ。幼き頃より、お船を慕っておったと、直江信綱殿を亡くされたお船を慰めたそうじゃな。そして求婚したとか。十数年そなたが秘めておった愛の深さに、お船はほだされたそうじゃ」

なにーぃ。初耳です。事実無根です。

「二人に初めて会ったときからお似合いじゃと思っておった」

そりゃあ、従姉弟同士ですもの、似てますよ。逆上して意味を取り違えている兼続。

「御実城様も、感心しておられた。そして、こたびの縁組、本当に良かったと仰せじゃった。純愛じゃのう」

これが流言の威力か。恐ろしい。人はこういう風に陥れられるのか。

流れ出た冷や汗で背中が冷たい兼続。

「お船は、わが姉のようなものじゃ。頼みますぞ」

と言われて、ははーと平伏するしかない。


「ひどいです」

直江屋敷の夕食で今日初めてお船と顔を合わせた兼続、抗議する。

「そなた、それどころではないぞ。武田の領国からの細作の報告は深刻なものじゃ。亡国の兆しありという者もおる。波里、報告せよ」

「はい。高天神城陥落直後より、武田領国内では織田軍の進攻の噂が切れ目なく流され、民心は浮足立っております。織田の細作の仕業かと」

いつにもまして仏頂面の波里、淡々と報告する。怒ってる?

「恐らく調略も進んでおるんじゃろうな。恐怖に陥れて、お前だけは助けるというのが信長の遣り口じゃ」

「様々な噂が流されております。当家に関するもので言えば、御館の乱で勝頼公がわれらにお味方したのは武田の重臣が賄賂に目がくらんだからという噂もあります」

「菊姫様輿入れの際に結納金を贈ったことが、ねじ曲げられておるようじゃな」

苦笑する兼続。馬鹿々々しい。

「波里、与六殿は直江の当主となられました。厳重な身辺警護をお頼み申します」

「かしこまりました」

笑顔ひとつ見せずに下がる波里。


甲府への出立の朝。

「これを持っていくのじゃ」

お船が小さな錦織の袋を渡す。

「これは、もしや唐の軍師が困ったときに開けなさい、という例の袋ですね」

「いや困らずとも甲府に着いたら開けるのじゃ」

われは、そなたの軍師なりとでもいうかの如く重々しくお船がうなずく。


 兼続が景勝のところに挨拶に行くと

「そなたが昔から、お船を好いておったとは知らなんだ。菊姫も御実城様はよきことをなされましたと喜んでおった」

と言われる。もはや、それはお船の作り話とも言えぬ兼続。全身を倦怠感が襲う。

「お船も気丈に振舞っておるが、藤九郎(直江信綱)を亡くして日も浅い。そなたが十数年秘めて育てた愛情で、お船の傷が癒えるのを見守ってやって欲しい」

と言われる。だんだん自分のことが分からなくなる兼続。

 喜平次様は菊姫様にお船殿のこと念押しするように言われたんじゃね。

 結局、今回の任務に関する景勝の発言は「直江兼続、新しい名前になっての初仕事じゃな」だけだった。


 信濃に入る。前回来たのは長篠の戦いの時じゃったから六年ぶりか。敵だった武田が味方になり、それがしも直江家の当主になった。人生の有為転変、人智で計ることはできないものじゃな。感慨にふける兼続。変わってないのは。

思いついて、後ろを振り返ると波里が硬い表情でついてくる。

「三七」手招きして(今日、寝所に忍んで参れ)と耳打ちする。

「はい、わかりました」固いね。やっぱり怒ってるの?


「どうしたのじゃ。入らぬのか」

「何を怒っておるのじゃ」

「話してみよ」

「与六様は、うちを裏切った」

「裏切ってなど、おらぬぞ。それがしとお船殿の婚姻は主命によるもの。政略結婚みたいなものじゃ。こっちに来い」

「ほんとに」

「本当じゃ。それがしが愛しているのは、そなただけじゃ」

すべり込んできた波里の帯を解いている。

「うそ。お船様のこと、子供の時から好きだったって。愛してたって」

「それは根も葉もない作り話じゃ」

口づけをする。

「火のないところに煙は立たずと言いますよ」

「愛しているのは、そなただけじゃ」

「うそ」

「本当じゃ」

「うそ」

「本当じゃ」

「本当かな」

「そなたが一番じゃ」


 直江兼続のように側室を持たない(持てない)武将は珍しい。女性に興味のない上杉謙信のような特殊な事例を除けば、一夫一婦制を守るクリスチャン系(黒田官兵衛)妻の悋気を恐れる恐妻家系(徳川秀忠)くらいしか思いつかない(それでも秀忠は隠れて保科正之を作っている)

 直江兼続に側室のいた記録はなく、子女もお船との間の一男二女しかいない。しかし後世の研究者の中には「織女惜別」のようなロマンテックな漢詩を作った兼続に愛人がいなかったはずはないと疑っている人もいる。


「ところで三七」

「いや、愛する波里と呼んで」

面倒くさい奴。

「愛する波里。なんか、おかしくないか。信濃の状況」

「いや、おかしいです。六年前と比べて社会全体が疲弊しているように思います」

街道は荒れているし、民草は痩せこけて顔色が悪い。誰でも初日に気がつくよね。


 その後もおかしいことが続く。同盟国の使節団なのに受け入れ体制がなってない。やたらと関所が多く、物乞いがまとわりついてくる。その先の峠には山賊がいるのでと道を変えさせられたこともある。途中の城でも、全く戦意を感じることができない弛緩した軍兵たちの姿を見る。どうなっておるのじゃ、不安になってくる兼続。


 甲府・躑躅ヶ崎館に到着すると、その日のうちに勝頼との目通りを許された。

「北条との和睦の目途がたったぞ。駿河・戸倉城主松田新六郎なるものが、われらに服属を申し出てきた。こやつは北条家の家老松田憲秀の息子じゃ。われらの攻勢に辟易した北条が、和睦の道を探る橋渡しとして、こやつを服属させてきたのじゃ」

 永禄十二(1569)年に信玄公が小田原城を攻撃して、元亀二(1571)年に、甲相同盟を復活させた故事の再現を狙っておるのか。


「去年九月には、上野・膳城を攻め落とした。鎧を脱いで休息していたら敵が討って出たので、われらは平服のままで迎撃し、そのまま攻め落としたのじゃ。駿河での戦いも、われらは優勢に進めておる。北条の大軍を前にしてもわれらは怯むことがない。北条も辟易しておるじゃろう」

勝頼の自慢話が止まらない。

上野に出陣するくらいなら、高天神城の後巻きしてもらいたかったと強く思う兼続。


「年初より突貫工事で造らせた新府城も落成した。北条との和睦の可能性が出たことで、背後の安全を確保し、敵を迎え撃つ態勢も整いつつある。これで、われらは初めて信長との和睦交渉に臨むことができるのじゃ。御坊丸(織田信房)を送り返し、和睦の道を探っておる」

勝頼公は、このような人であったのか。不安を打ち消すために虚勢を張っておるように思える。甲府に来る途上で新府城を見かけたが、いまだ完成途上で矢倉さえできてないように見えたが。

「新府城には何時お移りになるのですか」

当り障りないことを聞く兼続。

「すぐじゃ。年末には移るつもりじゃ。新年は新しい城で迎えたいと思っておる」

なんと。

「そなたも旧知の真田昌幸に城の縄張りを命じた。用材は木曽に申しつけておる。立派な城ができておる。いずれ、そなたを招待することになるじゃろう。楽しみに待っておるがよい」


 勝頼公って、いい人なんだよね。でも話しにくい人だ。傷つけたりしてはいけないと思わせる人だ。家臣が厳しい諫言しようとするのを躊躇らわせる雰囲気がある。


 その松田新六郎とか言う男、武田の内情を探るだけの偽りの服属ではないですか。

ヘタレの根性なしで北条に居ずらくなって苦し紛れに武田に寝返ったという噂も聞いておりますが。現状で、武田と同盟する利点が北条にあるとも思えませぬ。

 連年の戦で民草が疲弊しているのに、新たな土木工事を強行する。間違っているのではありませぬか。どんな金城鉄壁の城を造っても民心が離反したら、何にもならないのではありませぬか。


 言いたいことを何一つ言えず、勝頼の前を下がる。気持ちが暗くなった兼続、例の錦織の袋を思い出す。ああ、このような時こそと、袋を開けた兼続、中身を見てバッタリ倒れてしまう。それには「わらわに土産を買うてまいれ」と書いてあった。


 翌日、甲府の市で土産を探す兼続。

「何がいいかな。御実城様や御台所様の分もいるじゃろうな」

眼を三角にした波里を連れて店をめぐる。怒ってる?

「そなたも欲しいものがあれば、買うてやるぞ」

「ふん」

「この水晶を象嵌した銀のかんざし、キレイじゃないか。そなたに似合うのでは」

「いらない」

もう面倒くさいから、“ほうとう”にしようかな。野戦食の研究材料になるしな。

いろいろ考えながら質問するが、商売人たちは、みな上の空。よくよく、聞いてみると、商売人や職人に対しても新府城に移るよう命令が出ており、勝頼の施策に対する不満と疑問が高まっているようだ。

「六十年経営してきた甲府を捨てるとは、如何なる料簡じゃ」

「あれは清盛入道の福原じゃ。すぐに帰ってくることになるじゃろう」

「武田も終わりじゃ」

民の怨嗟の声を聞く兼続、ああ、お船殿の深慮遠謀、市井の声を聞かせるためだったのですね。一瞬思ったが、いやいや、よくて怪我の功名じゃろうと思い直す。

結局、“ほうとう”と銀細工の簪をふたつ(!)買った兼続である。


 宿舎に帰ると、真田昌幸から高遠城でお待ちするという伝言が届いていた。韮崎を通るとき、また新府城を見る。作事している人々が忙しく立ち働いている。決戦用の大城塞と聞いたが、まだまだ完成途上。兼続の眼には、虚勢を張る勝頼の姿と二重写しに映る。


 伊那郡高遠城に到着する。 


高遠城城主仁科五郎盛信は、この年二五歳。武田信玄の五男である。勝頼の異母弟。母は油川氏で、菊姫や葛山十郎信貞、松姫の同腹の兄にあたる人物である。本城は安曇郡森城だが、情勢が緊迫してきたので、要衝の高遠城に配置されている。


 兼続、武田領内に入って初めて軍紀厳正な軍兵を見る。

「やはり高遠は要の城、精鋭を置いてあるのですね」と盛信に聞く。

「高遠城城代秋山信友(虎繁)に率いられて岩村城に詰めていた伊那衆は、秋山が騙されて殺された後、皆殺しにされておる。この城の軍兵たちは、その係累じゃ。如何に信長が調略しようとしても通じるわけがない。二度も騙される程、愚かではない」


 木曽から真田昌幸も到着した。

「真田殿も木曽と新府城を行ったり来たり大変じゃな」盛信がねぎらう。

「はい。大変でございましたが、これで万全の防衛体制が完成しました。駿河口は穴山梅雪様(穴山信君は天正八年に出家して梅雪斎と号した)伊那口は下条信氏様、木曽口は木曽義昌様、御一門衆が固めておられます。これで不敗の体制が整いました」

真田まで虚勢を張るのか。何考えておるのか。どんな魂胆なのじゃろうか。


 仁科盛信、真田昌幸、直江兼続の前に酒と膳が運ばれて来た。

「真田は信玄公の幕僚、直江殿も謙信公お側に仕えておったと聞いておるが、そなたたちは今の武田をどう見ておる。信玄公は戦に明け暮れた生涯じゃったが、その一方で釜無川に堤防を造られたり、法度を作られたりして、民の暮らしにも配慮されておられた。謙信公も同じく民の暮らしに配慮されており、甲斐に対する塩止めには協力されなんだ。そのお二方が今の武田を見たら、何と言うかの」

固まる真田と兼続。

「新府城を造って敵を迎え撃つといっても、籠城戦には後方を攪乱する遊撃戦が不可欠じゃ。謙信公も信玄公も小田原城を攻めたが落とせなんだは、補給部隊を北条の遊撃隊に攻撃されたからじゃと聞いておる。北条は治政正しく、民草に信頼されておったから遊撃戦をすることができたのではないか。お二方の攻撃をしのぐことができたのではないか」


 仁科盛信、母親(油川氏)譲りの美しい顔を上気させながら話を続ける。

「今、織田の大軍が武田領内に進攻してきたら、民草は圧政からの解放軍と思い協力するのではないか。われわれに遊撃戦を展開する余地はあるのじゃろうか」

「勝頼公の苦悩、努力。わしは物の役に立たない弟じゃが、よくわかっておるつもりじゃ。そして、もし戦になれば信玄公の息子として戦い死ぬつもりじゃ」

「しかし、それは民草の立場から見て、正しいことなのじゃろうか。わしは、伊那衆を統率するものとして、岩村城の復讐戦をしたいと思い、美濃に細作を派遣し織田の内情を探っておった。信長は残酷な男じゃが、その治政には見るべきものがある。関所はなく、物資の流通は盛んで岐阜には大きな市場があるという。法度が厳しいせいか、治安もよく商人が軒先で寝ていても安全らしい。今の武田と比べて見よ」

「わしは世の中が大きく変わり始めていると思う。長い戦乱の時代が終わろうとしているのではないか。平和をこいねがう民草の希望が、信長の天下統一の事業を後押ししているのではないか。と」

「われらは、武門の意地で最後まで戦うが、それは正しいことじゃろうか」


 盛信の話に驚く兼続。内心ひどく動揺する。考えもしなかった視点じゃ。ちらっと真田を見ると、真田も目を丸くしている。二人の当惑に気がついた盛信「わしは昔から筋道立てた話が苦手じゃ」と呟く。いや、いや、そうではありませぬ。


「御舎弟様(仁科盛信)が言われるように、民草に対する重税はもはや黙視できないほどでございます。わが領内でも餓死者が出ております」真田が話を引き継ぐ。

「実は今回甲府に赴くのは、木曽から泣きつかれたからです。木曽では勝頼公に対する反発が募っております。なぜ木曽ばかり虐められるのじゃ。先年、岩村城の秋山救援を命じられたが、国境警備のお役目が疎かになっては本末転倒と断わったことへの意趣返しという者さえ居ります」

「木曽にとって、ひのきの美林は何物にも代えがたい宝物じゃからのう」

盛信が呟く。

「しかし木曽は、これまで国境警備のため軍役も課されず優遇されておったから勝頼公は無理を承知で頼んだのではないか」

「木曽は、他の郡がどれほど程ひどいことになっておるのか気がついてないのでしょう」

武田領内、相当酷いことになっておるようじゃな。


「ところで御舎弟様。信長の天下統一事業を、平和を希う民草の希望が後押ししておるとは、如何なる意味でございますか」

「細作の報告を聞いて、新しい時代が始まっていることを確信した。信長の力が、どれほど強大になったか、考えてもみよ。ほんの数年の間にじゃ。信長自身の才覚もあろうが、わしには大きな力が働いているとしか思えぬ」

「それが平和を希う民草の希望というわけですか。そして信長が天下を統一すると」

「そうじゃ、謙信公が急逝され、本願寺が信長の軍門に降った時点で、時代は信長の天下統一過程に移行したのじゃ。もはや日本国中見回しても信長に勝てる者はおるまい。直江殿もよくご承知じゃと思うが、北陸に配置されておる柴田の軍団だけでも、上杉の戦力を上回るじゃろう。このような軍団がいくつある。東海には徳川、美濃には信忠。西国には羽柴、明智。どれをとっても強力な軍団じゃ。これらの軍団を二つ三つ動員されたら、数万の大軍となる。勝ち目はあるまい」

「しかも信長は外交にも長けておる。われらを滅ぼすために北条を使い、北条を滅ぼすために奥羽の諸大名を使うじゃろう。毛利を滅ぼすために九州の大友を使っておるようにな」

「もはや、われらは蟷螂の斧に過ぎぬ。すでに勝負のついておる戦のために、餓死者が出るほど民草に負担をかけることは、本当に正しいことなのか、疑問じゃ」

「しかし、わしは思うだけじゃ。何もできぬ。戦って死ぬだけじゃ」

訥々と絞り出すように意見を述べる仁科盛信。もう死ぬ覚悟を決めておるから、欲得を離れて世の中のことが見えておるんじゃろうね。われらにも同じ覚悟が必要じゃ。


「勝頼公は北条との和睦の目途が立ったと仰せじゃったが、どう思われますか」

兼続が仁科盛信と真田昌幸に質問する。

「北条は徳川と連携して駿河を東から攻撃しております。徳川と同盟しておる以上、織田とも通じているのは必定。現状で北条と和睦できる可能性は薄いと思います」

真田昌幸、いつものように正直者の本性を発揮して主君の言い分を否定する。

「北条は小田原という不落の城塞におるせいか、万事ぬるいところがある。信長が関東を支配する北条をそのまま許すはずもないのに、信長の軍団に攻撃されるまで分からぬと見える。愚かな奴らじゃ」

「当家が壁になっておるゆえ、天下の形勢が見えてないのでござる。“唇亡びて歯寒し”という状況に直面しない限り分からないでしょうな」

武田・上杉・北条と各個撃破されていくしかないわけか。


「御坊丸を送り返したようですが、和睦の糸口にすることができるでしょうか」

兼続が質問する。戦って勝てないなら和睦するしかない。

「先月、御坊丸殿は元服され勝長殿と名前を改められたそうじゃ。尾張犬山城主になった由」盛信が教えてくれる。一緒に育った仲じゃから交流があるようだ。

「信長は喜んだじゃろうが、それだけじゃ。要は武田の力を信長がどう測るかということじゃ。武田の領内が乱れておることは、信長も承知しておるじゃろう。信長のことじゃ、勝頼公が詫びをいれてきた、降参するつもりじゃとか、さらに辛辣な噂を流して調略に使うじゃろうて」真田、またまた主君の言い分を完全否定する。

「ああ、わしは今ほど越後が羨ましいと思ったことはないぞ。国境を封鎖するくらいの大雪が駿河口でも降ってくれんかのう」真田は酔ったようだ。

「雪の代りが最強武田の神話じゃ。北条や徳川や信長が、武田いまだ侮りがたしと買い被ってくれておればよいのじゃが。その意味で、勝頼公の関東や駿河に対する連年の出兵は無駄ではなかったと思いたい」さらっと盛信も深刻なことを言う。


 話せば話すほど暗くなる三人。酒もどんどん不味くなる。そこに「兄上」と鈴の鳴るような声「わらわも直江殿にご挨拶しとうございます」と清らかな美女が現れる。

これぞ対織田外交、武田の最後の切り札、松姫様。美しさに兼続も見とれてしまう。

「姉(菊姫)が元気そうで、みなさまに大変可愛がって頂いているようで安心しました。特にお船殿には、よくしていただいているようで、姉様のような人じゃと手紙に書いてありました。最近、直江殿がお船殿の婿になられたそうですね。今後とも、よろしくお願いいたします」

 兼続、なぜか鼻の下を触り、前後左右を一瞥し天井を見上げるという不審な行動をとる。驚く他の三人。いや織田の間者の気配が、とごまかす兼続。


 この松姫(信松尼)が見性院(穴山梅雪正室)とともに晩年、慈しんだ少年が、長じて上杉家を滅亡から救うことになるが、それは遥か未来の別のお話。

「兄上も姉上に一筆書いてくださいませ」

「おお、そうじゃな。すまぬが中座する」


「もし万一じゃが、駿河口から攻め込まれ新府城が陥落した場合、ここ(高遠城)でも戦うが、最終的には上野岩櫃城に勝頼公をお迎えして戦うつもりじゃ。その時は後詰を頼みたい」

「勝頼公は、われらにとって大恩人とも言うべきお方。必ずお助けすることを約定する。だがわれらは外には越後国境に迫りつつある柴田の軍団、内には謀反した揚北の新発田重家、内憂外患を抱えておる、どれほどのことができるか疑問じゃが」

春日山の評定では武田の援軍頼みの議論ばかりなのに、武田では逆か、深刻じゃな。


「しかし、そなたは見上げた忠義者じゃな。どのような状況を想定しておるか分からぬが、勝頼公を奉じて武田の最後の戦いをやるつもりなのか」

「わしを買い被ってはいかん。わしの心中は複雑じゃ。信玄公・勝頼公、二代に渡ってわしを重用して下さった武田に対する忠義の心は誰にも負けないくらいある。しかし一方で父・真田幸隆が苦労に苦労を重ねて、ようやく取り戻した領地・領民を、守って行かねばならぬという気持ちも強いのじゃ」

「わしは気楽な三男坊で真田を出ておったし、若い頃は、そんなこと考えたこともなかった。だが長篠で兄者たちが戦死して家督を継いで以来、真田の家をどうやって守っていくか、苦心しておる」

「信長の調略の手はそなたにも伸びておるのか」

薄ら笑いを浮かべて答えない真田昌幸。


「そなた岩櫃城の話は偽りか」

「いや勝頼公が来てくだされば、戦うつもりじゃ。四の五のはない」

「来てくだされば、ということは来ない可能性もあるのか」

真顔になった真田昌幸、すこし悲しそうにも見える。

「高天神城陥落以降、外様衆の気持が武田を離れておる。そのせいか勝頼公側近も外様衆を信用しておらぬのじゃ。法外な話じゃろ。勝頼公自体、諏訪の血を引くお方なのに。わしも、最後の最後に裏切ると思われておるやもしれぬ」

「それに、これはそなただけに言うのじゃが、わしは自分の才が惜しい。実はわしは戦の天才じゃ。城を造っても、戦の駆け引きも、調略も誰にも負けないつもりじゃ」

確かに、近年の上野における武田の優勢は真田昌幸の活躍によるものらしいな。上野の武田方の軍事指揮権を授けられたとも聞いておる。外様で、ここまで信頼され優遇されているのは、遠江を任されていた高天神城の岡部元信殿と真田だけらしい。

「このまま天下に名を挙げることなく死にたくはない。わしは信玄公に、わがまなことまで言われた男じゃ。ああ、信玄公が長生きされたら、信長などとっくに討ち果たしておったものを」真田昌幸、かなり酔ったようだ。


「そなたに初めて会ったとき、謙信公の義は豊かな国に育ったものの驕りじゃと言うたが覚えておるか。今日、それに付け加える。義とか誇りとか、そういう立派なことは、謙信公とか信玄公とか、天下を争う力があるお方のみが言えることじゃ。力なきものは、這いつくばって言いなりになって生きていくしかない」

「そなた知っておるか、徳川家康のことを。信玄公も海道一の弓取りと褒められたほどの、敵ながら天晴な男じゃが、信長に、妻と長男を殺せと命じられて殺しておる。徳川の家を守っていくためじゃ。血を吐くような思いじゃったと思う。家を守るということは、何ものにも代え難い、いちばん大切なことなのじゃ」

「ゆえに自分の家を守っていくためにと思うて、わしは信長の調略に騙されるものが居っても仕方がないとも思うのじゃ。これがそなたへのわしの答えじゃ」

「さらに言えば、名門であればあるほど、御家の存続にかける思いは強いものじゃ。

武田嫡流にとって代われる御一門衆が、そういう意味では一番危ないのではないか。外様の信濃衆のひがみかも知れぬが」

 真田昌幸は信玄公に七歳から仕えた男じゃ。ただの人質から奥近習に抜擢され、武田一族の武藤の名跡を授けられるくらい寵愛された男じゃ。本人は武田に対して純粋な忠誠を捧げておるのに、外様じゃからと勝頼公の側近に疑われて、白けて反発しておるというところか。憐れな奴じゃ。

 


 春日山城に帰りついた兼続、早速、重臣会議で報告する。

「武田自体の力が落ちている。家中の結束も乱れておるし、領民の動向も不穏である。この状況では、信長との和睦はおろか、北条との和睦も期待できない。武田が滅んで南から攻められることも想定しなければならない」

重臣たちが反発する。

上条宜順は「信長は、徳川を先鋒にして駿河口から進攻してくるじゃろうが、駿河の主将は穴山梅雪殿じゃ。御一門衆筆頭の穴山殿が最前線で戦うことになったら家中の結束も強まるじゃろう」と、まるで自分が戦うようなことをいう。

「駿河には北条との戦で名を挙げた高坂信達など精鋭がおる。戦はやってみないと分からん。戦場の経験の少ないそなたには分からぬことじゃ」

斎藤朝信など年老いた重臣たちにも批判される、あっけにとられる兼続。

 高坂信達殿、曽根昌世殿たちは沼津在番。駿河東部で北条との戦いに拘束されておる。駿河の西から攻め込んでくる徳川との戦いの役には立たんでしょうと言い返したいのを堪える兼続。


「それがしの説明が悪かったのでしょうか」

景勝と二人きりになり質問する。

「そうではない。納得できないのじゃ。武田の強さを一番骨身にしみて知っておるのはわれら上杉じゃ。斉藤などは実際に戦って武田に酷い目に遇わされておるから、あんなことを言うのじゃ」

「しかし、武田は思った以上に深刻じゃな。“人は石垣、人は城”と仰せになられた信玄公の武田が巨大な城郭を作ること自体、末期症状じゃが」

「御館の乱で、春日山城に拠るわれらと対峙して、勝頼公は城塞の効用を思い知ったのでしょう。いささか泥縄ではありますが」

「万一の時は、信濃に兵を入れることも考えねばならぬな」

「上田口、信濃口、国境の守りを固める必要があります。それに新発田重家の謀反、冬の間に手当てしておく必要があります」

「留守は上条宜順に任せて、新発田攻めには、わしが親征するつもりじゃ。雪が溶ける前にかたをつけたい」


「何ですか、あの錦織の袋」

布団の中で勇気を出してお船に抗議する兼続。

「わらわの策は役に立ったはずじゃ」

「そのまま民情を視察せよと言うてください」

「なんのことじゃ。それで土産は」

「ああ。これです」

銀細工の簪を渡す兼続。

「わらわは餅の方がよかったのう。ほれ、信玄公が西上作戦の前に食されて元気になったとかいう、なんとか餅」

せっかく買ってきた簪をぽーんと部屋の隅に投げ捨てられてしまう。ああ米糠三升あれば婿養子に行ってはならないという古人の言葉はまことじゃ。暗涙にむせぶ兼続。

 

 「ところで甲府への使者の首尾は如何じゃ」

さきほどの重臣会議が納得できない兼続、涙を拭いて、あらましを説明する。

「それは諜報を扱う者の宿命じゃ。直面する困難を矮小化しようとするのは人の常じゃ。気にする必要はない」

「もうひとつ、仁科盛信様に言われたことが気になっております」

あらまし説明する。

「たしかに時代が天下統一過程に入ったのは確かじゃな。応仁の大乱から百十余年、ばらばらになった権力がまとまりつつある。しかし、この天下の主権者が信長であってよいのか、という問題はあるのではないか」

「どういうことですか」

「最近、北陸各地から越後に亡命してくる国人が多いことを知っておるか」

「そういえば」

「信長は、北陸の国人の粛清を進めておる。能登七尾城の畠山家重臣・遊佐が一族もろとも皆殺しにされて、同じく重臣の温井・三宅が亡命してきた。越中願海寺城主も能登に呼ばれて殺されておる。越中木船城主石黒成綱は安土に召し出される途中、長浜で殺されている。このような例は枚挙にいとまがない」

「織田に服属しながら上杉とも通じておる二股膏薬の国人どもを信頼できぬと粛清しておるようじゃ。自分が信頼してない者を、自分を信頼してないと粛清する。このような猜疑心の塊のような者が天下の主権者になれば、一時的には天下は静謐になるやも知れぬが、すぐに新しい大乱が始まるのは目に見えておる。信長には天下を治める器量がない」

「天正八年には佐久間信盛、林秀貞と長年忠節を尽くしてきた重臣を追放しておる。若い時はこき使っておいて、年老いて役に立たなくなれば放逐では、忠義の気持も曇ってくるというもの。松永久秀、荒木村重と信長に重用されておった武将が謀反したのは、“狡兎死して走狗煮らるる”ことに気がついたからじゃろう。これからも、謀反する家臣は、きっと必ず出てくる。信長には家中を治める人徳がない」

「われらには謙信公の家を守り謙信公の義を後世に伝えていく役目がある。信長の天下なぞ、認めるわけにはいかぬ。武田が滅びようが北条が降伏しようが関係ない。戦うのみじゃ」

その通りじゃ。お船殿の言う通りじゃ。


「そなた、もそっとがんばりなされ」

「面目ございませぬ」

お船の前では精神だけでなく、肉体まで委縮してしまう哀しい兼続である。


翌日

 御台所様にお目通りして、武田の人々からの書状や贈り物をお渡しする。松姫様に挨拶したことも話す。和やかな会話の最後に、菊姫に思いがけないことを言われる。

「ほんにそなたは見上げた男じゃのう。旅先でもお船のことを忘れず、お土産を買うてきたとか。お船も思いがけないことで大変嬉しいと申しておった。可愛らしい簪じゃな。わらわも羨ましく思いましたぞ」

 もう何が何だか分からない兼続。ははーと平伏するしかない。


天正十(1582)年

一月   木曽義昌、織田信忠に弟上松義豊を人質に出し謀反

二月

 一日 武田勝頼、真理姫(木曽義昌正室・信玄三女)より木曽の謀反を知らされ、

    人質を処刑し木曽討伐に出陣

 三日 信長、木曽の人質処刑を知り、武田討伐を決意

      信忠・信長 伊那口から進攻

      徳川家康  駿河口から進攻

      金森長近  飛騨口から進攻

      (北条氏政  伊豆・駿河から)

     先鋒の森長可、団忠正、岐阜城を出陣。目付として川尻秀隆が帯同する

 六日 森長可、団忠正、木曽口より進攻

    岩村との関門にあたる滝沢を守る下条信氏は家老下条氏長の寝返りにより

    追放される

十二日 織田信忠・滝川一益、岐阜城・長島城を出陣

十四日 浅間山噴火

    松尾城主小笠原信嶺、寝返る

十六日 鳥居峠の戦い

十七日 飯田城主保科正直、逃亡し高遠城へ

    大島城の武田信廉なども逃亡

十八日 徳川家康、浜松城を出陣

二十日 德川軍、依田信蕃の守る田中城を包囲

二一日 徳川軍、駿府に進出

下旬  北条氏政、駿河東部に進攻

二八日 北条軍、戸倉城、三枚橋城攻略⇒三月に沼津・吉原の武田方の城を攻略

三月

 一日 信忠軍、高遠城を包囲

    穴山梅雪、寝返る。徳川軍、駿河制圧。

 二日 信忠軍、高遠城総攻撃。仁科盛信、自害。

 三日 信忠軍、諏訪に進出。諏訪大社を焼き払う

    武田勝頼、新府城放棄。小山田信茂領内の岩殿城へ向かうことを決定

 四日 徳川家康、穴山梅雪を道案内に甲斐に進攻

 五日 織田信長、安土城出陣。

 七日 信忠軍、甲府に到着。

    小山田信茂、謀反。郡内への木戸を封鎖(九日?)

    武田信友(信玄弟)相川河原で処刑される。

十一日 德川軍、甲府に到着。

    勝頼一行、天目山目前の田野で滝川一益軍と戦闘状態に

    巳刻(午前十一時)勝頼・信勝、北条夫人自害。武田氏滅亡。


十二日 武田信豊、小諸城で部下に裏切られ妻子とともに自害(十六日?)

二一日 信長、諏訪に到着

二三日 信長、参戦諸将に対する論功行賞発表(二九日にも)

    同時に甲信国掟も発表

二四日 小山田信茂、母・妻子とともに処刑される

    武田信廉(信玄弟)、立石相川左岸で処刑される

四月

 三日 信長、躑躅ヶ崎館焼け跡に到着

    恵林寺焼打ち

 十日 信長、甲府を出発(十三日江尻城⇒十六日浜松城⇒二一日安土城へ凱旋)



天正十(1582)年一月下旬

春日山城直江屋敷。

「昨年末、勝頼公は新府城に移ったようじゃな。御台所様(北条夫人)の行列の輿車は金銀珠玉をちりばめたもので輝くばかりの美しさじゃったらしい」

「予定通りですな」

「ところが穴山梅雪様、一条信竜様、武田信豊様など一門衆の屋敷は打ち壊されずに、古府中に残ったままじゃということじゃ」

「どうも家中の意志統一がなされておらぬようですな。勝頼公が持っておられる危機感が共有されておらぬようです」

「信長は、武田への進攻作戦のため三河・牧野城に兵糧を集積しておるらしい。進攻まじかかもしれぬ」


「ところで新発田重家討伐軍の出陣は二月中旬に決定いたしました。御実城様は会津の蘆名に書状を送って、討伐への協力を求めるようです」

「誰の発案なのか。新発田の謀反の黒幕は会津の蘆名で、その背後には信長がおる。かえって足元を見られることになりはせぬか」

「確かに。しかし狩野秀治殿は新発田には揚北衆全体からの同情があるゆえ、討伐軍を派遣する前に、手立てを尽くして誠意をみせる必要があると申されるのです」

「うーん、これが年の功というものか」

兼続もお船も、まだ二十代。年寄りの策略をまどろこしいと思いながら、経験の差には敬意をもってはいる。

「ともかく、西から柴田勝家、東から新発田重家に挟撃されるような事態は許容できぬ。冬の間に新発田を討ち滅ぼすか、せめて無力化せねばならぬ」


二月初旬

「木曽義昌、謀反。勝頼公、討伐のために出陣。織田軍も岐阜を出陣した模様」

春日山城に衝撃の一報が届く。

「信長の武田への進攻が近いと聞いてはおったが、春に駿河からと思っておったのじゃが」

混乱する重臣会議。

「春日山城留守居は、それがし直江兼続。信濃方面の主将は上条宜順殿。御実城様は予定通り新発田重家討伐に出陣いたします。猪俣殿たちは越中魚津城に詰めてくだされ」

国境の雪が溶ける前に新発田重家を討伐せねばならぬ。緊急性・必要性が従前より増しておる。揚北の者どもも御実城様が親征されれば、やる気も出るじゃろう。


「第二報。先鋒は典厩信豊様の五千。勝頼公は一万五千を率いて諏訪上原城に着陣」

諸将が出払った春日山城に、信濃から細作の報告が届く。


「第三報。織田信忠、岩村城を経て武田領内に進攻」

予想外の経路から武田攻めが始まったな。木曽が裏切るとは。勝頼公の姉婿じゃろう。人質も出しておるじゃろうに。妻子を犠牲にして家を守るつもりか。木曽は攻めるに難く守るに易い天然の要塞じゃ。難しい戦になりそうじゃな。


「第四報。二月十六日、鳥居峠で戦闘。木曽軍には織田勢が加勢しておるようで

圧倒的な火力の前に信豊軍先手の今福勢は夥しい戦死者を出して後退した由」

「第五報。伊那松尾城、飯田城、大島城陥落。城兵は戦わず逃亡した模様」

「第六報。三月二日、高遠城陥落、仁科盛信殿、御自害」

「第七報。三月一日、穴山梅雪寝返り、徳川軍駿河を制圧」


「信忠軍の進撃速度が速すぎます。無人の野を往く勢いです」

「高遠城が、こんなに早く陥落するとはな」

「仁科盛信殿は死に急いでおったのやもしれませぬ。籠城して民草に迷惑が掛かるのを嫌ったのかもしれませぬな。城門を開いて打って出た由」

仁科盛信に会ったことを昨日のことのように思い出す兼続。この世からいなくなったことが信じられない。

「武田武士の覚悟を後世に問う、立派なご最期じゃな」


兼続とお船が情勢を分析していると、同じく景勝側近の狩野秀治が部屋に来た。

「これは武田の作戦ではないじゃろうか。天文の昔、わが旧主尼子晴久公が毛利元就を攻めて敗れたのち、大内義隆の大軍を月山富田城まで引き寄せて打ち破ったことがございました。勝頼公も新府城まで引き寄せて打ち破るのではありませぬか」

「狩野殿、新府城はまだ完成しておりませぬ。それに穴山梅雪が裏切ったとなると、南北から挟み撃ちにあいます。引き寄せて打ち破るのは無理かと」

「では武田は総崩れということでしょうか」

「狩野殿、御実城様への使者になっていただけませぬか。至急、春日山城にお戻りいただかねばなりませぬ。それがしが行くべきですが、それがしは動けませぬ」

「分かり申した。早速発ちまする」


「わらわは御台所様(菊姫)に高遠城陥落を報告してくる」

「御台所様の様子は」

「木曽の謀反以降、仏間に籠って一心不乱にお祈りされておる」


「御台所様」

振り返った顔は蒼白く凶報をもたらすのではないかと眼には怯えの色が浮んでいる。

お船、菊姫の顔を見ないで平伏したまま報告する。

「高遠城陥落いたしました。仁科盛信様、奮戦された後、立派にお腹を召されたそうでございます」

「兄上様」

かすれ声で叫んだ菊姫、気絶してしまう。

何日も眠らず、食事を摂らずにお祈りされておったから。

「寝所の用意をするのじゃ」

そのまま菊姫を抱きかかえて運ぶ、お船。

軽い。もともと華奢なお方じゃが。ほそい肩、うすい胸。このままではお命を縮めることになる。ここひと月ばかりのご心労、お体に障っておるな。

「医者を呼べ。そっとじゃぞ。このままお休み頂く」

「わらわが枕もとに詰める。そなたたちも交代で詰めるのじゃ」

「部屋を暖かくして粥の用意をせよ。お目覚めになったら、すぐ食べられるように」

「あと兼続殿に松姫様の消息を調査するよう伝えよ。お目覚めになったとき報告できるようにな」

 疲れ切り泥のように眠る菊姫の顔を見ながら、侍女への命令なにか忘れたことはないかと反芻するお船である。



天正十(1582)年

二月二七日、諏訪上原城武田本陣。


「昨二五日、江尻城の者ども数百人が古府中(甲府)に押し寄せ、数十人を打ち殺し穴山梅雪様のご内室様やお子様を奪っていった由」

 甲府からの飛脚が信じられないことを報告する。姉婿であり一門衆筆頭として信頼し駿河一国の統治と防衛を任せていた江尻城城主穴山梅雪が裏切った。

 わしは穴山にまで見限られたのか。武田勝頼、地面が揺らいだような気がして膝をついてしまう。穴山謀反の噂は陣中に拡がり、動揺した将兵は続々と逃亡してゆく。


 河内より徳川軍が甲斐に進攻してくるならば、塩尻峠と有賀峠を押さえて、高遠城の後詰をする作戦も放棄せざるを得ない。新府城に撤退して後図を策するしかない。


三月二日 新府城、夕方。


 将兵の逃亡は続き、新府城まで撤退した時には千をきる。未完成の新府城、千足らずの兵では守ることもできない。そこに高遠城陥落の報が届く。

「高遠城より逃げ来る十名ほどの兵の言によれば、高遠城は本日陥落した由」

深刻な軍議が始まった。


 どうしてこうなったのじゃ。何故じゃ。勝頼、やはりあの日のことを考える。

「御館様、兵をひかれよ。これは罠じゃ。見えませぬか、あの柵が」

口々に訴える部将たち、山県の顔が、馬場の顔が浮かぶ。

 どうして、わしはあの時、突撃を命じたのじゃろう。わしは信長が出陣してきたので、待ちに待った決戦の機会がめぐってきたと逸っておった。信長の謀略にも、うすうす気がついておった。しかし部将たちの眼に、やはりこのお方は信玄公ではないという嘲りの色を見たような気がした時、信玄公を超えるために、ここで信長を打ち破らなければならないと思うたのじゃ。やれるとも思うた。

 しかし何故わしは皆の諫言を聞かなかったのじゃろうか。驕っておったのか、気負っておったのか、あんな子供騙しのような策に乗せられて、信玄公秘蔵の名将、勇将を、ことごとく討ち死にさせてしもうた、歴戦の兵士どももじゃ。

 なぜじゃ、なぜわしはみなの諫言をきかなかったのじゃ。あの時、武田の命運は尽きたのじゃろうか。今日の結果も、あの日のわしの軽はずみな命令のせいなのか。

 わしは側室の生れ、嫡男として義信公がおられたので、武田の部将として典厩信繁様のように義信公をお支えするのが、わしの務めと思うて育った。義信公が信玄公の駿河進攻作戦に反対され幽閉され自殺に追い込まれた時、わしの運命が変わった。義信公は信玄公に反対することで信玄公を乗り越えようとされたのかも知れぬ。わしは信玄公の教えを従順に守っていくことしか考えておらなんだ。

 しかし、あの時、山県や馬場の眼を見た時、信玄公を超えるのは、ここしかないと思うたのじゃ。しかし、どうして、わしは、あんな命令を、どうして、どうして。

長篠の戦以来、自分を責め続けてきた勝頼である。


 軍議では勝頼の嫡男・信勝の主張する新府城死守案、真田昌幸の主張する上野・岩櫃城に割拠する案も出されたが、小山田信茂領内の郡内岩殿城に撤退することに決まった。


「典厩信豊殿に信濃の支配権を授ける。そなたは上野の小幡信真の妹婿でもあるし、佐久郡小諸城に赴き、真田と協力して、上野・北信の兵を糾合してもらいたい。そして上杉の援軍と合流して、甲斐に乱入してきた敵の背後を衝いてもらいたいのじゃ。こたびの戦は、そなたの働きにかかっておる。よろしく頼むぞ」

同行を乞う典厩信豊と真田昌幸に新しい任務を与え、去らせる勝頼。

 

 新府城には部将・国人たちから差し出された人質がいたが、それを閉じ込め火を放つ。女子供の「熱い、助けて」と泣き叫ぶ声を聞きながら出発する。みな最愛の子女を犠牲にしてまで、わしを裏切るのか。勝頼、自分の気力が萎えてくるのがわかる。 


 諏訪大社を焼き払った信忠軍が追ってくる。七百に減った兵から逃亡者が相次ぐ。古府中(甲府)に一泊したが、情勢が不穏で長居することができない。つい二ヶ月と少し前には本拠地だったのに。夜の間に五百に減った兵から、さらに逃亡が続く。

 笹子峠まで来たところで、受け入れのためと称して岩殿城に先行したはずの小山田信茂の裏切りに気がつく。小山田の人質の老母が、いつの間にか居なくなっていた。

郡内に入る木戸を守る小山田の兵に鉄砲を撃ちかけられる。従う者は百をきる。恩賞目当ての土民、逃亡兵が殺到してくる。一行は天目山に逃げる途中、目前の田野で包囲される。そして信忠軍が迫ってくる。


 その頃、上条宜順の率いる上杉の援軍も信濃に入り南下しようとしていた。もとより、勝頼を助けることが第一義ではあるが、それがかなわない場合、北信の旧武田家臣を糾合し緩衝地帯を作り出したいとの思惑もあったが、みな浮足立って争って織田軍に投降しておる有様。投降した時の処遇を良くするためか、上杉軍に敵対するものさえいる。国境の長沼城、飯山城だけでも確保したいと思うが、それさえ叶わない情勢だ。

その上条宜順のもとに

「三月十一日、勝頼公・信勝公、甲斐天目山近くの田野で御自害」

「三月十五日、勝頼公・信勝公の首級、飯田で晒される」

との報告が来た。なんと武田家が滅亡した。

「春日山に使者を立てよ」


 一方、春日山の兼続のところにも越中・富山城が奪回され、柴田勝家の率いる一万五千の大軍に魚津城・松倉城が包囲された報告が届いていた。

 新発田重家討伐の軍勢を残したまま、わずかな供回りだけで戻ってきた景勝を迎え、早速重臣会議が開かれる。

「新発田重家への手当てじゃが、蓼沼友重らに命じておいた。それで信長の動向はどうなっておるのじゃ」

「信長は三月二一日に諏訪、四月三日に甲斐・躑躅ヶ崎館焼け跡に到着した模様」

「織田軍の陣容は如何なるものじゃ」

「先鋒の信忠軍は、尾張・美濃・北伊勢衆。信長の本隊には、明智光秀・丹羽長秀・池田元助(恒興長子)・蜂屋頼隆などが参陣しております。畿内の軍勢を挙って連れてきたようでございます」

「少なく見積もっても数万になろう。しかも無傷じゃ。兵糧も矢玉も手つかずで残っておる。武田を滅ぼした勢いのまま北上し、越後に攻め込んでくるやも知れぬな」

越中の柴田軍、揚北の新発田重家、東西に敵をかかえ、春日山城を動けず、南の信長の動向を注視しながら息をひそめる日々が続く。


 景勝、菊姫を見舞う。

菊姫は、あれ以来寝込んでおり毎日泣いていたと事前にお船より報告を受けていた。

しかし会ってみれば思ったより元気そうに見えた。

景勝、慰めの言葉が見つからず、言うても詮無きことじゃと思いながら

「どうして勝頼公は、上野・岩櫃城にお越しにならなかったのじゃろう。真田も待っていたろうし、われらも助力する手筈を整えていたのに」と言う。

すると菊姫

「甲斐源氏の棟梁が他国で死ぬわけにも参りますまい。それに、まだ二十歳にならない御台所様(北条夫人)を北条にお返しするために、勝頼公は東に向かわれたのではありますまいか」と言う。

 菊姫の眼から涙が後から後からこぼれてくる。やさしく抱きしめる景勝。

「口惜しゅうございます」

「お菊も織田と戦いたい」

泣きながら訴える菊姫、それを見た景勝、

「仇は必ずとってやる」

と言えない自分の非力がうらめしい。

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