第4話御館の乱

 天正五(1577)年十二月十八日、上杉軍が春日山城に凱旋する。

 越中・能登を平定、加賀に進攻し、織田軍を鎧袖一触で打ち破った諸将は意気軒高、慰労の宴はにぎやかなものとなった。

「喜平次、留守居役、大儀じゃったな」

「はっ。有難き幸せ」

「そなたが春日山城を守ってくれているお陰で、わしも安心して遠征できるというものじゃ。与六もご苦労じゃったな」

 居並ぶ諸将の前で謙信に労われ面目を施す景勝と兼続。しかしその後、衝撃的な光景を目の当たりにする。景虎の席に切れ目なく諸将が挨拶に訪れ、景虎が鷹揚に応対する様子を見せつけられたのだ。

 まるで後継者のような振る舞いじゃ。 大事なお役目とはいえ、いつも留守番をしている喜平次様より、いつも本陣の御実城様の側におり、時には代理として報告を受ける三郎殿の方を、諸将も後継ぎと認識してしまったか。この二年で差をつけられたやもしれぬ。


その翌日。

「波里、そなたも弔問に同行せよ」

「あい」

「うーん、その服装は違うかも」

「なんで、黒の紋付き袴なんですけど」

「いや、三七ではなく波里の方がよいのじゃ」

「女の扮装の方がよいということ?」

「いや、扮装しなくともよい、普通でよいのじゃ」

「普通?細作に普通とは、どういうこと?」

面倒くさい奴。

 お船の父(波里の父でもある)直江大和守景綱は三月に病死したが与板衆は、能登七尾城包囲のための付け城石動山城に配置されていたため、四月の謙信の一時帰国に同行できず、今、遺骸が戻ってきたのだ。

「おお、与六殿。御中城様のご名代、かたじけない」

喪主の直江信綱が人のよさそうな顔をほころばせて弔問の礼を言ってくれた。

「藤九郎(直江信綱)殿、滅相もない。それがしは幼き頃より大和守(直江景綱)殿に大変お世話になったものです」

優しい爺さんじゃったな。幼すぎて小姓の役に立たない、それがしをよく直江屋敷で遊ばせてくれた。まあ、そのせいでお船殿にイジメられることになったんだけどね。

「波里、そなたも焼香せよ」

「えっ。な、なんで?」

「早く。後ろがつかえておる」

「知らない人なんだけど?」

まごつきながら直江景綱の遺骸の入った大きな甕の前でお祈りする波里。それを見ていたお船の眼から、はらはらと涙がこぼれる。

鬼の眼にも涙じゃ。


「今生の別れとなるのじゃが、打ち明けなくてもいいのですか」

「知らずとも良いことが、世の中にはあるのじゃ」

「そういえば昨日の三郎殿の振る舞い。あたかも御実城様の後継ぎに決まったかのようでしたな。ぐふっ」

痛ててて。お船に腹を殴られた兼続。

「そなたが弱気になってどうする。考えてもみよ。北条のものが上杉の後継になれるわけなかろう。御実城様の後継は喜平次様と決まっておる。何を言っておるのじゃ」

「申し訳ございませぬ」

殴られた上、謝罪させられる兼続である。


「今日の与六様もお船様も変だったな」

「そ、そうかな。気のせいじゃない」

「いや、変だった」

布団の中で、波里にも問い詰められる兼続。

「与六様、うちの眼を見ることができますか。嘘はよくない。嘘はバレる」

よく言うわ。年がら年中、嘘ばかりついておるくせに。

「痛ててて。わき腹が痛い」

「どれどれ。あれ青くなってる。どこかでぶつけましたか。冷やしますか」

これぞ、怪我の功名なり。

「よいよい」

波里を抱き寄せる兼続。

「それより、もっとぴったりくっつくのじゃ。寒い。温め合おうぞ」

「あい」

いつもより優しい接吻をする兼続でした。


 さらにその翌日。

 謙信に実城御殿に呼び出される。そこにはお船も呼ばれていた。

「武田はどうなっておる」

久しぶりにじっくり話し合う機会を得た兼続。


三人の話題に関する時系列は次のようなものとなる。


天正三(1575)年

 五月 長篠の戦

十一月 美濃岩村城陥落 

十二月 遠江二俣城開城

天正四(1576)年

 四月 甲斐恵林寺で信玄葬儀

 五月 天王寺の合戦(信長負傷する)

天正五(1577)年

一月 武田勝頼、北条より後室を迎える

二月 信長、紀伊雑賀衆を攻める

閏七月 謙信、出陣

 八月 松永久秀、再び謀反。

 九月 能登七尾城攻略。手取川の戦い

 十月 松永久秀、信貴山城で自刃。


「正月に北条氏康の末娘が勝頼公に輿入れしました。これにより武田と北条の同盟が一層強化され、高坂弾正殿も長篠敗戦後、初めて枕を高くして眠れたと書き送ってきております」

謙信は一人静かに酒を飲んでおり、小姓たちが兼続、お船の膳も運んできた。

「高坂殿は、敵前逃亡した穴山信君、武田信豊などを粛清するべきだと主張しておりましたが、勝頼公は一門衆に対する依存をむしろ強めております。戦死した駿河江尻城城代の山県昌景殿の後任に穴山信君が起用され駿河・遠江の防衛を任されています」

「敗戦の張本人に家中最大の権力が与えられれば統制は乱れるな」

「そういえば美濃岩村城の後巻きを命令された木曽義昌は動かなかったそうですね」

 後巻きとは、味方を包囲する敵をさらにその背後から取り囲むことである。

「信玄在世時には考えられないような弛みが生まれておるようじゃ」


「岩村城は美濃における武田の橋頭堡でしたから、信長は長男信忠に精鋭部隊を授けて攻撃させております。木曽衆が後巻きしても守りきれなかったのではございませぬか」

「城は守れなくても、包囲陣を突破して城兵を収容し信濃に撤退させるべきじゃったな」

謙信が何かを思い出そうとしている。

「本願寺との戦で信長が負傷したことがあったじゃろう」

「はい、天正四年五月の天王寺の戦いでございます。雑賀鉄砲隊の待ち伏せで織田勢は潰乱、本願寺攻め総大将原田直政が戦死し、明智光秀の部隊が敵中の砦に孤立する事態となりました。信長はわずかな手兵で万余の敵に突撃し、明智の守る砦を救援したとか。その時に鉄砲で負傷したと聞いております」

お船殿の博覧強記ぶりにはいつも驚かされる。

「信長は悪逆非道な男じゃが、戦機を心得ておるし士卒の心を掴む術も知っておる。

最前線の士卒が戦えるのは、包囲されても必ず援軍が来てくれると信じておるからじゃ。信長は本願寺包囲軍が大敗したことを知り、兵の集まるのを待たず、わずかな兵で突出した。わが身の危険を顧みずにじゃ。将に将たる器じゃ」

なるほど。

「勝頼は結果として岩村城を見殺しにした。救援のため努力し力及ばなかった事情には同情するが、長篠の敗北に匹敵する失策じゃな。一軍の将は、例え負け戦であっても家臣が納得する行動を見せねばならぬ。兵を失うことより信を失うことを心配せねばならぬ」

勉強になります。心に刻んでおきます。

「信長は、城兵の助命をするため降伏した秋山信友(虎繁)を長良川河畔で逆さ磔にしたうえ、城兵全員皆殺しにしたようでございます。岩村城は、もともと信長の叔母にあたる寡婦が城主じゃった城で、信玄の西上作戦の一環として攻略した際、秋山がちゃっかり寡婦と夫婦になったことが許せなかったのでしょうか」

お船殿は、毎日細作の報告読んでいるから何でも知っているんじゃね。

「信長は、秋山は寡婦と結婚した以上親戚じゃから許してやる、侍大将にしてやると騙して岐阜に出頭させたとか。付け加えると、その寡婦も岐阜で斬られております」


「岩村城は岐阜城を狙うため武田が美濃に差し込んだ匕首あいくちとなっておったから、信長は相当脅威に感じておったのじゃと思う。長篠の前年、勝頼が東美濃で十八城を攻略できたのも、秋山の采配によるものじゃろうて。信長は、自分を脅かしたものは決して許さない男じゃ。秋山ほどの男が、やすやすと騙されたのは、兵糧攻めで餓死寸前じゃった城兵を救いたい一心だったからじゃろうな」


「そう言えば信長は、聖護院門主の先達、六角堂勝仙院を使僧として勝頼公に上杉に対する同盟を申し込んでおります。その内容は以下のようなものであると高坂殿の通信に大略が書いてありました」


 信長は元来武田家に対して鬱憤を持っておらぬ。美濃の苗木勘太郎が娘はそれがしの姪なるに、勝頼の室家となりて太郎信勝出生の儀なれば、縁家なり。然るにいわれなき意趣をかまえ、 長篠表の一戦にあたら勇士ども数多く命を失い、信長はこれを悼むこと深し。自今以後は、前々の宿霧を散じ、内戚の親しみを厚くして、たがいに隔心なく、交往いたすべし。

 謙信明年三月上方表に出勢いたし、信長と有無の一戦あるべき動静なれば、勝頼その隙に乗じ、信州より越後乱入なされ、前後より立ちはさみて謙信を討たるべし。味方利運に至るときは、越後、佐渡はいうに及ばず、能登、越中、東上野までを勝頼支配いたし子細あるべからず。


 回し読みする謙信とお船。

「姻戚関係を強調するところ、秋山信友を騙したのと同じ構成ですね」

同工異曲じゃ。

「勝頼の反応はどうじゃったのか」

「高坂の手紙には“勝頼公、嘲笑す”とあります」


「まともに答えようがないのでしょうな。しかし勝頼公にさえ同盟を持ちかけておるのであれば奥羽や越後国内も調略しておるやもしれませぬな」

「信長は、何事も決して手を抜かない男じゃ。われらも油断するまいぞ」


「本願寺は織田の大軍を相手に奮戦しておるし、毛利も織田水軍を殲滅して本願寺への海上兵站線を確保しておる。来年こそは宿願の叶う年にしたいものじゃ」

「御意」

「御意」


 天正六(1578)年一月十九日、上杉謙信は陣触れを発する。出陣は三月十五日と定められた。


三月九日

 樋口与六兼続は春日山城で忙しく働いている。謙信が関東に出兵する時は、景勝の所領魚沼郡を経て三国峠・清水峠を越え上州沼田城に至る道筋となる。

「こたびの出兵には越中・能登・加賀の者どもも動員される。軍勢は数万に達するじゃろう、かつてない大軍となる。粗相があってはなるまいぞ」

 魚沼郡を通過する各梯団に対する宿舎の用意、糧食の手当て、従来とは桁違いの準備が必要となり、昼飯も食べられない、てんてこまいの忙しさとなっている。

「お船様が与六様を呼んでいます」

いつの間にか近づいていた波里が耳打ちする。

「なんじゃ。手が離せぬのじゃが」

「緊急の要件じゃと」

「どこに行けばよいのじゃ」

「実城御殿」

「御実城様のお召しなら仕方あるまい。三七も付いてまいれ」


「与六殿、こちらへ」

いつになく厳しい顔のお船が空き部屋に招き入れる。

「波里、人払いじゃ。誰も近づけてはならぬ」

お船が命令する。

「本日の昼頃、御実城様は厠で昏倒された。卒中じゃ。人事不省となっておる」

えっ、膝の力が抜け、座りこむ兼続。

ほんの少し前じゃな。どういうことじゃ。

「薬師は恢復の見込みはないと言っておる」

どうして、そんなに冷静でいられるのじゃ。

「二月には京から画工を呼んで御寿像(生前中に作る肖像画)を描かせたり数日前には辞世を作っておられた。お体の具合が悪いことを自覚されていたのやも知れぬな」

「辞世の句は」

「四十九年一睡夢、一期栄華一杯酒(四十九年の生涯は一睡の夢のようなもの、一生の栄華は一杯の美酒のようなものだ)」

お酒の好きな御実城様らしい。儚く美しい辞世じゃな。


「上条政繁様に一門衆を召集するようお願いしたところじゃ。ご親族にお見舞いしていただく。これで御実城様の病状を皆が知ることになる」


 上条政繁は天文二二(1553)年生まれで、この年二五歳。上杉越後守護家の一族出身で守護家の分家である上条上杉家の当主。上杉謙信の三人目の養子であり、長尾政景(景勝父)と仙桃院(謙信姉)の娘を娶っている。景虎とは相婿であり景勝から見れば義弟となる。

 能登七尾城を攻略した時、謙信の命令で城主畠山義続の遺児(後の畠山義春)を預かる。足利幕府三管領のひとつ名門畠山家の血筋を尊崇する謙信は、遺児を自らの四人目の養子にした後、子供のいない政繁の養嗣子とした。越後守護代長尾家出身の謙信から見れば主筋にあたる上杉越後守護家出身者として重んじられてきた人である。


「与六殿、正念場じゃ」

「これから何が起きるか分からぬ。与板衆の精鋭を春日山に呼び寄せるつもりじゃ。そなたも一刻も早く上田衆を呼ぶのじゃ。実力行使のために必要となる」

「先制的に既成事実を積み重ね、一気に喜平次様の覇権を確立する。そのためには悪逆無道な所業も辞さぬ覚悟じゃ」

「それがしも同じ覚悟でございます」

「波里、与六殿の身辺、くれぐれも頼むぞ。敵方の標的になるやも知れぬ」

「かしこまって候」


三月十日、十一日、十二日。

昏睡状態の謙信は、まだ生きている。

「御実城様が亡くなったら即座に仕掛ける。兵は集まったか」

星空の下、実城御殿の庭で密談するお船と兼続。

「はい」

「まず柿崎晴家を血祭りにあげる」

「なんと」

「柿崎晴家は、北条との同盟がなった時、三郎殿と交換で小田原に人質として差し出された男じゃ。同盟が破れて戻されたが以来、家中随一の北条びいき、三郎殿支持者じゃ。こいつを始末すれば三郎殿支持派は動揺するじゃろう」

引き返せぬ修羅の道じゃ。

「その隙に実城(本丸)を制圧する。金蔵・武器蔵を接収するのじゃ」

「なんと」

「三郎殿は北条の実子、武田は北条の妹婿、われらの味方はどこにもおらぬ。自力で道を切り開いていかねばならぬ。強気で押し通すのじゃ」

「御意」

 眼下の城下を見渡すと、幾多の軍団が待機していた野営地あたり二、三日前には空の星を映したように煌々と灯っていた明かりが消え漆黒の闇が広がっている。六万と号した大軍は潮が引くように消えていた。

 関東を平定し、そして信長を打ち破って上洛を果たし、幕府を再興する御実城様の夢も闇に溶け消えてしまった。


三月十三日

上杉謙信の命が尽きた。

「御実城様は、後継ぎは御中城様(景勝)と遺言されて、たった今逝去されました」

謙信の身辺の世話をしてきた直江景綱未亡人(お船の実母)が諸将の前で発表する。

「三郎殿(景虎)は早々に小田原に帰国されるべし」未亡人さらに追討ちをかける。

お船殿の仕掛けが始まったわけじゃな。

「御実城様の意識は恢復しておらぬはず。その遺言は信じられぬ。これは陰謀じゃ」

先頭に立って反対する柿崎晴家。確かに目障りな男じゃ。

三月十四日

柿崎晴家、春日山城内で何者かに殺害される。

「小競り合いが続いておるゆえ、突発的な事件が起きたかもしれませぬな」

「上杉一の勇将の御子息が不慮の死を遂げるとは、諸行無常でござる」

適当なこと言って景虎派の抗議を撥ねつける兼続。

三月十五日

 上田衆・与板衆の精鋭を送り込んで実城を制圧し、景勝を迎え入れる。

即座に二の廓に立て籠もる景虎派に対する夜襲を進言する兼続。

「景虎一派、一気に皆殺しにして禍根を断つべきかと思料いたします」

ここで勝負をつけるのじゃ。三郎が死ねば北条も武田も介入の口実を失うじゃろう。

「いや二の廓には、姉上もおられるし、母上もおられる。それに柿崎の一件、われらの仕業と思われて、中立派の諸将が一斉に離反しておるぞ」

何を甘いことを言っておるのじゃ。喜平次様は。


 実城御殿に作られた本陣でお船と兼続が、情勢分析をしている。

「喜平次様は甘すぎる」

「知らずとも良いことが世の中にはある。喜平次様にすべてを知らせる必要はない」

そうか、独断で夜襲を決行するべきじゃった。

「今からでも遅くない。決死隊を編成して突っ込ませます」

「まて」

「失敗したら、それがしが腹を切ればすむこと」

「まてい、落ち着きなされ」


「敵の姿が見えてきた。そなたは、どのように見立てておるのじゃ」

「敵と言えばまずは古志長尾でございます。古志は上田憎しのあまりに三郎を擁立しておるのでございましょう」

「古くからある上田長尾と古志長尾の因縁じゃな」

「栃尾城主本庄秀綱」

「そうじゃな。ここまでで何か気づかぬか」

いや。

「本庄秀綱の居城栃尾城は、謙信公の初陣の地じゃ。謙信公は栃尾城を足がかりに古志長尾を手兵にして、兄上晴景様に勝利し府中(三条)長尾を服属させた。謙信公に最後まで敵対したのは上田長尾じゃ」

ますます分かりませぬ。

「こたびの戦いは、謙信公の地盤であった古志長尾と喜平次様の地盤である上田長尾の戦いじゃ」

やっぱりわかりませぬ。

「若き謙信公に最初から従っていた古馴染みの家臣を、最後まで反抗した政景公の上田衆が討つ戦いになるということじゃ。つまり、こたびの後継者争いは単なる首のすげ替えではなく、権力構造そのものの変動をともなう大掛かりなものとなるということじゃ」

よく分からぬが、腹据えてやれということか。

「敵が四囲から迫っておるゆえ、早く勝ちたいそなたの気持ちは痛いほど分かるが、勝ち方も大事じゃということじゃ。勝利の暁には、喜平次様の統率のもと、一糸乱れぬ強い上杉を造り上げておかねばならぬ。中途半端な妥協をして、将来に禍根を残してはならぬ。勝頼公が困っておる武田のようになってはならぬということじゃ」

「上田衆が掌握する越後ですか」

「上田衆と与板衆じゃ」

「これは失礼」

「そなたがその中心にならねばならぬ。匹夫の勇は必要ないぞ、御身を大切にせよ」

お船殿はそれがしを気遣ってくれているのじゃろうか、意外。

「しかし形勢を観望しておる中立派に対する多数派工作をしなくてはならないのですが」

「嘘は仏にあっては方便、武士にあっては武略じゃ。空約束を乱発してもいっこうにかまわぬ。じゃが最終的には上田衆・与板衆など忠義の者どもを抜擢するのじゃ」

「御意」


三月二四日

「遺言の由につきて実城へ移るべきの由、おのおの強いてことわり候条、その意に任せ候(謙信の遺言に基づいて実城に移れと周囲の者が言うので、その通りにした)」

上杉景勝、国内外に後継者になったことを宣言。多数派工作が始まった。


五月五日

 大場で両軍衝突。初めて戦闘での死者が出る。

 春日山城内でも実城と二の廓の間で銃撃戦が始まる。

五月十日

 北條高広の父高定、春日山城下で殺害される

五月十三日

 景虎、春日山城二の廓を退去し、御館に移動。謙信の義父、上杉憲政を奉じる。


「これで去就不明の諸将の旗幟も明らかになりましょう」

春日山城の本陣で情勢分析しているお船と兼続。

「味方は揚北の新発田長敦殿、竹俣慶綱殿、刈羽郡の上条政繁様、安田顕元殿、斎藤朝信殿、山東郡の直江信綱殿、西蒲原郡の吉江信景殿、山吉景長殿、越中の小島職鎮殿ですね。主だった方々は」

自分の婿を殿づけで呼びましたね。

「敵は古志郡の古志長尾・上杉景信、本庄秀綱、丸田周防守、南蒲原郡の神余親綱、揚北の黒川清実、鮎川盛長、上野厩橋の北條高広・景広、沼田の河田重親、信濃飯山の桃井義孝」

上野在番の者どもや信濃飯山の桃井などは、北条や武田の脅威に直面しておるゆえ、三郎殿になってもらいたいんじゃろうね。

「中立は越中松倉城主河田長親殿」

「叔父にあたる河田重親は三郎殿についておりますが、長親殿の去就は不明ですな」

「河田長親殿は、北陸の上杉軍の総大将として織田と戦っておるのじゃから、一刻も早い内乱の終結を願っておるのじゃろう。他意はないと思う」


五月十五日

実城御殿、景勝の前で軍議が開かれている。

「御館に集まった景虎派の諸将は、上杉景信、三本寺定長、神余親綱、堀江宗親、東条利長、桃井義孝など、およそ六千です。明日にも押し出してくるやもしれませぬ」

お船が報告する。

「景勝の不法な簒奪を許すな。景虎殿こそ正統な後継ぎじゃと申しておるようです」

「何を抜かすか。わしは謙信公の甥じゃ」珍しく景勝が気色ばむ。


「喜平次様がやっと本気になってくれたようじゃな」

「御意。少し遅かったような気も致しますが」

お船と兼続が密談をしている。

「どこかで三郎殿が折れてくると思ったのじゃろうな。甘い考えじゃが」

「義理の兄弟として親しく交際しておりましたから憎み切れないのやもしれませぬ」

「しかし双方譲ることはできないじゃろう。これは謙信公の養子として、どちらがより愛されていたかを証明する戦いじゃ」

三郎に認めさせたいのかな。より愛されていたのは自分(景勝)だ、と。

「それにしても予想外の大軍となりましたな。景虎派は」

「北条の援軍をあてにして、勝ち馬に乗っておるつもりなのじゃろう」

五月十七日

 景虎軍、春日山城下の三千の民家を焼き払い春日山城に攻撃開始。

 寄せ手の大将のひとり信濃・飯山城主桃井義孝討ち死に。

五月二二日

 景虎軍、春日山城を再攻撃

五月二九日

 武田軍、信越国境に到着

北条軍主力は下総結城・山川で佐竹・宇都宮・結城・那須連合軍と対峙中で動けず、

北条氏政は妹婿武田勝頼に景虎支援を要請した。

「武田軍が国境を越え越後国内に侵入してきました」

「どうなるのじゃ」景勝が呟く。

「春日山城は難攻不落、誰が攻めてこようと、こゆるぎもいたしませぬ。相手の出方を見てみましょう」

「しかし孫子の旗を越後で見る日が来ようとはな」

全く同感です。あっ、思いついた。


「敵は北条や武田の援軍を頼みにしておりましたが、実際に武田勢を見た敵の将兵どもは動揺しているのではありませぬか。武勇を誇った謙信公の後継ぎになろうとするものが宿敵を国内に引き入れて勝とうとしている。後継ぎの資格があるのじゃろうか、と。細作を潜入させて流言を広め疑念を膨らませ敵の戦意を挫くのです」

兼続がお船に進言する。

「名案じゃな。北条や武田の下風に立つことになってもよいのか、越後は越後人が治めるべきということを主張するのじゃな。早速、手配いたそう」


「ところで武田の動きもおかしいのじゃ。御館の敵と合流して攻めてくると思ったのじゃが。ここから五里ばかり先の小出雲から動きませぬ」

「武田も戸惑っておりましょう。長篠の復讐のため謙信公の上洛戦を待ち望んでおったのに、謙信公急死ですべてが御破算となったのですから」

「ううむ、北条と武田には思惑の差があるようじゃな。隙がある」

死中に活を求めるべきは今じゃ。

「それがしが武田への使者となりまする」

「喜平次様にはお船から伝えておく。早速に発て。波里を連れて行け」

「波里、与六殿を頼むぞ」

「かしこまり候」

 

 武田の先鋒・武田典厩信豊の哨兵に事情を話すと丁重に本陣に案内される。

待ってたんじゃね。

本陣には武田典厩信豊と高坂弾正がいた。

「樋口殿、久しいのう」

「高坂殿、お久しぶりでございます」

「そなたが来ると思っておったわ」

三年ぶりに会う高坂弾正の顔色は土気色、相当体が悪そうじゃ。

「謙信公は残念じゃった。もう少し命数が残っておれば信長を打ち破ることができたやもしれぬのに」

「はい」

「じゃが、すっぱり忘れなされ。謙信公の夢は謙信公だけのもの。謙信公のお力があって叶えられる夢じゃ。誰かが引き継げるものではない」

自分に言い聞かせるように言う高坂。われらより失望しているのかも知れんな。

「われらは武田との和睦を望んでおります。条件を持ってまいりました」

「言うてみよ」

典厩信豊が初めて口を開いた。

「信濃・飯山領と東上野を割譲いたします」

仁科五郎盛信が頸城郡根知城を攻略したと聞いた。領土を取る気なんじゃろうね。

「そなたの一存ではないか」

「飯山城主桃井義孝、東上野・厩橋城代北條景広、沼田城の河田重親は、いずれも景虎支持派です。武田が煮て食おうが焼いて食おうが、われらは一向にかまいませぬ」

「相当、困っておるのじゃな」

「はい。一日も早くこの乱を終息させて信長包囲網に復帰したいと考えております」

「はっはっはっ」

高坂が爆笑する。


「春日山城は天下の堅城、少々の攻撃ではびくともいたしませぬ。半年も経てば雪も降り積もることになりましょう。このまま荏苒と日を過ごしておれば、精強な武田勢といえども進退に窮することになるのではございませぬか」

まっすぐ信豊の顔を見ながら一拍おく。

「それに徳川家康が遠江奪回の準備を着々と進めていると細作の報告を受けております。田中城に対する攻撃を強めておるようですな」

黙り込む信豊。

「典厩様、甲府の御館様にご相談いたしましょう」

高坂が話をまとめてくれた。

典厩信豊が、早馬に持たせる書状を祐筆に書かせるため出て行く。


「樋口殿、従者の方も一緒に飯を食わぬか」

一口ずつ食べた弁当を渡してくれる。相変わらず行き届いたお人じゃな。

しかし高坂は自分の弁当は食べようとしない。食欲がないようだ。

「高坂殿、失礼ですが相当お加減が悪いのではありませぬか」

「もう棺桶に両足突っ込んでおる」

「なんと」

「そなたに会いたくて無理やり輿に乗ってやってきた」

「渡したいものがあるのじゃ」

小姓が厚めの冊子を持ってきて、波里に渡す。

「これは」

「わしの人生の辛苦の結晶じゃ。ご覧あれ」

それは上杉領内の詳細な地図と能登の鰺坂から揚北の本庄まで主だった家臣の詳細な調査だった。高坂弾正が金と時間と人手と手間をかけて作成したものだ。

「そなたも調査対象じゃ」

試しに見てみると上田衆の項目の筆頭に、

樋口与六兼続 若年なれど頭脳明晰 景勝公の寵愛深し

とあった。

「そなたは景勝公の分身ともいうべきお人。口重き景勝公の想いを形にすることができる唯一のお人でもある。初めて会う前に、調べはたんとついておったのじゃ」

高坂が、ふふふと不気味に笑う。怖いわ。

「謙信公を倒し上杉を滅ぼすために作ったものじゃが、わしにも武田にも不要となった。差し上げる。上手に使え。そして生き残れ。自分の生を全うするのじゃ」

有難い。多数派工作に一番必要な情報じゃ。

「もうこれで思い残すことはない。信玄公の葬儀の時にも思ったことじゃが」

ふふふ、かすれた笑い声の高坂。

「なぜ、ここまで良くして下されるのですか」

「そなたとの通信で、謙信公の上洛戦の話を知らせてもらった、お礼じゃ。年寄りが、いい夢みさせてもらったわい」

「ご厚情、有難うございます。早速立ち返りあるじに首尾を伝えまする」

丁寧なお辞儀をして本陣を出ていく兼続主従を見送る高坂弾正。

 わしが信玄公の近習になったのは十五の歳じゃった。三六年前になるのか。あの若者を見ていると、なぜか昔のことを思いだす。若く希望に燃えておった頃のことを。

「美味かったね。きゃっきゃっ。武田の弁当」

「しっ、黙るのじゃ」


春日山城に戻り景勝に報告する兼続。

「武田は、われらと戦う気はないようです。遠江で徳川の攻勢が強まっており、気が気でない状況の様に推察いたしました。春日山城を攻めて兵と時間を浪費する余裕はないと思います」

「和睦の申し出に乗ってきそうということか」

「はい」

「何を差し出せばいいのじゃろうか」

「信濃飯山領と東上野の割譲でよいのでは、いずれも景虎派の支配地域ですし。背に腹は代えられないかと。一応和睦の条件として提示しておきました。独断専行、申し訳ございませぬ」

「いや構わぬ。与六がそのまま和睦交渉を担当してくれるか」

「いや、それがしは余りに若輩。それに北条に備えなければなりませぬ」

斎藤朝信、新発田長敦が取次ぎとなり、武田信豊、高坂弾正と交渉することとなった。


 斎藤朝信は、大永七(1527)年生まれで、この年五一歳。知勇兼備の良将で謙信に深く愛された人。謙信の関東管領就任式では柿崎景家とともに太刀持ちを務めた。

 新発田長敦は天文七(1538)年生まれで、この年四〇歳。揚北衆のひとり。外交手腕に優れ、謙信に側近として重用された。五十公野治長(新発田重家)の実兄。


この頃   会津の蘆名氏(景虎派)蒲原安田城を攻略、新発田に進軍するが五十公  

      野治長(新発田重家)に食い止められる


六月八日  上杉景勝、上野の北條高広・景広親子に武田との和睦成立を伝える

「凶徒討ち果たす儀、案のうちに候。さてまた、甲州の儀…勝頼この方に入魂、何分も当方指図次第、その手立てに及ぶべきの由(景虎派の討滅も近くなった、武田との同盟が成立して自分の要請で動いてくれることになった)」

敵方に送る宣伝工作であるためハッタリかましている。


六月十二日 甲越(景勝派)同盟が正式に成立

①勝頼に黄金五十枚(五千両)を贈る②東上野と信濃飯山領を割譲する③勝頼の妹を景勝の妻とする


 この時の勝頼の判断について、北条との同盟が破れ、やがて織田・徳川・北条の同盟が成立し、それこそが武田家滅亡を招来したため、大変な失策と批判されている。

しかし遠江で徳川の攻勢が強まっている状況で、短期間では攻略できない春日山城に拠る景勝を勝算もないのに攻撃せよというのはムリな話。

 それに勝頼は景勝と同盟しても、景虎と戦闘する意志は毛頭なかった。七月下旬、越後府内に到着した勝頼は、景勝と景虎の和睦仲介に乗り出し八月上旬には一時的に「和平媒介成就」させている。今川義元と北条氏康が駿河河東を争ったとき、武田信玄が介入して、甲駿相三和を実現させたことを想起していたのかもしれない。

 ただ景虎の援軍として来た武田と交渉して和睦に持ち込んだ景勝の外交勝利は、去就を迷っていた諸将を景勝支持に踏み切らせ、戦局を景勝有利に変えていく。


六月十二日 景勝派、直峰城を奪回し春日山城と坂戸城の連絡回復

六月十三日 二度目の大場の戦い。上杉景信(景虎派)討ち死に

 武田との和睦が成立し背後の安全を確保した景勝軍が春日山城を出陣する。それを迎撃するため大場から居多ヶ原に展開した景虎軍と激突。激しい戦いとなった。そして古志長尾家当主である上杉景信が討ち死にする。追撃する景勝軍は府内に放火、

民家六千軒を焼き払い、御館を丸裸にした。

「敵将が突出して戦死する事例が多いような気がします」

春日山城に凱旋する帰り道、景勝に質問する。

「功に逸っておるのかな」

「この前の春日山城攻撃の際も桃井義孝が戦死しております。敵軍は統制がとれてないのでは」

「うむ。三郎も謙信公の薫陶を受けておるゆえ、戦下手というわけでもないじゃろうが、あやつは自らの手兵をもっておらぬ。担ぎ上げられた神輿に過ぎないから、総大将としての威令が行き渡らないのじゃろうな」

「それに、われらと武田との和睦、半信半疑で武田がわれらの背後を衝くと思っていたのやもしれぬな。武田の攻撃を待ちながらの戦いじゃったから甘さが出たのかもしれぬ」

宿敵が亡くなったのに喜んではおられぬようじゃな。御中将様は冷静じゃ。


六月十五日

「与六殿、高坂殿が昨日身罷られたそうじゃ」お船が教えてくれる。

「やはり、顔色がとても悪うございました。それがしにとっても、上杉にとっても恩人でしたな。あのお方がいなければ、こたびの和睦、ここまですらすらとは進まなかったと思います」

信玄公秘蔵の名将の最後の生き残りが亡くなったわけか。

「高坂殿は、お船殿にお渡しした例の文書を上手に使って生き残れ、自分の生を全うせよと言ってくださいました」

「あんなに大切なもの、そなたに譲るとは相当気に入られたのじゃな。あの文書使こうておるぞ」

上杉の諜報部門の元締め、お船は高坂文書を使って敵将に対する調略をしている。


七月二九日 武田勝頼、越後府中に至り和議成立

 和睦を望む勝頼が到着したことで景勝派、景虎派双方とも大軍を率いる勝頼の面子を潰すわけにもいかず、戦闘は一時休止されることになった。

「勝頼公は、越後を東西に分割して、双方が支配する案を出された由」

「景虎派は時間稼ぎをしておるのじゃろう。下野で佐竹・宇都宮など連合軍と対峙して動けなかった北条軍主力がようやく上野に入ったそうじゃ。本番はこれからじゃ」

八月二二日 徳川家康、駿河田中城攻撃

八月二九日 武田勝頼、越後より帰陣


八月下旬  北条氏政、上野厩橋城入る

九月上旬  北條高広・景広親子、河田重親を先鋒とする北条軍は三国峠を確保

「荒砥城、直路城、樺沢城を落とされました」

「北条氏照、藤田(北条)氏邦率いる北条軍は坂戸城攻撃を開始」

春日山城の本陣で細作からの報告を聞く景勝と兼続である。お船もいる。

「坂戸城はわれらの根本の地。取られたら、春日山城を確保していても立ち枯れることになる」景勝が不安を口にする。

「援軍を出したいところですが、北条軍の国内侵入を知った御館の敵勢も行動が活発になっております。われらは動けませぬな。敵勢の兵力は」兼続がお船に聞く。

「北条氏政、本陣を沼田城に移した由。率いる主力は推定一万五千。樺沢城の敵勢は五千と推定しております」

「総勢二万か、坂戸城が落ちたら一気に春日山城まで攻め込まれることになる。なんとかせい。そうじゃ鉄砲や弾薬、糧食を送ってやれ」

「お船にお任せあれ」

細作が包囲陣を突破して、鉄砲と弾丸五百発、火薬五斤、鉛を坂戸城に運び込むことになった。

「武田に出兵を依頼してみましょう」兼続が献策する。

「武田は北条と戦う気は毛頭ないぞ」

「春日山城の兵を割いて、坂戸城の後巻きさせることはできませぬ。武田に頼むほかありませぬ。恐らく武田に戦意がないことを北条は把握しておりませぬ。牽制してもらうだけでよいのです」

「樺沢城の四里西方の妻有城を武田に割譲して兵を入れてもらえばよいのではありませぬか」お船が地図を見せながら献策する。

「北条は背後に大軍が出現したことに驚き、坂戸城攻撃の手も緩みましょう。雪が降るまでの時間を稼がねばなりませぬ」兼続も説得する。

「背に腹は代えられぬか。仕方あるまい」


九月中旬

「栃尾城城主本庄秀綱、兵を率いて御館に入りました」

「北条が来たので勢いづいておるのじゃな」

「押し出してくるやもしれませぬ」

九月二六日 三度目の大場の戦い

 景勝派の勝利。三百余の首を取った、この戦いでは五十公野治長などが活躍した

九月二七日

 武田勢五千、妻有に到着。武田の真意をいぶかる北条軍は前進できなくなる

十月

 上田口で最初の降雪。

 藤田(北条)氏邦、北條高広、河田重親を樺沢城に残し、北条氏照撤退

 北條景広は御館に入り景虎軍の指揮をとることになる

十月二四日

 景勝派、御館を攻撃。迎撃に出た本庄秀綱勢を蹴散らす

 本庄秀綱は御館を出奔、栃尾城に逃げ帰る

十二月上旬

 藤田(北条)氏邦「来春無三出勢に及」ぶと約し樺沢城より撤退

 河田長親、能登・越中の兵を率い越後能庄に着陣。景勝支持を表明


春日山城本陣、お船と兼続が情勢分析している。

「本庄秀綱が離脱したのであれば、御館にいる主な大将は堀江宗親、北條景広くらいか」

「北条は来春大軍を催して攻め込んでくるつもりです。それまで御館を守りきるために、北條景広を派遣したのでしょう」

「来春までに決着をつけねばならぬ。そのためには北條景広の首を取らねばならぬな」

「御中城様も“北條丹後守(景広)さえ討ち取れば、景虎如何にもなるべし”と仰せです」

「首は取れぬのか」

「鬼弥五郎と謳われた武勇絶倫な武将ですぞ。謙信公にも寵愛され、謙信公の計らいで能登畠山家の後家、美貌の寡婦を娶ったばかりじゃなかったかなあ。無理です」

「戦場では難しくても平生油断しておる時もあるじゃろう。暗殺隊をいくつか編成して、御館周辺に配置するのじゃ」

お船殿は恐ろしいお方じゃな。国色と言われるほどの美貌の持主なのに頭の中から悪だくみが湧いて出ておる。


天正七(1579)年

二月 一日 北條景広暗殺される

「北條丹後守(景広)は、わずかな供を連れて府中八幡宮に戦勝祈願をした帰りを襲われ深手を負い、御館で亡くなった由」

軍議で景勝に報告するお船。第三者風すぎない?

「御館に総攻撃じゃ。この内乱を終らせるのじゃ」

景勝の命令が下った。

二月上旬 樺沢城、荒砥城、直路城攻略。上田衆が三国峠を奪還する。

三月   北條城から御館に輸送途上の米俵二千、景勝派に接収される

「御館では毎夜、兵が逃げておるようじゃ。わが軍に投降する者もおる」

「兵糧に詰まっておるようでございますな。あと一押しでござる」

三月中旬

春日山城本陣で景勝と兼続が相談している。傍にお船も控えている。

「三郎から和睦の申し出があった。御館におわす上杉憲政様が仲介されるということじゃ。道満丸(景虎長子)を人質に連れてくるという話じゃが」

「仙桃院様(謙信実姉・景勝実母)と華姫様(景虎正室・景勝実姉)を無事取り戻したく思います」

「道満丸はどうする」

「頼朝公の故事以来、敵将の男児は助命しないのが武門の習いでございます」

「上杉憲政様はどうする」

「純然たる敵方を理由もなく許せば、死んでいった忠義の者どもに顔向けできませぬ」

「外聞が悪すぎないか」

「雪が溶ければ北条が大軍を催して攻め込んできます。三郎は和睦交渉といって時間稼ぎをしているだけです。立場を変えてお考え下さい。北条が攻め込んできて、われらが敗れたとして、その際に命乞いして三郎が許すとお思いですか。お覚悟を」

「上野沼田に北条勢二万が集結中との報告があります」お船も口を挟む。

「あいわかった。すべて、与六に任せる」

「すべて手違いで処理いたします」


三月十七日 上杉憲政、道満丸、殺害される。

「上杉憲政様と道満丸殿は、春日山城に赴く途中、四ツ屋砦で斬殺された由。和議仲裁の使者が来ることは前線将兵に通知しておりましたが、手違いがあったようでございます。大変申し訳なく、御中城様はじめ、みなさまにお詫び申し上げる次第です」

軍議で白々しい言い訳をする樋口与六兼続、腹黒さが際立っている。

「これも天命じゃな。和睦は無くなった。今日中に御館を攻め落とすぞ」


同日 御館落城。

「仙桃院様(景勝実母)は無事保護いたしましたが、華姫様(景虎正室・景勝実姉)は、すでに自害されておりました。三郎殿の足手まといにならぬためと申された由。残念至極、お悔やみ申し上げます」

 

 三郎がわしの家督相続を認めておれば、かようなことにはならなかった。謙信公があと半年長生きして下さっておれば、上野国主家を再興して三郎を当主にすることもできた。越後はわし、上野は三郎。仲良く助けあえたやもしれぬ。子供のいない、わしの跡目を道満丸に取らせることもできた。どうして、こんなことになったのじゃろう。残念無念じゃ。今さら悔いても詮無きことを心の中で考える景勝である。


三月二四日 景虎、逃亡途上に立ち寄った鮫ヶ尾城で城主堀江宗親に裏切られ自害。

「上条政繁様より伝令、上杉三郎景虎殿、本日鮫ヶ尾城で自害された由」

上杉謙信が亡くなって、一年と十一日で景勝の勝利が確定した。


天正七(1579)年

七月二十日 勝頼の妹・菊姫、景勝に輿入れ

九月 五日 北条氏政、徳川家康と同盟(天正八年には織田信長とも同盟)

天正八(1580)年

四月二二日 古志郡栃尾城陥落、城主本庄秀綱、会津に逃亡 

七月 二日 蒲原郡三条城主の神余親綱、家臣に叛かれ死亡

天正九(1581)年

二月    刈羽郡北條城を守る石口広宗が降伏。御館の乱、終結。  


 御館の乱は、上杉景虎が自害した後も続く。上野・厩橋城の北條高広の指示で刈羽郡北條城が降伏したのは二年後の天正九年二月。上田口の合戦における北条の作戦指導を深く恨んだ北條高広は、当時上杉と同盟関係にある武田に寝返っており、今回も罪に問われることはなかった。

 

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