第2話高坂弾正

 縛り上げられて高坂弾正のいる本陣に連行される兼続と波里。


「今月十五日、信越国境を越えて領内に潜入した上杉の細作かと思われます」

なんじゃ。最初から、ばれておったのか。しかし顔色ひとつ変えない兼続。


「高坂弾正じゃ。そなたは上杉弾正少弼景勝殿の小姓樋口与六兼続殿じゃろ」

なんと、そこまで分かっているのか。分かってしまうのか。

武田の諜報には一日の長があるようじゃ。しかし全く動揺の色を見せない兼続。


「縄を解いて差し上げろ。自今、このお方たちはわしの賓客じゃ」

流石、高坂弾正、分かりが早くて助かるわ。


「樋口殿、朝飯は食べたのか。まだなら、わしと一緒に食わんか」

高坂は届けられた弁当を一口ずつ食べて、兼続と波里に渡してくれた。

毒殺されるかも、と心配しないように配慮してくれたようじゃな。


 高坂弾正昌信。第四次川中島の戦いの妻女山攻撃隊の指揮官。上杉の抑えとして海津城城主を長い間務めている男。上杉家中で謀反が起きるたびに、陰の黒幕として名前を挙げられる男。甲斐の春日家から信濃更級郡の香坂家に養子に入ったはずなのに高坂と書いたりする、おかしいだろと細かいことまで言挙げされる男。


 若い頃は信玄の寵童じゃったと聞くが、河田豊前守長親殿とはまた違う感じの枯れた美男子じゃな。同じく謙信の寵童だった河田長親と比較したりしながら、上杉家にとって天敵とも言うべき男を観察する兼続である。


「そなたは大胆な男じゃが、細作には向いてはおらんな。何故かわかるか」

初対面なのに失敬なことを言う奴じゃな。

「目立ちすぎるからじゃ。長身白皙の美男子はどなたか?関所を通るたびに聞かれたぞ。わしの家臣のふりをしておったらしいのう」

笑われた。ちょっと恥ずかしいぞ。そっと波里を盗み見る。波里は無心に弁当を食べている。それがしの小者に化けておるのじゃな。化けきっておるのじゃな。

「娘の婿に欲しいという者もいたぞ」

本陣に居合わせた兼続以外の幕僚が爆笑する。

つられて波里もふふっと笑ってしまう。裏切り者!

ふう、味がしない弁当を食べ終わった。


「そなた長篠近くまで行ったようじゃが、どこまで知っておる」

「武田は壊滅的大敗北を喫したようでございますね」

「壊滅的大敗北!諜報に修辞は要らぬが、こたびはその通りじゃな」

一転して重苦しい雰囲気になる。

「われらも、いまだ全容はつかめておらぬのじゃが、みな討ち死にのようじゃ。

山県殿、馬場殿、内藤殿、原殿、真田兄弟、わしのせがれも討ち死にしておる」

なんと、信玄秘蔵の名将・勇将、ことごとく討ち死にしておるではないか。


「御館様、御着きでございまする」

「樋口殿そなたたちはわしの側、ここに控えておれ。すべてを見ていかれるとよい」

高坂弾正、それがしの思惑も何もかも分かっておるようじゃな。


 武田四郎勝頼が数名の旗本とともに入ってきた。

若い、三十前後か。でも顔は蒼白く目は血走っており一睡もできてないようだ。

立ち上がって迎える高坂に駆け寄り、顔を見てほっとしたのか、気が緩んだのか

膝をついて嗚咽する。

「爺、わしは老臣どもの諫言を聞き入れず、猪突し、みなを殺してしもうた。

勝頼の武運もこれまでじゃ」

「勝敗は兵家の常。ひとつの敗北はひとつの勝利で償えばよいのです。あまり気に病んでお体を損なってはいけませぬ」

高坂、勝頼の背中をさすりながら優しい声で続ける。

「先君信玄公も上田原の戦いで、村上義清に敗れ、板垣殿、甘利殿を討ち死にさせたことがござりました。この世に不敗の名将などおりませぬ。寝所を用意させております。今は、ゆっくりお休みくだされ。軍勢を華やかに飾り立て甲府に凱旋する準備をしております」

両脇を旗本に抱えられた勝頼が寝所に去って行く。


何か見たくない光景じゃったな。御中城様は武田四郎勝頼を偶像視しておったのに。

得意の絶頂から失意のどん底に突き落とされたのじゃから、仕方ないか。


 勝頼の旗本が戻ってきた。

「高坂殿、ご長子昌澄殿の討ち死に、お悔やみ申し上げます」

「かたじけない。そなたの兄上も討ち死にされたようじゃな。残念じゃ」

「ありがとうございまする」

眉目秀麗な旗本、兼続たちに気がついて

「こちらは、どなたですかな」

「驚くなよ。上杉景勝殿の小姓の樋口与六兼続殿じゃ」

「なんとまあ。高坂殿には驚かされる。そういうことですか。それがしは勝頼公の近習土屋惣蔵でござる。以後、お見知りおきを」

「はあ」

そんなに驚いてないよね。そういうことって何?どういうこと?


「戦の全体像がつかめないのじゃが、そなたは敗因をどう見ておる」

高坂弾正が土屋惣藏に質問する。旗本つまり勝頼公からの視点となるな。

「一門衆の軍律違反でございまする。山県殿が早々に討ち死にされる難しい戦でございましたが、銃撃をかいくぐって前線部隊は勇戦し本陣勢、後備の突撃で一気に勝負をつけるところまで漕ぎつけたのですが、その肝心な時に穴山殿、信豊殿が無断で退却を開始したのでございます」

それがしが目撃した光景じゃな。後の部隊は武田信豊の軍勢だったのか。

「穴山殿や信豊殿は勝頼公を甘く見ておる。義信公の事件がなければ郡代どまりの男じゃと。それにしても肝心かなめの時に軍律を破るとは」

深い溜息をつく高坂弾正。

「信賞必罰は武門の習い。やんごとなき一門衆とて粛清せねばなるまいな」


勝利が続くなかで軍勢は弱くなる。

後備(うしろぞなえ)の一門衆など、ろくな戦をしておらんかったんじゃろうね。

戦闘参加は、敵が崩れた後の追撃戦の時くらいだったんじゃろう。楽な戦ばかりしてきたため、戦死者続出の惨烈な戦を見ていて怯懦が生まれたんじゃろうね。


「曽根殿が参られました」

若い幕僚が入ってきた。この人が曽根昌世殿か。

「ご苦労じゃったな」

「昨晩は残念でした。徳川家康は日没前に長篠城に後退しました。信長より全軍に追撃中止の命令が出たようでございます」

「信長は僥倖でからくも勝利した桶狭間の戦いを教訓にしておるようじゃな」

「家康の首を獲り、織田の軍勢を伊那谷に引き入れて殲滅するつもりでしたのに。残念です」

信長公は大軍であっても敵地に入る危険性を知っておる。

「敗残兵を五千ばかり収容いたしました。しかし負傷者が多く、手当させていますが次から次へと死んでおります」

「寒狭川の向こうに取り残された者どもは、みな殺されておるじゃろうな。なんとか助けてやりたいものじゃが」


「武藤殿が参られました」

また若い幕僚が入ってきた。これで信玄の両眼が揃った。

「高坂殿、御子息の討ち死にお悔やみ申し上げます」

「かたじけない。そなたの兄上たちも討ち死にされたのじゃろう。残念でならぬ」

「ありがとうございます。それで、それがしが真田に戻ることになると思います。信濃衆として、またお世話になります」


高坂弾正、土屋惣藏、曽根昌世、武藤昌幸が集まって善後策を協議するようじゃな。

「改めて紹介しておこう。

こちらにおられるのは謙信公の甥御景勝殿の側近、樋口与六兼続殿じゃ」

突然、紹介されて驚く兼続、仕方なく会釈する。

「こたびの戦で山県昌景殿、馬場信春殿、内藤昌豊殿、原昌胤殿、真田信綱殿、真田昌輝殿、甘利信廉殿、土屋昌次(昌続)殿などが討ち死にされた。下級・中級指揮官の戦死者も夥しいものになっておるようじゃ。敗戦の原因究明、責任者の処罰も必ずせねばならぬが、焦眉の急は外交じゃ」

どうも、それがしに聞かせたいようじゃな。

「戦力の回復には最低でも数年はかかる。美濃、三河、遠江では、いくつも城をとられるじゃろうて」

長篠の戦の前には、徳川が武田に寝返る心配をしていたのに、なんという有為転変。

「われらが第一にすべきことは北条との同盟を強化することじゃ。わしは駿河・遠江を北条に割譲してもよいとさえ思っておる」

関東以外に野心がない北条が火中の栗を拾うとも思えぬが。


「それに謙信公とも同盟せねばならぬと思っておるのじゃ」

一同が兼続に注目する。仕方ないな。

「それがしは御中城様(といっても分からぬか)景勝公の小姓に過ぎぬものでございますゆえに、御実城様もとい謙信公の御心のうちを忖度して何かを申し述べる立場ではございませぬ。今から申すことは、あくまでそれがしの一存でございまする」

厳重に予防線を引いてから

「現在、上杉は徳川と同盟関係にあり、それゆえ徳川と同盟関係にある織田とも間接的に同盟関係であるといえまする」

武田に対抗するための同盟で、長篠以降は必要性が薄れるとは言えぬな。

「しかし将軍から織田討伐の御内書が発せられれば、謙信公は躊躇なく兵を挙げられると確信を持って申し上げることができます」

御実城様はそういうお方じゃから。

「その時は、武田とも、ゆるく共同作戦することになるのでは、ありますまいか」

ここで一拍おいて、みなの顔を見回して

「将軍は京に戻る日を心待ちにされており、織田討伐の御内書が発せられる日も遠くないのではございませぬか」


我が意を得たかのように勢い込んで話しだす高坂弾正。

「上田原の戦の時とは状況が違う。村上は北信の一領主に過ぎなかったが、今の相手は織田天下政権じゃ。武田、上杉、北条が連携して当たらねば、各個撃破されるだけじゃ。謙信公が北陸を南下される時、武田も岐阜城を衝く。その時、はじめて長篠の復讐ができるというものじゃ」


「それから、もうひとつ。申し述べたきことがございます。謙信公には、もうひとり養子にされておられる三郎殿がおります。三郎殿は北条氏康公の実子であり北条を後ろ盾にされるお方。さすれば、われら景勝公側近は武田に昵懇願いたいと考えております」

後年、上杉景勝に「万事隙無き男」といわれる兼続、抜かりなく布石をうつ。


日が暮れた、兼続と波里が寝所に案内される。

「与六様、今夜も可愛がってくださいますよね」

黙るのじゃ。状況がわかっておらぬのか。一応、敵のただなかにいるのだぞ。

「そっ、そなたは男の小者に化けておるのじゃろ。男じゃろ」

「またまた、そんなこと言っちゃって。うちの体が好きなくせに」

「まてまてまて。まて。落ちくのじゃ。まて」

あっという間に全裸になった波里。はやっ、と思う間もなく飛びついてくる。

晒で隠されていた大きな乳房が揺れている。足をかけられ臥所に押し倒される。

「嫌よ嫌よも好きのうち」

小声で歌いながら、丸く大きなお尻で兼続の顔を圧迫する。

「ほら、やっぱり。与六様、素直になりなされ」

大きくなってしまった兼続の陰茎を咥えこむ波里。舌が陰茎を包み込む。

く、苦しい。窒息する。ああ、また暴発してしまった。

腹立ったわ。男をなめるな。泣かしてやる。後悔させてやる。

「早く早く、来て来て」


 兼続主従が乳繰り合っている同時刻。

高坂弾正と武藤昌幸が、まだ話し込んでいる。

「ご子息は長篠城の抑えとして有海村で待機しておるところ、酒井忠次率いる徳川の別動隊に強襲され討ち死にされたようでございます」

「調べてくれたのか。有難い。戦場で死ぬのは武人の本懐じゃ。残されたものが悲しんでばかりいたら成仏できまいて」

自分に言い聞かせるように言う高坂弾正。首を垂れる武藤昌幸。

「兄たちの最期はよくわかりませぬ。真田隊は全滅したようです」

「今度の敗戦は、信じられないほどの大敗じゃな。侍大将がこれほど戦死した戦は、わしも初めてじゃ」

高坂弾正殿が経験した負け戦は上田原の戦いと砥石崩れくらいじゃろうからな。

「わしが一番心配しておることは常勝武田の信念が揺らいだことじゃ。これまでは、どんなに難しい戦でも本陣を信じて粘って戦っておれば勝てた。これからは、そうはいかんじゃろうな。また負けるのではないかという兵どもの怯えを払拭することはできないじゃろう。もう武田は信長に単独で対抗することはできなくなった」

「遠江で、後退持久戦をして戦力回復の時間を作らねばなりませぬな」

「あとは、わしが言うのも変な話じゃが、上杉謙信頼みじゃ。あのお方の義侠心と伝統や権威に対する尊崇心におすがりするしかない」


「それにしても、あの樋口とか申す男。大変な男ですな」

「あれほどの切れ者。そうそうお目にかかることはできまいて。どうも、わしと話をしたいがために、わざと捕まったようじゃな」

「宿敵である武田に捕まれば、殺されるとは思わなかったのじゃろうか」

「いや長篠の大敗で、武田には上杉と戦う能力も意志もなくなった。信長に対抗するため、むしろ上杉と連携したいと考えるじゃろう。自分に危害を加えるようなことはあるまいと瞬時に見切ったようじゃな。縛り上げられて、わしの前に連行されてきたが、あきれるほど堂々としておったわ」

「なんと」

「姿かたちの美しい若者じゃから、どうしても軽く見られがちじゃが、あれは伏龍鳳雛の類の男じゃ。上杉を背負う人物になるじゃろう」

高坂殿も美男子じゃったから軽視されたのですねと心の中で思う武藤昌幸である。

「若いのに、武田と上杉が同盟を結ぶ難しさも分っておるようじゃったな。われらは何十年も殺し合ってきた宿敵、一直線に同盟交渉など始めたら反発が大きすぎて頓挫するのは目に見えておる。ゆるい共同作戦という提案は妥当な線じゃと思うぞ」

兼続に対する激賞が止まらない高坂弾正。

「それで武藤殿に頼みたいことがある。本来であれば、土屋惣藏殿あたりが同格の相手となるのじゃろうが、とても真面目一方の土屋殿が相手できるような男ではない。

当面わしが通信の相手をつとめるつもりじゃが、そなたも、あの男のことは心に留めておいてもらいたい」


「どうだ、参ったか」

「はいはい、参りました」

兼続の腕枕に頭を載せた波里。汗びっしょりの全裸のまま会話している。

「うち、今日一日、男の小者に化けたときの名前を考えていました」

「なんて名前にしたのじゃ」

「さんしち。漢字で書くと三と七です」

「あれ信長公の息子に、そんな名前いたような気がするぞ」

「いいの。そんな偉い人、会うことないから間違えることないでしょ」

「なぜ、その名前にしたのじゃ」

「なみりのなみは七と三でしょ。それを逆にしたの。男だから三七」

なるほど。

「わかった、さんしち」

「はい、ご主人様。ふふっ」

ごろんと回って、兼続の上に体を重ねる波里。心臓の音を聞いている。

「今日のうち、いい子にしてたでしょ。縄で縛り上げられても抵抗もせずに」

「そうじゃったな。悪かったのう。怖かったじゃろう。痛かったじゃろう」

「ううん、与六様のこと信じてたから、大丈夫」

「よく堪えてくれたのう。がんばった。いい子じゃったな」

「じゃあ、御褒美にもう一回」

「もう無理じゃ。打ち止めじゃ」

「またまた、そんなこと言っちゃって」

刹那の間に、丸く大きなお尻が兼続の顔を圧迫する。ぐいぐい押しつけてくる。

く、苦しい。いや、何か間違ってない。犬の交尾を参考にしてる?

「ほうら、やっぱり。与六様、正直になりなされ」


数日後。

「ま、まぶしい」なぜか太陽が黄色く見える兼続。何をしてたのでしょうか?

華やかに飾り立てた軍勢が甲府に向けて出発する。

「樋口殿、武田は北信に大軍を駐留させておくことができなくなった。見ての通りじゃ。謙信公によしなに、お伝えくだされ」

今後一切、敵対行動はとらないということを言いたいのじゃな。了解した。

「よいお返事ができるように、それがしも努力いたします」

 兼続の言葉を聞いた高坂弾正は破顔し、美しい甲冑を着ている勝頼を庇護するかのように馬を並べて出発した。


「心なしか、風林火山も寂しげじゃな」

傍らで見送る武藤昌幸が呟く。

「樋口殿、そなたはわしが送って行こう」

武藤昌幸は指揮官を失った西上野衆を率いて帰郷することになっていた。

「曽根殿、後は頼み入る」

後始末を曽根昌世に任せて、武藤昌幸も出発する。兼続主従も同行する。

武藤昌幸の率いる敗残兵は一千余。

足を引きずっている者や荷車に載せられて運ばれている者もいる。

「動かせないほど傷が重いものは置いていくほかないが、動かせるものは一日も早く故郷に帰してやりたい。やっぱり家がいちばんじゃからな」

「のんびり行きましょうぞ」

話しながら歩いていくことになった。

三七は、と後ろを振り返ると、ぴったり兼続の後をついて来ていた。

兼続の顔を見てにっこり笑う。


「信長は軍を返したようじゃな」

「こたびは信長公にしてやられましたな」

「信長は石山合戦で、雑賀の鉄砲隊に何度も煮え湯を飲まされておるゆえ、それをまねしたんじゃろうな」

武藤昌幸は、はーっと溜息をついた。

「それにしても武田の御家中のみなさまには感心いたしました。得意淡然、失意泰然

というが、これほどの大敗北を喫しているのに、みな泰然としておられるのに驚いております」

「それは買い被りじゃ。高坂殿は御嫡男、土屋殿は兄上を亡くされておる。大事な身内を亡くして、みな動転しておるのじゃ。わしもそうじゃ。それに山県殿や馬場殿は軍神ともいうべきお人じゃった。山県殿が陣頭に立つとみな奮い立った。馬場殿は生涯一度も手傷を負われたことのないお人じゃった。お二人が討ち死にされたことがいまだに信じられないのじゃ」

衝撃が大きすぎて、まだ消化できてないということか。そりゃそうなるだろうね。


「わしの二人の兄も討ち死にされた。二人とも将来を嘱望されるほどに武勇に優れておったのに。右翼の先鋒の馬場殿の後の第二陣の部隊を率いておったのじゃが後退する途中で討ち死にしたようじゃな。ところが最期の様子が全く分からないのじゃ。家臣までもみな討ち死にしておるようなのじゃ。ずっと探しておるのじゃが、知った顔に一人も行き当たらぬ」

「負傷兵は別の場所、例えば高遠城などに後送されたのやもしれませぬぞ」

「そうやも知れぬ。いや、そうあってほしいものじゃ」


「ところで曽根昌世殿のお身内はご無事じゃったのですか」

「とおの昔に亡くなっておるでな。曽根殿の嫡男は義信公の乳母子じゃったゆえ、義信公の事件に連座して粛清されておる」

なんと、みな心に悲哀を抱えていたのじゃな。生きていくことは辛きことじゃ。


「わしの初陣は第四次川中島の戦いじゃ。信玄公の旗本として本陣に詰めておった。高坂弾正殿率いる軍勢が妻女山を攻撃すれば、上杉勢は八幡原に後退してくるはず。そこに本陣勢が待ちかまえ、追撃してくる高坂勢とともに包囲殲滅する作戦じゃった。ところが謙信公は、武田の作戦を見破っており、われらの裏をかいて本陣に攻め込んできた」

武藤昌幸が急に話し出した意図は、さっぱり分らんが、面白い、勉強になるわ。

「朝靄が晴れたら、眼前に上杉の大軍が布陣していたのじゃから驚いたぞ。信玄公は落ち着き払って“妻女山攻撃隊が戻ってくるまでの辛抱じゃ、陣を固めよ”と使い番を各隊に走らせたのじゃが、血気に逸った義信公が、上杉の巧妙な駆け引きに釣り出されて、陣形が崩れそうになった」

敵である武田側から聞く軍談も興趣があるのう。

「大変な激戦となった。義信公を助けようとした典厩信繁様が討ち死にし両角豊後守殿も討ち死にした。他の部隊も上杉の鋭鋒を受け止めきれず陣形を乱していた。本陣にも斬り込まれた。無傷だったのは飯富(山県)昌景殿の部隊と穴山様の後備だけとなり、背後の千曲川に押し込められて、ついに全滅かと覚悟したときに、ようやく妻女山攻撃隊が戻ってきて、形勢が逆転した」

残念じゃ。無念じゃ。

「上杉勢は総崩れとなり戦死者は三千を超えた。そして川中島からの奥四郡は武田領になった」

ええと、それがしの忍耐力を試しているのじゃろうか。怒らせたいのか。

「しかし、われらに勝利の喜びはなかった。本陣勢の戦死者は四千を超え、なにより典厩信繁様が討ち死にされておったからな。首のない信繁様の亡骸が本陣に運び込まれたとき、信玄公は取りすがって号泣された。わしは七歳から仕えておったが、平生沈着冷静な信玄公が、あそこまで取り乱したのを見たのは最初で最後じゃったな。それゆえか長い間記憶に残っておった。今回、二人の兄を亡くして初めて、あの時の信玄公のお気持ちがわかったような気がする」

今回、敵前逃亡した武田信豊は信繁殿の不肖の息子じゃな。


「典厩信繁様の討ち死には、武田にとって痛恨の出来事じゃった。もし信繁様が生きておられれば義信公も自殺に追い込まれることはなかったじゃろう。きっと信玄公と義信公の対立も収めてくださったはずじゃ」

今川義元が横死した後の駿河進攻をめぐる意見の対立が原因じゃと聞いておるが。


「義信公が生きておられれば、勝頼公も典厩信繁様のような立場で一門衆の勇将として活躍しておられたじゃろうな。そのほうが幸せじゃったかもしれぬ」

武藤昌幸、長篠敗戦の原因を探求しておるのじゃろうが根本を遡りすぎじゃない?

それに一応は敵である、それがしに主君を悪しざまに言うのは問題じゃないかな。

「(武田の棟梁として)任にあらずということか」

「庶腹の四男じゃから、後継者としての教育をされておらんでな」

ふうむ。こやつは頭が切れすぎる、同僚にも疎まれておると見た。

「長篠敗戦の根本原因は、勝頼公の性格にある。なにも聊爾(りょうじ・軽率という意味)とか言っておるのではない。一生懸命なのじゃ。一生懸命すぎるのじゃ。信玄公が生きておられれば、山県殿も馬場殿も、遠慮なく信玄公をやりこめて撤退させたじゃろう。しかし、勝頼公に対しては遠慮があった。信玄公の跡継ぎとして努力されておられる勝頼公がいじらしく思えて、強いことが言えなかったのじゃな」

なるほど。

「もっとも信玄公なら、家臣に言われるまでもなく撤退しておったじゃろうな。信玄公は、危ない橋は決して渡らないお人じゃから」

第四次川中島の戦いで懲りたんじゃろうな。人は学んで成長していくのじゃ。


「信玄公が生きておられれば今ごろ、信長なんぞ、とっくの昔に討ち果たし、京の都に風林火山が翻っておったわ」

過去に遡りあらゆる方向から愚痴る武藤昌幸。こいつ、わりと面白い。

「信玄公は、どのようなお方じゃったのか」

「わしは七歳の時に人質として甲府に送られた。武田が村上義清を追い払ってくれたので旧領を回復することができた。わが父、真田幸隆が忠誠の証として送ったのじゃ

ところが新参の他国者の人質に過ぎないわしに信玄公は目をかけてくださった。奥近習に抜擢され、信玄公の身辺のお世話をすることとなった」

ふうむ。

「曽根殿や、長篠で討ち死にされた土屋昌次(昌続)殿が同僚じゃった」

土屋惣藏殿の兄上じゃな。

「信玄公は、一言でいえば、ものぐさなお方じゃったな。雪隠に書物を持ち込んで一日中過ごすようなお方じゃった」

「それは安全確保のためじゃろ」

「それもあるじゃろうが、ともかく何もかも面倒くさがりの億劫者であられたな」

意外じゃ。

「新羅三郎義光公以来五百年間連綿とその血脈を伝える高貴なお方じゃから、甲斐では神の如く崇拝されておったが、とにかくぐうたらなのじゃ」

側近から見た英雄いない説を立証中なのか?


「しかし、人を使うことは上手かったな。信玄公は、“人は石垣 人は城 人は堀 情は味方 仇は敵なり”と常々仰せじゃった。あるとき、奥近習に家中の者共の評判を収集して報告するように命じられたことがある。その指示は細かいものじゃった。

手柄話に虚実の程度はどれほどか。手柄があっても嘘を常につく人物なのか。身分の高い家臣には慇懃であるが他には素っ気ない態度を取る人物であるか。武具などには凝るが鍛錬は怠る人物か。これだけしか覚えてないが、他にもあった。そして以上のことを念頭において人を観察し一切の長所短所を報告せよ、と仰せになったのじゃ」


確かに、細心で思慮深いお方のようじゃな。しかも、それを奥近習に任せるのは、同時に奥近習を育てる考えもあったんじゃろうね。人を見る目を養えということやね。


宿屋に着いても武藤昌幸の話は止まらない。

晩飯を食べ終わっても、酒を飲みながら話は続く。

武藤の後で、三七が目くばせして終わらせろと命令してくるが止められない。


「自分の欲望の赴くまま、やりたい放題で女にも男にもだらしないお人でもあった。他の男に懸想したことを咎められ高坂殿に謝る手紙を書いたこともあったそうじゃ」

黙ってしまった武藤昌幸、そっと顔を見ると武藤は泣いていた。

「真田の三男であるわしに、武田の一族である武藤の名跡を継がせて下さった。将来、武田の柱石になる男とわしのことを見込んで下さっておったのじゃ。わしのために不動の呪文を百遍唱えてくださったこともある。それなのに、ああー」

仰向けに倒れた武藤昌幸、そのまま寝てしまう。

 武藤もまだ三十前後くらいだと思うが心身ともに疲れ果てておるのじゃろう。そっとしておいてやろう。それにしても信玄公は家臣に慕われ愛されておったようじゃな

 

 静かに部屋の襖を閉めた兼続、三七の魔の手が背後から迫って来ていることに気がついていない。

「うぐぐっ」

「与六様、待ちくたびれましたよ」

耳元で囁く。なんで主人の口を手で塞ぐのじゃ。

「しっ。隣で武藤殿が寝ておられます」

「わかっておるわい。今日は、それがしも疲れておるのじゃ」

「またまた」

「本当じゃ」

「うちを可愛がらないと眠れないくせに」

「ほんとに、本当じゃ。信じてくれ」

「ほんとうかな」

兼続を立たせたまま、波里の手が兼続の陰茎を触る、舌が兼続の尻をなめる。

「じゃあ今日のうちは三七のまま、与六様は衆道の方も好きそうじゃし」

いや、まてまて、まてい、どうするのじゃ。怖い、怖い、怖い。

「うぎゃー」

「しっ。お静かに」

「何で、そんなものまで持っておるのじゃ」

「女を誑かすためでございますよ。動きますよ」

「ああん」

変な声が出てしまった。


「ま、まぶしい」今日も太陽が黄色く見える。

房事過多、このままでは若死にするやも知れぬ。お尻もひりひりするし。


「樋口殿、そなたは平生米の飯を食べておるのか」

武藤がおかしなことを聞いてくる。

「はい」

お前は蕎麦でも食うておるのか。

「やはりそうか。越後は米どころじゃな。川中島の戦いの時、上杉の小荷駄隊を襲撃して、軍糧を鹵獲したことがあったが、すべて米で幕僚みな驚いておったわ。甲信の民は滅多に米の飯を食うことがない。山が多く、水利が悪く、田畑が少ないからじゃ」

そうなのか。

「甲斐の盆地は笛吹川と釜無川に挟まれ洪水の多いところじゃが、信玄公は堤防を築いて氾濫を食い止めようとされた、結局二〇年かかったな」

「信濃経略の戦と並行して、そんなこともやっておられたのか。金がいくらあっても足りなかったじゃろうな」

「その頃は、鉱山からけっこう金が出ておったゆえ、助かっておったな」

今は出てないようじゃな。


「山国である甲信の貧しさ。これは越後のそなたには、わからぬじゃろうな」

なんじゃ。

「海がないのじゃ。海がないゆえに都との物流の航路に関与できない。自給自足の弱い経済なのじゃ。小さな飢饉でも、すぐに餓死者が発生する。みな飢餓線上に生きておるのじゃ」

ふうむ。

「越後は別世界じゃ。青苧や越後上布など物産に恵まれ、大きな港がいくつもあり、都と繋がっておる。数万の人口を擁する都市もある。銀の産出量も国内屈指じゃろ」

ううむ。

「そもそも謙信公の義などというものは、われらから言わせれば豊かな国に住むものの驕りじゃ。北条、今川と強国に隣接した武田が国を保つためには、甲斐だけでなく信濃がどうしても必要じゃった。それゆえ信玄公は、どんな犠牲を払っても信濃経略を完遂された。しかし謙信公は、どうなのじゃ。領土欲はない、それが謙信の義だというが、そもそも必要ないから領土なぞ、いらんのだろう。領土いらんのに戦う意味も、われらには分からぬ。戦をすれば戦費が嵩み、兵は死に傷つく、戦わせるためには応分の報酬が必要ではないのか、謙信公は褒美に酒一杯や感状を渡しておるようじゃが、それで将兵どもは納得するのか。領土拡大を目的とせぬ戦に、どんな意味があるのじゃ。武田は、そんな戦したこと一度もないぞ」


「ふふっ。そなたは物事が見えすぎる男じゃな。上司にも朋輩にも嫌われておるじゃろう。しかし、なかなか面白いことを言う。これからも昵懇願いたいものじゃ」

歳が倍近い武藤昌幸を軽くいなす兼続。

「いや、わしも、これほど話しやすいお人は初めてじゃ。打てば響きまくるお人じゃな。末永い付き合いをお願いいたす」

なぜか腹黒同士意気投合してしまう兼続と武藤昌幸。

「今度会うときは、真田昌幸になっておる。それまで堅固でな」

「おうよ」














































































































































































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