十五欠片目

 空が溶けて、星も溶けて、夜が明るくなった。

 ――水槽の海を、無数の魚の群れが泳いで、空より深くて蒼い水の中で輝いていた。


 真っ暗だった空が鮮やかに、昼の空へ変わる。

 ――光を反射させた鱗が常に変化して、水に生きながら魚たちが空模様を描く。


 星は流れて、月も漂って、無数の光が虹色の軌道を描いていた。

 その宇宙は遠くまで広がってるのに、手を伸ばせば触れられてしまいそうなほど近い。

 ――小魚たちが移動し、マンタが舞って、水槽の上から差す光が虹の結晶を作る。

 今にも触れられそうな空で泳いでいるのに、再現された小宇宙がガラスの隔たりより遠くにあるように感じさせる。


 希釈された時間がゆったり、ゆらゆらと、揺蕩う。

 ――俺達まで海の中にいるように、思い出と感情が、まぶたの裏で駆け巡る。



 ――これは記憶なのか、夢で見た光景なのか、それは分からない。

 けれどただ一つ、確かなことがあった。


 どんなに辛くても、楽しくても。胸が高鳴っても、締め付けられても。過去を見失っても、見つけても。


 ……俺の胸は、いつまでも温かいままだった。


 ※ ※ ※


 巨大な水槽を前に、俺たちはただその光景を目に焼き付けた。

 水の音が生む静寂は心地が良かった。穏やかで心を引き留めてしまうその音を断つように、実里は声を出す。


「水族館、久しぶりに来たね」


「最後にお前と来たの、幼稚園以来だっけ」


「それぐらいに、なるね」


 ぎこちない会話だった。幼馴染の俺たちが今までしたことのないような、静かで切ない最後の時間。

 できることなら、ここに死ぬまでいたいと思える。だけどそんな未来はない。


 勇気を振り絞って、俺は寝ていた間に見たものを語り始める。


「俺、意識を失ってる間に夢を見たんだ」


「夢?」


「そう、夢だ。俺の記憶を整理するために、脳が作り出した記憶の結晶。そんな夢」


 を再会なんて思っちゃいけない。だからあれは願望が作ったただの夢だ。


「――夢の中で、つばめと会った」


「……そっか」


「夢の中のつばめは、顔が見えなかった。記憶は戻ってたのに、何でって聞いたら……まだ忘れてることがあるから、って」


「忘れてる、こと?」


「そう。俺が忘れてたことは――――あったんだ」


 そして実里も知らなかった、俺しか知らない真実。


「一つ目は、あの日のこと。つばめが言った言葉の、本当の意味」


「本当の意味? なんのこと……」


「思い出したんだよ。つばめとテレビを見てた時の事」



 ――――それは実里がいなかった時のこと。俺とつばめは家でテレビを見てた。


 その番組でやってたのは、デートスポット特集。それでたまたま、隣街にある水族館が映ってた。


『うわぁ~きれい!』


 つばめはすっかり、水族館に興味津々だった。


『ねえカズくん、このってなぁに?』


『はぁっ!? あ、その、デートってのは……』


 説明に困った俺は言ったんだ。


『好きな人と出かけることだよ』


 そしたらあいつ、目を輝かせてさ。


『それじゃあ、つばめはカズくんとミノリちゃんと『でぇと』する!』


『なっ、三人で!? つばめ、あのな。デートってのは……』


『だってつばめ、カズくんとミノリちゃんが一番好きだもん!』


 記憶喪失に関係なく、そんな大事なことを今の今まで、まるっきり忘れてたんだ。



「――――って、つばめが言ってたこと思い出してさ」


「じゃあ、それって……」


「ああ」


 目の前に広がった景色に顔を向け、その答え合わせをする。


「今こうして、つばめの来たがってたところに来てるってこと」


 地平線の先まで続いてた夏の終点は、この海にあったみたいだ。


 ここに辿り着くために、この記憶を思い出すために、十年近く時間がかかってしまった。同時に二人にとってあまりにも多いものを失ってきた。


「つばめっ……」


 涙越しに見た景色の中に、つばめの姿が映っている。

 三人で並ぶ俺たちはあの頃のまま。この水槽が大きな海に見えていた頃で時は止まっていた。


 叶うことはない。有り得たかもしれない例えばの思い出。辿り着けなかった別の過去の妄想に過ぎない。

 ここまで続いた残酷で儚い幼少の夢に、俺は別れを告げる。


 その記憶をすべて抱え、俺は未来に進むために一歩前へ踏み出した。


「そしてもう一つ、一番大切なことを忘れてた」


「……ぇ」


「実里、言ったよな。俺はつばめとの過去と恋心があったから、強くなれたって」


「う、うん」


「あれな、半分しか合ってなかった」


「っ」


「つばめとの記憶を忘れたせいで、つばめの分まで生きようとした俺はいなくなった。つまりそれは、辛い記憶が消えて、実里にしてもらったことも忘れてたってこと」


 どうしようもないよな、俺。記憶喪失ぐらいで、まで忘れるなんてさ。


「実里は、ずっと辛い時も俺の傍にいてくれた。つばめが死んだときも、その辛さで学校に行けなくなった時も、つばめの親父さんに詰められた時も」


 辛い時、死にたくなった時、支えてくれた。

 嬉しい時、笑いたい時、隣で一緒に時間を過ごしてくれた。


「こんなどうしようもない俺を、ずっと大切にしてくれた実里が、つばめの親父さんの葬式の時は絶望した顔してた……昔の俺みたいに」


 ――つばめにしたことを忘れないで、その人生分を背負って、残りの一生を捧げようと決めたんだよ。


「だから今度は、俺が実里を守らなくちゃって思った」


 本当に、俺は馬鹿野郎だ。こんなこと記憶を失ったって、心が覚えたんだから。


「俺を支えてくれた、世界で一番やさしい女の子を、俺が笑わせてやんなくっちゃってな」


「えっ、えぇ……?」


「大変だったんだぜ? 勉強頑張って高校まで同じとこ行ったのに、そっちはそっちで距離作ってるし」


「だって、私は――――」



 言いそびれ続けた言葉を、彼女の前でようやく口にした。


「俺は昔から、お前が好きだった」


 ――これが最後の、俺の夏の忘れ物だ。


 想いを告げるとミノリは泣いていた。涙を堪えようと必死で、溢れる全部の感情を抑えようと、しゃくり上げるように嗚咽した。


「……ダメだよ、ヨルカズ。あたしに、そんな資格は」


「資格がないのは俺も同じだよ」


 今度はその手を離さない。もう一人ぼっちで置き去りにしないと決めたから。


「俺達は二人とも、言葉で人を死なせた。この罪は等分だ。これはもう変えられないし、この先死ぬまでこれは心を蝕み続けると思う」


「ヨルカズは、違う。悪くないよ。でもあたしは、許されないことを――」


「俺は自分だけ許されるなんて思ってないよ。だって命を奪ったことに変わりはないから」


「そんな、ヨルカズはしあわせに――」


「けどもし、この罪を背負っても歩ける道があるなら俺は、ミノリの隣で歩きたい」


 ミノリの手を包んで、これ以上遠くに行かないよう繋いで、俺は片膝をついた。


「俺が罪に押し潰されそうな時、また支えてくれ。ミノリが俺みたいに死にたくなった時、今度は俺に支えさせてくれ」


「……ヨル、カズっ」


「つばめと三人で来たかったここに、また来れるように。つばめが俺の背中を押してくれた恩返しをするために。罰としてお互いを生かし続けるために。いつか――」


 脳裏に浮かんだのは未来の記憶。もしかしたら何千年も先かもしれない、それぐらいいつかの話。


「罪を償って生まれ変わった時、また三人で遊べるように」


 ――水槽の魚が照明の光を反射する。鱗からの光は暗い館内に伸びて、柔らかな白い陽になってミノリを照らした。


 涙を拭ったミノリは鼻を赤くして、小さな女の子みたいに笑ってみせる。


「どうか地獄まで、一緒に来てくれますか?」


 差し出した手に、白くて細い指が添えられる。


 涙に濡れた彼女の手は、まるで太陽みたいに温かった。


「はい……一緒に、行きます」


 心に刻まれた痛みを、その罪をしっかりと胸で受け止めながら、俺たちは泣いて抱き締め合った。



 ――唇が触ることなかった。


 俺たちは罪人だから。あの夏で止まったままの、まだ小さな子どもだから。この口は二人の命を奪ってしまったものだから。

 大人になるまで、それを塞ぐことは許されない。


 だから痛みはジクジクと心を抉った。張り裂けそうなほど、心臓は悲鳴を上げていた。

 耐えがたい罪の苦しみを感じながら、俺はミノリのため、ミノリは俺のために体を引き寄せた。最愛の人の背負ったものが、いつか許されることを祈って。


 お互いの胸の中で、枯れ果てるまで涙を流した。

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