第2話
002
「無理だよぉ! ネイロ! やっぱり、私にはデスクワークなんて向いてないんだよぉ!!」
「大丈夫です、ご主人様。あなたは、今日まで立派に領主をまっとうしてきたじゃないですか」
「やだ! どうせ、私は剣を振るしか能のないゴリラ女なんだ! だから三十二歳にもなって縁談の一つも来ないダメダメ貴族なんだぁ!!」
「よしよし、そんなことないですからね」
言うと、ネイロは私の頭を膝に乗せて頭を撫でてくれる。そんな彼の腰に抱き着き、私は恥も外聞もなく顔を埋めた。
「うぅ……っ。でも、出来ない。今度のは無理だよ。だって、学院で習ってないもん」
「ご主人様は、誰に言われたワケでもなく伝説の剣技を振るっているじゃないですか。そんなあなたなら、この仕事も出来ますよ」
「やだ! じゃあ、ネイロがやればいいでしょ!? どうせ何でも出来るんだからっ!!」
「出来ません。ポートウォールの漁業に関心を持ったウィンデ侯爵殿下が、遥か東海岸から直々に視察に来てくださるというのですから。そのおもてなしはご主人様の仕事ですし、その手紙の返事だってご主人様の仕事です」
「いーやーだっ!」
一年後。
また一つ歳を重ねた私は、もはやネイロがいなければ何一つ出来ない骨抜き女にされていた。騎士としての風格や誇りなど、彼の前では塵のように無意味なモノとなってしまうのだ。
一体、なにが起こったか。
仮にも、騎士としての領民の想いを背負い一人ぼっちで頑張っていたハズの私が、今の情けない姿まで堕落してしまった理由は、これもまた一人の騎士として語る責任があると言わざるを得まい。
きっかけは、三ヶ月前のとある日の夜のことだった。
「……はっ!」
気付くと、私はネイロの腕の中で眠っていた。どうやら、会食の緊張感により精神をすり減らしたせいで、馬車の中で居眠りをしてしまったらしい。彼は騎士である私を姫様を運ぶように両手で抱え、寝室に向かう最中であった。
「飲み過ぎですよ」
「し、仕方ないだろう。船乗りは酒が好きなのだ。遠洋漁業から帰ってきた旅団のキャプテンやそのクルーたちを迎えるのも、私の仕事の一つだからな。……いてて、頭が」
「漁師に酒飲みで勝てるワケがないでしょう。あの人たちは、鍛え方が違うんですよ」
「わ、私は騎士だぞ。軍に所属している時だって、男との飲み比べに負けたことなど無い」
「だから、漁師は特別なんです。分かったら、二度とあの人たちとバトルなんてしないでください」
私をベッドに寝かせると、部屋から出ていったネイロがしばらくしてトレーに水と痛み止めの薬、氷嚢を乗せて再びやってきた。
「服、脱がせますよ」
「あぁ」
「はい、バンザーイ」
「……その、幼児扱いするのはやめてくれ」
いつものメイドたちの手伝いとは違う、まるで父上か存在しない兄のような言い聞かせ方に一抹の恥ずかしさを覚えたが、無駄に膨らんでしまった窮屈な胸の苦しさから開放されるためならば致し方ない。私は、スカーフとコルセットを外しネグリジェを着せるネイロの手際を、ボケた頭と眼で静かに観察した。
「ガーベラお嬢様にも、同じことを?」
「どうでしょう。少なくとも、お嬢様は人前で酔い潰れてしまうほどストレスを感じる環境に生きておりませんでしたよ」
「ならば、なぜこんなにも女の着替えに慣れているのだ」
「執事にも、プライベートというモノがあるのです」
……はっきり言って、彼の優秀さと手慣れた女の扱いに、私はいつの間にか惚れてしまっていたのだと思う。
そして、恋を知らない三十路女の嫉妬の、なんて根深く醜いモノか。相手に思いを馳せるせいで生じる、酔い潰れた頭が覚醒していくような感覚と、この男に愛されるなんてズルいという感情が一挙に押し寄せてきたのだ。
だが、恋だなんて認められるハズがなかった。
私だって、騎士であり貴族なのだ。そんな女が、一人の執事でしかない男に惚れてしまうことなどプライドが許さない。
何より、身分の違いを超えた恋というのは、領民たちの不安を煽るためあってはならない。人を治める人間が、平等を破るなどあってはならない。
伯爵であるこの私が、平民に恋をするなど決してあってはならないのだ。
「どうかなさいましたか? ご主人様」
「いや、なんでもない」
服に首を入れて最初に見えたのは、ネイロのキレの長い目であった。決闘よりも心臓が高鳴るこの感覚は、未だ嘗て味わったことのない高揚だ。少し近づけば、すぐに触れられる。ネイロは首を傾げると、何やら納得がいったように微笑んで私の手を握った。
「わたくしは、ご主人様の下僕です。ご命令とあらば、どんな奉仕でもさせていただきますよ」
……ぱふっ。
「そ、そんな爛れたことを命ずるワケがないだろう! わ、私は騎士だぞ!? 騎士が、身分を振りかざして色欲を満たすなど言語道断だ! 私の騎士道を甘く見るんじゃない!!」
「その割には、随分とおかわいい表情をなされていたように思いますが」
「誂うな! 第一、身分や立場以前にネイロは六つも歳下だろうが!!」
「クスクス。ご主人様は、歳の差を気になさいますか」
「当たり前だ!」
何が当たり前なモノか。
これでは、長く生きているのにも関わらずネイロよりも経験の浅い薄味な人生を歩んできたと自虐しているようなモノではないか。封建社会の至らない点を、まさかこんな形で再確認させられることになるとは。
「ならば、ご主人様。もしも耐えられなくなった時は、遠慮なくお申し付けください。このネイロ、誠心誠意込めてご主人様のご要望に答えさせていただきます」
「ばかっ!」
しかし、耐えられなくなる瞬間というのは思いの外早くやってくる。これはもう、運命の女神が試練を私に与え、心を折るように仕組んだに違いないと思えるほどに大変な出来事の数々が私を襲ったのだ。
この日より、二ヶ月後に起きた巨大モンスターの襲来。私の性格を変えた明確な転機を聞かれれば、あの朝だと言ってしまって差し支えないないことだろう。
「ご主人様。グリフィンの雷により、畑が酷く荒らされました。今期は大部分を輸入に頼るしかないでしょう。ひとまず、芋と小麦の交渉を南のヴァラン子爵に取り付けましたので、明日には出張に出てください」
「ね、ネイロは?」
「わたくしは、クラーケンに荒らされた海の調査を漁業組合と共に行い、今年の漁獲量の予測を立てなければなりません。ことと次第によっては、多くの失業者を生みかねない。ポートウォールの冬は寒いですから、今のうちに対策せねばならないでしょう」
なんとか、ヴァラン子爵と交渉の折り合いを付けてポートウォールに戻った私へ、更に困難が降り注ぐ。
「ご主人様、マモール山にて謎の伝染病が流行しております。どうやら、野生の野ネズミを食べた村人から広がってしまったようです。ひとまず、山を封鎖して野生動物たちの状況を調べておりますが、国境警備とデータセンターに人員を割いているせいで人手が足りません。コストを加味しても傭兵に依頼すべきかと愚考しますが、いかがでしょうか」
「うぅむ、分かった。なんとか安く済むように私が掛け合おう。すぐに、ペリロへ行って腕利きを集めてくる。あそこには、未だに冒険者まがいの仕事をしている達人が揃っているからな」
ペリロからポートウォールへ戻る頃にはすっかり夜更けで、しかしデータセンターにはまだ灯りが灯っている。あの中には、輸出入と漁獲量の予測を立てて今後の領地の動向を必死に考えてくれている民がいる。
彼らが頑張っているのに、私がへこたれているワケにはいかない。明け方には、国境警備の再配置のために憲兵宿舎へ行って会議をせねばならない。シャワーを浴びて書類を確認したら、すぐに出発しなければ。
「ご主人様、誠に申し訳辛いことなのですが」
「今度はなんだ!!」
「先ほど、梟の郵便によりご主人様の叔母であるメリーシープ伯爵夫人がお亡くなりになったとの訃報が入りました」
「ま、マイリ叔母さまが亡くなった、だと?」
「今すぐ、メリーシープ領のハイハットへ向かってください。馬車の手配は済んでおります」
……小さな頃から、私をずっと気にかけてくださったマイリ叔母さまの死は、職務に追われ弱っていた私の心を折るのに充分過ぎる悲劇だった。
「今すぐに行ってください、あとの仕事はこのネイロが命に代えてもこなしてみせます」
「……すまない」
馬車に揺られている間、涙が止まらなかった。
叔母さまの死と、こんなにも大変な状況で仕事が出来ない無力感と、私よりも遥かに忙しいハズのネイロに更なる苦労をかけてしまっている罪悪感とで。もう、一人で立っていられなかったからだ。
「叔母さま……っ」
火葬を見届けてポートウォールに戻ったのは、一週間後の深夜。手に力の入らない状態でようやく執務室の椅子へ座る。デスクには、山積みになった書類の束。データセンターの灯りは未だに消える気配がない。恐らく、ネイロもあそこにいるのだろう。
「ご主人様、お食事はいかがなさいますか?」
メイドのキャサリンが言う。心配そうな彼女に「紅茶を頼む」とだけ伝えて書類の一つを手に取る。これは、何かの資料らしい。どうやら、私が判を押すモノはこの中に一つたりとも存在しないようだった。
「お待たせいたしました」
キャサリンが淹れてくれた甘い紅茶を飲んでも、マイリ叔母さまの安らかな死に顔がチラついて仕事に入る気が起きない。気が付くと涙を流していた私を哀れに思ったのか、キャサリンは礼をすると足早に部屋を出て、あとには廊下を駆けていく足音が響いた。
「……やらなきゃ」
すっかり紅茶か冷めてしまった頃、ようやく警備の再配置図を見つけた。というより、私が目を通すべきモノはサイドボードにまとめてくれていたらしい。あれだけ狂ったように舞い込んでいた仕事を、たった一週間でこんなにコンパクトに纒めてしまうだなんて。やはり、ネイロという男の裁量は人の域を超えているように思えた。
「おかえりなさいませ、ご主人様。お迎えにあがれず、申し訳ございませんでした」
恐らく、キャサリンが呼んできたのだろう。部屋へ入ってきて一礼するなり、ネイロはデスクの上の書類を棚へ戻して整理すると、残った一束を置いてインクとペン、金の承認印を置いた。
「お疲れのところ申し訳ございませんが、これで最後なのでお願いします。後のことはわたくしがやりますから、明日は一日ゆっくりと静養をなさってください」
「……ネイロは?」
「伝染病の特効薬が見つかったので、王都の薬師様をお迎えにあがります。大回転で治療と予防接種を行いますので、一週間後には事態も収束していくでしょう」
「お前は、一体いつ眠っているのだ? せめて、馬車を出させてくれ。本当に倒れてしまう」
「いいえ、そんな資金はございません。それに、早馬で飛ばせば一日で到着します」
「倒れちゃうって言ってるでしょ!?」
立ち上がって胸ぐらを掴むと、ネイロは私の頭を優しく撫でて肩を抑え、深いため息をついてから優しく笑う。
「ご主人様。わたくしは、執事であると同時に義賊なのです。この国の民が苦しむことを思えば、自分の休息など必要ございません」
「そんなのはおかしい! ならば、お前が戦うべきは格差を助長するクー・クリウス帝国ではないか! なぜルールを犯さず労働に従じているのだ! 義賊とは、本来不正に溜め込んだ金を平等に還元する存在ではないのか!?」
「不安定なこの世界、何がキッカケで他国やモンスターたちと争うことになるか分かりません。それに、確かに不正を行う貴族も多数いますが、アクィラ公爵殿下やご主人様のように、本気で領民の生活を思う貴族様もいらっしゃるではありませんか」
そして、彼は私の額にキスをして髪を整えてから私の手をゆっくりと離した。
「人の可能性を諦めるには、まだ早いとわたくしは考えます。それに、わたくしに剣術や魔術の才能は与えられませんでしたが、運がいいことに現代を生き抜く知恵を授かる機会に恵まれました。いつか、人類がみんな強くなる日を夢見て、わたくしは日々を生きているのです」
……私の心に住み着く厄介なプライドが、音もなく消え去ったのはこの時だった。ネイロになら、どれだけみっともなく泣き縋って抱き着いたって、許してくれるだろうと確信してしまったのだ。
「マイリ叔母さまが、死んじゃった……っ」
「えぇ、とても残念なことです」
「叔母さまだけが、幼少の苦しい修行の逃場になってくれたんだ。あの人は、父上のことを決して貶さず、しかし私を甘えさせてくれるこの世界で誰よりも優しい人だった。そんな人が、まだ五十代という若さにも関わらず、なぜ死ななければならなかったんだ」
涙が止まらなかった。ネイロが、一緒に涙を流してくれたからだ。
「どうして、優しい人から死んでいくのだろう。父上も、母上も、私を置いて天国へ行ってしまった。確かに躾は厳しかったが、この国を守るための厳しさだと私は知っていた。二人はどれだけ忙しくとも、一度たりとも私の誕生日を忘れたことなど無かった。必ず祝ってくれて、日々の険しい表情を隠し心から笑ってくれた。言葉にはせずとも、愛してくれていたことは知っていたのに、私は素直になれなかった……っ!」
彼は、ただ優しく頭を撫でてくれている。
「両親の死であんなにも後悔したのに、忙しさでマイリ叔母さまの病気を忘れてまた同じ過ちを犯した。二度と感謝出来ないのに、もう伝えることが出来ないのに、私はまた――」
瞬間、彼は私を少しだけ離して口を塞いだ。一瞬、何で塞がれたのか分からなかったが、その彼の口元を見て自分の身に何が起きたのかをようやく理解した。
「言ったハズです。もしも耐えられなくなった時は、遠慮なく申し付けくださいと。ご主人様は、どうしたいのですか?」
「……素直になりたい。もう二度と、同じ過ちを繰り返したくない。後悔せず、人を笑顔で見送れる人間に私はなりたいのだ」
「ならば、練習してみましょうか。誠心誠意、お手伝いをさせていただきます」
こうして、時は現在にまで巻き戻るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます