第4話

路地裏に身を隠し、弾む息を整えながらルークは空を見上げた。

曇っていて太陽は見えず、正確な時間はわからない。


発しているうちに水たまりを何度か蹴とばし、水を吸った靴は冷たく、重く感じた。

ルークの覚えている限り、さらわれる前の三日間は雨が降っていない。


さらわれたのは夜で、逃げ出した時にはすでに夜は明けていたが、その間に雨が降ったのか。もしくはルークが気絶していた時間は自分で思っているよりも長く、さらわれてから一日以上が経過しているのか。


とにかく、ルークは今自分がやるべきことを冷静に考える。

それは何より、家に無事に帰ることだ。


ルークは自分が前世の記憶を持っていることをこの世界の両親には話していない。

信じてもらえないだろうと思ったし、不用意に明かして変な目で見られることは避けたかった。


ただ、それはこの世界の両親に心を許していないというわけではなく、不必要に心配をかけたくないという思いもあったからだ。


両親は優しく、ルークに愛情を注いでくれている。その愛情を八年間受け続けた結果、実家はルークにとっても心安らぐ場所になっていた。


「皆心配しているかな」


自分がさらわれたことに当然両親は気づいているだろう。心配しているかもしれない。

早く帰りたい。


そんな思いがあった。

これまで、ルークはなぜ自分が前世の記憶を持って生まれた来たのか少なからず考えていた。

しかし、その答えは簡単に見つかるはずもなく漠然としたまま放置されてもいた。


ただ今回ばかりはルークは自分の境遇に感謝することになる。

普通の八歳ならば大人二人にさらわれては、そこから逃げ出すことすら容易ではなかっただろう。

ルークならばここから自力で家に帰ることも不可能ではない。


自分の家の家名は覚えているし、それなりに力のある貴族だということも知っている。

それならば、この町の貴族や町を守る衛兵を見つけて名前を明かし、頼ればいいのだ。


たった二人の誘拐犯に見つかることなく、この町の頼れる大人を見つけるのはそう難しくないとルークは思っていた。



「イルカワナリ?」


町の名前を知るまでは。

その名前は逃げている途中で町に立てられた看板を見つけたことで知ることができた。

それとともに父の言葉を思い出す。


「いいか、ルーク。お前が大人になったとしてもこの町には一人で近づくんじゃないぞ。悪い人がいっぱいいるからな」


自宅の書斎で地図を見ていたところ、部屋に入ってきた父にそう言われたのだ。

ルークにはそんなつもりはなかったが、父親の目にはルークが地図に記された「イルカワナリ」という町に興味を持ったように見えたのだ。


「イルカワナリ」。周辺の町々に住む者は決してここに近寄ろうとはしない。

その理由は単純明快でここが不法地帯であるからだ。


最初は小悪党が数人集まる治安が悪い程度の町でしかなかった。しかし、噂が噂を呼び悪い人のところには悪い人が集まり、気が付いた時には多くの犯罪者が集まる町に変わってしまったのだ。


本来ここを治めるはずの貴族はそのあまりの犯罪率の高さにこの地を事実上投げ出して、近くの別に治める町に逃げてしまった。


そこからさらに治安は悪化し、国も容易に手が出せないような状況に陥ってしまったのが「イルカワナリ」である。


「まじかよ……」


町の名前を知ったルークは愕然として呟く。

さらわれてどこかほかの町に連れてこられたのではないかとは薄々気づいていた。

しかし、「イルカワナリ」はルークが生まれ育った町から少なくとも数十キロ、その間にいくつかの町を経由しなければいけないほどには離れているのだ。


さらに悪いことに、この町には貴族はいない。すでに貴族すら逃げているからだ。そんな町に衛兵だけが残っているはずもなく、ルークが頼れるような大人はこの町にはほとんどいないのである。


町を抜け出し、自力で帰宅しようにも町から町の間には相当な距離がある。子供の足ですぐに踏破できるような距離ではなく、そうなれば当然野宿をする必要も出てくる。

野宿をする準備もその間の食料も、それらを買いそろえるだけの金銭もルークは持っていない。

夜になれば危険な獣も行動をはじめ、子供一人などあっけなく食われてしまうだろう。


町の名前がわかり、一歩進んだかのように見えたルークの逃避行は「不可能」という事実を彼に突きつける形となってしまったのである。


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