7/17 幕間

1.着信

———


 響き渡る呼び出し音。文字通り、泥の様に横たわったまま。竜汰が手探りで、その音源を探し当てる。


『おつかれ、竜汰。今どこ?』


 声の主…倉橋洋一くらはしよういちのハキハキとした声を聞いた途端、竜汰は先日交わした約束に思い至り頭を抱えた。


「うわー、ごめん…未だ家だわ」


『…もしかして寝起き?』


 竜汰にとっては数少ない、付き合いの長い友人である。それでなくてもまごついた声色から、自身の状況を容易く看破された身としては、素直に頭を下げる他もない。


「申し訳ない…寝過ごした…」


『めっずらし。ってか、竜汰が寝坊って初じゃね?なに、具合でも悪くしたん?』


 約束を反故にされ、寝過ごされ。その事に腹を立てるでもなく、どころかこちらの身を慮ってくる友人に。心底からの有り難さと申し訳なさを感じながら。竜汰は漸く上体を起き上がらせる事に成功していた。


「そうっちゃそうなんだけど…ごめん、ちょっと説明し辛いんだけど」


『揉め事?それこそ珍しっ』


「って訳でもないんだけど、そうとも言えるというか…」


 電話越し。一瞬の沈黙を挟んだ後、倉橋が声の調子を一段低くする。


『…ホントに大丈夫か?あれだったら、今からそっち行こうか?』


「……いや、大丈夫。ただ本当に申し訳ないんだけど、今日の予定流しでいいかな。埋め合わせは別日で…その時までにはしゃんと話せる様にしとくから」


 正味な話をするならば。夢幻の類の如き…それもあからさまに悪夢に寄った昨晩の異常事態について、誰かに話を聞いてもらいたいという欲求が竜汰の内にない訳もない。それでも彼が倉橋の提案を断ったのは純然と、自身の身に降りかかった現状を言語化出来る自信がなかったからに他ならない。それ程に。昨晩竜汰が体験した状況は、常軌を逸していた。

 そして、もう一つ。


『ほんとかー?…まぁ、大丈夫ってんならいいんだけど。変な無理とかしないで、なんかあったら言ってくれよー』


「わかったって、ありがと」


 短い通話を終え、再び静寂の只中へ。その渦中で、竜汰は倉橋に対して心底からの有り難さを感じていた。


 伊鎚竜汰は大凡、周囲からその人格を誤解されやすい風体をしていた。その多くの要因は彼自身が進んで選び取ったものであり、それ自体に対しての不平や不満の類を抱いたことはなかった。単なる事実として、彼に寄り付く人間の総数は限られていた。

 故にこそ。そうした前提を乗り越えて交流を続けてくれる数少ない友人たちの存在は、竜汰にとってかけがえの無いものであった。

 理由のもう一つ。結局のところ竜汰は単に、倉橋に不要な心配を掛けたくなかっただけなのだ。


 

と。



「!」



 静寂を切り裂く、再びの電子音。画面に表示されたのは、見知らぬ番号であった。


 一瞬。竜汰が不審に眉を顰める。

 常ならば単なる悪戯か、程度の悪い詐欺か何かと断じるところ。直線的なその思考を妨げたのは、昨晩の一連。


 ——なんでもかんでも関連付けて、紐付けるなんてのはナンセンス…とは思うんだが…——


 呼び出し音は止まない。

 痺れを切らしたか…或いは何某かの直感に従った結果なのか。竜汰は恐る恐る、その通話を取った。


「……どちら様ですか」


 問い掛ける。これに、電話の向こう側の何者かは


『やぁやぁ、また声が聴けて嬉しいよ。昨晩は良く眠れたかな?』



聞き覚えのありすぎる、嘲りの色味を多分に含んだ邪悪な笑い声で応えた。


「———まじか…」


 多くの言葉は出てこない。事ここにいたり、竜汰の混乱は極限に達していた。電話越しの相手は、そんな竜汰の内情を知ってか知らずか。まるで変わらぬ、いっそ清々しいまでに飄々とした声色で言葉を続ける。


『おや、覇気がないね。気分でも優れないのかい?』


「…さっきまではそうでもなかったけど、たった今最悪な気分になったところだよ」


『それは結構』


 ———シャクラ。

 真偽の程は定かでないものの…少なくとも現実とは断絶された只中で、いくつかの言葉を交わした……神を自称する、何者か———


『さて竜汰。紆余曲折ありつつも、君は確かに間違いなく。私の期待通り、最初の夜を踏み越えた訳だ。先ずは率直に、おめでとう』


「…何一つ素直に喜べない話だ事で」


 皮肉にもならない相槌を打つ。これにシャクラは一際愉快そうにクスクスと嗤う。


『まぁそう気を悪くしないでおくれ。君が生き延びて、またこうして言葉を交わせるというのは喜ばしい事なんだよ』


「…まーた含みのある物言いするじゃん」


『ついては、ね。昨晩の約束を違わず、今君が巻き込まれている此度のについて少し詳しく説明をさせて貰おうかと思ってね。ほら、倉橋くんとの予定も流れたところだし、時間もあるだろう?』


「発言がストーカーなのよ。シンプル怖…まぁもうそれはいいや」


 直感として。相手が常識の枠外であることを疑う余白は、既に竜汰にはなかった。それでなくとも昨日の今日。この程度の異常性に一々機微を揺らしている方がよほど精神衛生上良くないと判断し、竜汰は言葉の先を断念した。


 ———。今は余程訊きたい話が山程あるのも確かだ———


「それじゃ有り難く、お聞かせ願いますでしょうか神様」


『おや。折角の談笑を対面せずに済ませるなんて、えらくつれないじゃないか、人間』


 竜汰が再び、眉を顰める。


『君がよく使っている、駅近くの喫茶店で落ち合おう。なに、急かす様なつもりはない。今からしっかり身綺麗に、身支度を整えて…一時間後でいいかな?折角の対面だ、一張羅で来ておくれよ』


「え」


『あぁ、それと——

私のことを、そんなつまらない敬称で呼んでくれるなよ。親しみと愛寵あいちょうの念を込めて、名前で、呼ぶ様に。

では、また後程』


 言うだけ言って切られた通話の、後の静けさ。その只中で。


「え、俺今から神様とお茶しに行くの…?」


山積する問題、考えるべき数多の事柄を眼前に漏れ出た言葉がこんなものだったのだから。随分と締まらない話であった。

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