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竜汰が視線を外す事なく、自らへと向かう直線的な軌道を注視し続けられた理由の半分は、恐怖故。
背後、左右には壁。隔てられた狭い密室の只中で背中を見せ逃げ惑うは、明確な愚策。自らの命を投げ渡すかの如きそんな愚はしかし、恐怖に戸惑う誰しもが軽率に選び取ってしまいがちな失策でもあっただろう。
竜汰がそんな…陥るは容易い負の沼地に落ちる事なく踏みとどまったその理由は、もう半分。極限の恐怖故にこそ引き出された、冷静さであった。
男が斧を振りかぶるより速く、竜汰は立ち上がり、その足先に力を込める。
僥倖だったのは、物理的な負傷を未だ負っていなかった事。
思考、判断を塗り潰すだけの痛みと無縁であったからこその冷静さが、迫り来る脅威から目を逸らす事を断固として拒んでいた。
そして。振り下ろされた狂気に対して前へと踏み込んだその一歩もまた、その冷静さの賜物であった。
恐怖で強張りながら。動揺で硬さを伴った体躯はそれでも、爆ぜる様に前方へと押し進む。竜汰の動き出しは当然、手斧の男にも伝わる。
だが、遅い。
手斧を振りかぶり、対象物目掛けて振り下ろすという…容易く見えながらしかし、習熟を必要とする動作を目論む男。重量物を持たず、動作制限の存在しない竜汰の疾駆の方が、速い。
再び空振った軌跡を背に、竜汰が勝手口へと向かう。初めの一歩…その躍動の推進力を殺す事なく、全速力で。
数メートルもない、僅かばかりの距離。その間合いを瞬く間に潰し、竜汰が扉に手をかける
筈、だった。
ガチャン。
「———は?」
鈍い金属音。足首に纏わりつく拘束感。幻覚ではなく、縫い付ける様に動作を縛るその力に、駆ける挙動は停止を余儀なくされる。
推進力は急停止できない。動作は疾走、阻まれたその体制は安定を欠き、引き戻される形で竜汰の体が背面へと向かって倒れる。
咄嗟に頭を庇おうと体を捻る。既のところで頭部からの墜落は免れるものの、無理に捩った腰元・庇い立てた肩と腕に鈍い痛みが走り、思わず顔を歪める。そんな痛みの中、向けるでもなく向けた視線の先…両の足首を見て、竜汰は目を丸くした。
暗がりの底。鈍く光る鉄枷。固定され、そこから伸びる同色の鎖は手斧の男の足元へ。それは確かに、双方の動作を制限し闘争を阻む楔であった。
加害者が、意識を失ったターゲットを拘束する。物騒極まりない話だが、ただ行動としてはそれほどに脈絡がないわけでもないだろう。故に、竜汰の混乱の原因は自らが捕縛されている事実そのものではなかった。
——どこから湧いてきたんだ、この鎖——
目覚めてから先程までの一連の立ち回り。混乱と動転の最中だったとはいえ、気付かない訳がない。こんな鎖は、絶対になかった。
空想の話でもあるまいに。虚空から突如こんな重量物が降って湧いてたまるものか。そんな竜汰の常識が、異常な現実の前に揺らぐ。
現実。竜汰が何を思おうと、揺るがぬ事実は明白。拘束された現状が重く横たわり、竜汰の呼吸を浅くする。
鎖の長さは大凡1.5メートル程。繋ぎ止められたその距離が、互いの最大の間合い。
——無理だ——
状況は最悪。絶望的という表現すら生温い窮地。こちらは空手。対する相手は適当に斧を振るうだけで良い。闘争は無論、逃走すら叶わない。この状況で、竜汰の胸に去来したのは悲壮感でも恐怖感でもなく。
「——っざけんな」
それは明示された怒気。伊鎚竜汰は、怒っていた。
手斧の男にではなく。
この状況にではなく。
到底覆せぬ風に映る、眼前の現実に。なす術なく飲み込まれんとする、自身の無力に。
訳もわからぬまま無抵抗で蹂躙されるを待つばかりの、己の脆弱に。
死ぬ事、殺される事。
若い身空には到底現実味を欠く、生き物としての根源的な恐怖。そうした感情に真に向き合ったことなどなかった。その無知と、想像力の欠如こそ。この土壇場で竜汰に怒りの発露を選択させた。
訳もわからぬまま。
意味も知らぬまま。
殺されるだなんて当然、真っ平御免だと。
感情で現実は変わらない。厳然と横たわる結末は、本人の裁量を疾く超えている。なればこそ、彼がこの窮地から抜け出す唯一の道は
『いいね、素敵な感情だ。
謝意の証として、少しだけ横槍を入れようか』
外部からの干渉以外にはなかった。
「!!!!」
瞬間。轟音と共に、白い
何処からともなく…それこそ竜汰の足を絡めとる鉄枷に等しく、虚より出し
驚愕は双方等しく。されど。傍観者である竜汰と、打ち貫かれた男。再びの立ち上がりに差が生まれるのは必然であった。
「—っ—っ———!!!」
男がふらふらと悶絶する。
本来ならば間違いなく即死であるだろう雷撃を受けながら絶命に至らぬ辺り、恐らく何かカラクリがあるのだろう。どちらみち、男が次の瞬間には意識を立て直し向かってこないとも限らない。
駆ける。
竜汰は気付いていた。自身の動作を縛る枷が、現れた時と同じ様に、忽然とその姿を消していることに。
詳しい理屈や道理がわかる訳はない。故に、駆ける。この一瞬、瞬きの間に潰えるかもわからぬ間隙を縫って、扉に手を掛ける。
施錠されていなかった扉は、あまりにも呆気なく開け放たれる。
飛び出した先。夜の暗がりの先に広がる景色に、竜汰は既視感を覚えた。
ただし。その感覚と記憶の照合を図る時間も、心的余裕もありはしない。
一目散。
そんな表現こそ相応しい、竜汰は結局一度も振り返ることなく、その場を走り去った。
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