7/16 逃亡戦

1

 伊鎚竜汰は全く、特別な人間などではない。


 本人の自覚としての話と言うだけでなく。恐らくそれは明白な真実に違いがなかった。

 際立った才能に恵まれた訳でもなく。かと言って自身の無能を嘆き、窮状を訴える程に人生に悲観していた訳でもない。

 おしなべて平凡。

 全くもって凡庸。

 その上で、そんな自らに絶望しているでもない。どこにでもいる普通の青年。


 その反動…もしくは反抗と言ってもいいかもしれない——唯一、彼の風体だけは平凡とは些かかけ離れたものだった。


 両のイヤーロブに付けられた、大凡ファッションの延長というには存在感のあり過ぎる、巨大な真紅のフープピアス。

 左胸から肩を通り、肘先まで掘り進められた和彫の刺青。

 肩口まで伸ばされた髪は浅青せんせいに染め上げられており。

 間違いなく。その外観だけは、凡庸な十代のそれとは大きくかけ離れていた。


 とは言え。

 彼のそうした風体の根底に、社会に対しての反抗の意思や、アンダーグラウンドに対する過剰な憧れが根ざしていたのかと言えば、決してそう言う訳でもなく。

 結局。彼の本質はどこまでいっても、ありきたりでありがちな純朴な青年である事に変わりはなかった。




 故に。



「———っ!!!」


 目覚め開かれたその視界に飛び込んできた、狂気。倒れ込んでいたらしい、自らの頭部へと向けて真っ直ぐに振り下ろされるきっさき。起き抜けに命の危機に瀕するなどと言う異常事態を過去経験した事など、ある訳がなかった。


 回避。腰元から体を左手側に大きく捻り、迫り来る刃をすんでの所で避ける。


 思考の余地はない。何某か思い巡らせる余裕などは尚の事。動物的な本能に近い挙動。その回避行動は、ほぼ完全な反射による動作だった。


 打ち砕かんとしていた対象を唐突に見失った刃は押し留められる事なく。一瞬前まで竜汰の頭部があった空間を押しつぶし、そのままの勢いで床を抉る。鈍い金属音と、衝撃に付帯した摩擦による焦げた匂い。不快感を煽るその焦げ臭さが鼻腔に届くよりも早く。回避の動作に付帯していた勢いをそのまま流用して体を転がし、竜汰が膝を突く形で上体を起こす。纏まりを欠いた思考のまま、視線を前方——自らの惨殺を企て、実行したその張本人へと向ける。



 それは、異様な風体であった。


 グレーの無地のTシャツに、サイズ感の合っていないダボついたデニムを履いた、肥満体型の男性姿。街中ですれ違えば気にも留まらない様な、極ありふれたその風体を明確に異様たらしめている要因は二つ。

 一つは顔を隠す為だろう、頭からすっぽりと被さった黒ニット。強盗犯然として、視界を確保する為に両目の位置が不恰好にくり抜かれている。但し口元には一切の加工が施されておらず、その表情はまるで窺い知ることは出来ない。

 もう一つは、もはや言わずもがな。その右手に握られた、手斧。暗がりの只中。不気味に光を映すその刃の鈍い輝きに、竜汰が戦慄する。


 人間の頭骨の詳しい強度など、医学に精通している訳でもない竜汰にとっては全くの未知。それでも尚、断言できる。あんなもの、力任せに振り下ろされれば疑う余地もなく、絶対に死ぬ。


——先ずはこの後。最初の夜を無事生き延びてみせておくれ——


「馬鹿言いやがる——」


 脳裏を掠めたのは今し方。微睡か、或いは単に幻想としか言い表せぬ時間の中で遭遇した、人ならざるものとの会話。

 大凡現実離れしたその言葉の数々はしかし、常の夢などとはまるで違い、この極限状態の渦中において尚鮮明に、鮮烈に。竜汰の記憶に深く刻み込まれ、まるで霞む気配もなかった。

 故にその言葉の破綻は尚一層色濃く。突き付けられた無理難題に、龍汰は目眩で卒倒する寸前の心持ちであった。


 ——さっきの考察は根本的に間違っている。向けられた斧の直撃を回避するだけでは点で足りない。

 これがフィクションのファンタジーか。或いは作り物のドキュメンタリーでない以上。頭以外のどこでも…それがたとえかすり傷であったとしても。一撃でもその斬撃を浴びれば、俺は即行動不能に陥るだろう。生存の絶対条件は無傷——


「——…」


 場を弁えていない、と言えば確かにそれはそうだろう。だが、無自覚に漏れ出したその溜息を咎められる者が、果たしてどれだけいるだろう。


 緊急かつ異様な状況に、狂った様に脈打つ鼓動。口から心臓を吐き出しそうな程の緊張感の中、竜汰は周囲へと視線を流し、今一度自身の置かれている状況を確認する。


 ——ガレージ、か…?——


 不自然なまでに伽藍堂な室内。軽自動車なら二台ほど停められる程度の空間にはしかし、全くと言っていいほど物がなかった。

 天井近くには換気用と思われる窓が設置され、部屋の端にはアルミラックが幾つか設置されている。男の後方…搬入口はシャッターが降り、出入りは閉ざされている。そこは正しく、密室と呼んで差し支え無い環境であった。


 ——とは言え。こんだけ立派なガレージの出入口が正面シャッターだけって事もないだろう。人の出入り専用の扉がどこかに…——


 視線の中央に異様な姿を捉えたまま、注意深く室内を見回す。

 ……竜汰の読みは正しかった。シャッターの脇に扉が一つ。ガレージ利用者の為の通用口が存在していた。


——シャッターはサイズ感的にもほぼ確定で電動式。スイッチ押下から俺の体を滑り込ませられるだけのスペースが開くまで無傷で逃げ切れるかは…微妙だよな。そもそも光源が少なすぎて電源スイッチの場所がわからん。

 と、来ればやっぱ要はあそこの扉。内側からなら施錠の心配もないだろう…——


 逃走経路の確認。速やかに思考を回す竜汰の内心が落ち着き払ったものであったかと言えば、実際のところは全くそんな訳もなく。本来いの一番に選択肢として挙がるべき対話や命乞いの類へと動作が向かわなかった理由も、その実の動揺による部分が大きかった。

 ただ。その選択肢を初めから除外しての思考というのは実際のところ、賢明という他なかった。

 荒く、浅く。肩で息をする手斧の男は、どう見ても正常な精神状態ではなかった。そもそも、竜汰の目覚めがあと一秒遅ければ既に事態は最悪の形で終結していた事に間違いはなく。そんな人物を相手取っての説得行動が実を結ぶとは到底思えなかった。


 ゆらり


 手斧の男が顔を上げる。繰り抜かれた闇の底、鈍く光る双眸。竜汰は、見た。


 血走り。興奮し。動転し。狂気を孕んだ、その瞳を。


 刹那。

 男が再び天高く手斧を振り上げる。

 周辺周囲への一瞥もなく、竜汰の頭部目掛けて凶刃を振り下ろす。

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