キュウテンシャクラ

nanana

導入

 目覚めると、そこは暗黒だった。


 闇が深い、なんて言葉があるけれど。現代日本で普通に暮らしていて、そんな比喩が相応しいほどの暗澹に出くわす事などそうありはしない。

 人造の光は蟻の巣の様に張り巡らされ。夜の帳が下りるよりも早く、人工の光源は際限なく街々を照らす。深淵などある訳もなく。宵闇の暗さはまるっきり、生半な代物でしかなかった。


 だから。眼前広がる、まるで底の見えない常闇に対して。胸中を掠めた感情は原初的な恐怖ではなく、畏敬に近しいものだった。同時に、広がる景色…身を置くこの今が現実でない事を確信する。こんなにも幻想的な暗がりが、夢幻の類でない訳がない、と。



『その決め付けは些か早計だろうよ』



 ——目を、見開く。無論、眼前広がるは無間の漆黒。そんな挙動に実利的な意味の一切はなく、代謝による反射でしかない代物ではあったのだが。

 暗幕の水底に響き渡る、凛とした声。自身の体すら見えぬ虚無の空間に色めき立つその音に、無駄とわかりつつも周囲を見渡す。


『こっちだよ、こっち』


 再び響く明瞭な声。不思議と、今一度耳へ届いたそれには明確な指向性が付帯していた。先程までは含まれなかったその要素に、視線を向ける。声の主は、眼前に立っていた。


『どうだろう。私の姿がしゃんと見えるかい?』


 ——立っていた、というのは表現として不適当だった。何故なら眼前の空間などは、途切れる事なく視界の内に収めていたのだから。その姿は突如。前触れなく。脈絡もなく、忽然と現れたのだ。


『おや、反応が薄いね。おーい、聞こえているなら返事くらいしておくれよ』


 ——声の主は、女性。

 厳冬に吹き荒ぶ雪嵐を彷彿とさせる白銀の長髪。

 深く、宝石を思わせる程に奥行きを伴いながら…怖気を掻き立てる怪しさを孕んだ、京藤の瞳。

 整った目鼻立ちも相まって。それは到底、大凡この世のものとは思えない圧巻の美貌だった。


「……なん、でしょうか」


 だが。女性の持つ美しさは、手放しで愛でられるを待つばかりの可憐な花々などとは明らかに一線を画していた。


 身に纏うのは純白のローブ。

 現代日本ではとんと見ないであろう奇抜な服装も。女性自身が内包する外観的な美貌も。そのいずれもが彼女の本質を指し示すには至らない事を直観する。


 浮かべられるのは無感情な微笑み。

 一切の機微を感じさせないその無機的な表情に、今一度戦慄する。


 これは確信だ。

 

 理由も理屈もあったものではない、なんの根拠もありはしないその直感を、疑う気には更々ならなかった。


『——へぇ』


 女性が…最早この表現が正しいかすら不明瞭ではあるのだが…僅かばかり感心の色味を以て口角を上げる。

 邪悪。

 その笑みはやはり、そんな比喩こそ相応しいほどの剣呑さを多分に含んでいた。


『随分と落ち着いてるね。発狂錯乱とまでいかずとも、もう少し動揺するものだと思ったのだけれど。存外肝が据わっているね』


「……ここ十数年の中でも随一動揺しているんだけど」


『おや、それは結構。とは言え惜しいね。本音を言えばもう少し分かりやすく、君の慌てふためくご尊顔を拝みたかったところだ』


 取り止めのない戯言にはしかし、明確な返答が得られた。これが夢想か、はたまた空想か。推し量る術も持ち得ないまま、それでも一先ず、疑念の言葉を口にする。


「えぇー、っと……ここは何処で、どちら様でしょうか」


 女性がほくそ笑む。そこに含まれる真意は皆目見当もつかないが、どう転んでも碌なものではない事を受け取る側に確信させる…そんな不誠実の具現の様な笑みだった。


『いいね、素敵な反応だ。

私は【シャクラ】。ここは——そうだね。言い表すなら、彼岸と常世の境といったところかな』


「彼岸…って…え、もしかして」


『おめでとう。君はめでたくその生涯を完遂したという訳だ』


 驚愕よりも、愕然よりも。勝った感情は——奇妙な納得だった。

 自分が死んだ、なんていう本来到底受け入れ難い話は、けれど。取り巻く異様な現状と、その只中で悠然と立ちはだかる異質な姿の前に、自分でも拍子抜けしてしまうほどの説得力を有していた。


「えぇー…マジかよ…死んでるのか、これって」


 人格も、記憶も。おしなべてその一切は地続きでこの身の内にある。見える景色こそ異様ではあるものの…極端な言い方になるが、明確な異常というのはそれだけだった。対外的な要素を含めないのならば、自身の身には一片の異変もありはしない。故に、死の実感などどこにもありはしなかった。

 だからこそ。自身を支配する感情に、恐れや慄きは含まれない。ただ、あまりに突然に突き付けられた〝事実〟に、ただ茫然とする他なかったのだ。

 女性…シャクラと名乗った彼女が、クスクスとおかしそうに嗤う。


『全く君は、学びが足りない人だね。さっき言ったばかりだろう?早計だって』


 言葉に含みを感じ、視線を再びシャクラへと戻す。文脈を額面通り受け取るならば、それはつまり——


『君は未だ死んではいない。最もそれも今時点に限り…この暗澹の只中においてのみ、という限られた状況の下ではあるけれどね』


 それが果たして希望と呼べる類の何かなのか。それとも、人外からの邪な甘言なのか。これについてもやはり、推し量る術はこの身にない。なれば、最早直接問うしかない。


「……詳しくお伺いしても良いですか?」


『勿論』


シャクラがにこりと笑う。軽い。


『結論を先ず言えば、君は被害者なんだ。ちょっとした揉め事のね。とは言え、この結論を正しく理解してもらうためにはある程度順を追って説明を聞いてもらう必要がある。よろしいかな?』


 他に選択肢などない。小さく頷いてみせると、シャクラは満足気にもう一度小さく笑い、話を続ける。


『先ず、私は君たちと同じ〝人間〟ではない。表現は時代時代で様々だけど…ニュアンスとして一番しっくり来るのは〝神様〟になるのかな』


「…これはまたご大層な方が今際の際に」


『これが存外そうでもない。君たちから見た私たちは確かに、ある側面に於いては超然の存在だろう。けれど実際、神なんていうのは大したものではなくてね。人の叡智の極みになどは到底及ばないというのが本当のところさ』


「それはまた光栄な事で。随分人間を高く見積もった神様もいたもんだ」


『その通り。君たち人間こそ、はやり常世の支配者たるべきだと本心から思っているよ。本当さ、


「とんだマッチポンプだなー…と言うか随分含みを持った言い回しだけど、それって要はそう思ってない神様方も大勢いらっしゃるってことでは?」


 皮肉めいた言葉に隠蔽された真意。実際のところ、正味隠す気なんて大してないのだろう。

 〝神様〟と呼ばれる連中の規模…総数はまるで想像もつかないが。言い回しの様子から、一定数シャクラとは別の神様が存在する事は疑いようもない。


『その通り。と言うより、大多数の同胞はそっちよりの思想だね。超然の権化たる自身らこそ絶対。人間などと言う知恵を持っただけの獣なぞはとるにも足らない、とね』


「物騒な批判だ事。こわっ」


『あぁ、確かに恐ろしい話だ。さて、ここで一つ質問をしてもいいかな。

〝神様〟と〝人間〟。君がつい今し方まで生きていた常世、世界を支配すべきは、ほら。果たしてどちらだと思う?君の意見が聞きたいね』


「えぇー…」


 話が極端すぎる。今日日世界の支配者なんて発想、絶対に流行らない。

 そもそも神様と人間を分断してどちらかが一方的に優れている劣っているなどと論じる事こそ意味不明だ。そんな二元論から一体何が得られると言うのか。

 それに。この質問には根本的に大きな欠陥がある。


「あなた方がホントの神様だったとして、でもやっぱその質問は難しいって。俺はあなた方神様がどんな存在なのか知らないし、尚且つ自身が人間だ。どうしたって人寄りの回答になっちゃうから…意見を求められても困るってのが本音だ」


『面白い見解だね。無条件で人を選び取らない理由は一般論起因かい?それとも君の矜持故かな?』


「そんな大それた話じゃないって。何某かの決定権があるでもなし、そんなに気負って答えやしないよ。ただ、あなたは俺の意見が聞きたいと言った。だから正直に〝判断できない〟って答えただけだよ。そもそもあなた神様だろ?俺なんかから明確な答えが得られると考えてなんかないんじゃないか?」


『それは自分を低く見積もりすぎだよ。少なくとも、君が思うよりもずっと君を買っているのさ』


「初対面で恐れ多い事で…」


 思わずごちる。ただ、そんな俺の様子よりも。シャクラの関心は先程の俺の言葉それ自体に向けられていた。


『しかし確かに、君の言葉はまさしくその通りだ。優劣の判定なぞ、双方への正しい理解が無ければ出来ようもない。選定王もまた同じ様に考えたのだろうね』


「いきなり知らん名詞を出してこないでくれ。混乱する」


『さておき』


無視された。マジかよこいつ。


『君が巻き込まれたのは正しくなんだよ。相互理解と優劣の選定の為の戦。神代の超然と、叡智を極めた現代の人類。どちらが最期、生きて彼の地に君臨するかを見定める為の聖戦なのさ』


 がばっと。シャクラが大層大仰な手振りと共に声を挙げる。されど、その声色にはやはり何の熱量もなく。側から聞いていても、まったく虚しく響くばかりの荒唐無稽であった。


「…盛り上がっているところ申し訳ないのだけれど、結局それ、俺の生き死にとイマイチ関係ない様な気がするのだけど」


『何を何を。関係なんて大有りさ。君はこれから、


「……と、申されますと」


『君には私の内に宿る超然…その因子を授けよう。現代文明の武力とは比較にもならない脆弱な異能ではあるだろうが、常に生きる人間とは明確に一線を隠す超常の力。その火種を君に託す』


「いや、託されましても」


『君はその力を使って、これから始まる聖戦を生き延びるために全力を尽くすんだ。しくじれば、勿論再び舞い戻る先はこの暗澹の水底だよ』


「ちょっと待ってくれ」


『先ずはこの後。最初の夜を無事生き延びてみせておくれ。さすればその後、君が求める疑念の答えを、今よりもう少しばかり提示してあげよう』


「え、マジで話聞かないじゃん。なにこの人」


『さぁ。夜も良い頃合いだ。存分にその命、奮い立たせてみせておくれ』


 刹那。黒く深い闇が、白色の光で塗りつぶされる。光の根源などは到底見当も付かず、あまりの眩しさに腕を翳し目を細める。

 その渦中。光の只中で尚一層不気味に輝く双眸が、確かにこちらをしかと見据えるのを見た。



『夜が明ける頃、話の続きをしよう。兎にも角にも先ず、今目の前の窮地を打倒せねばだしね。なに、的確な助言を適宜授けるし、安心して挑みかかりたまえ。



——期待しているよ、伊鎚竜汰いづちりゅうた




 景色は、そこで途絶えた。

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