第34話 礼美に始末を
礼美でなくとも、私服警官と一般人の区別が素人につくわけがない。彼女は警官と明確に述べた。つまり、養殖場に現れたのは制服警官だ。地元の警察署が寄こした人手だろう。
矢磯を職務質問するときも、彼女一人だった。捕り物にも混じってないということは、孤立している……やはり本庁のエリート刑事で、だからこそ意図的に加えられないようにされているのかもしれない。
楽観はできない。くだんの警官が、自力でここを突きとめる結果も否定できない。
のんきに眠る大間の横顔を、矢磯はちらっと横目で眺めた。すぐに視線をフロントガラスにうつした。必要がないなら、十秒と視界にいれたくない。
大間への個人的な報復は、諦めねばならない。矢磯自身の負傷もある。それ以上に、当人が逮捕されたときに不審な怪我があると、警察の関心が自分にむいてしまう。
ありのままのなりゆきを語らせ、記録するということで妥協するしかない。死刑になるまで、傍聴席にでもかよってやろうかとも思った。時間がかかりすぎるのでやめておく。
死刑にかかわるノンフィクション文学や、人権団体の啓発動画などによれば、『その日』は突然やってくる。前日までに告知すると、自殺する危険性があるからだ。それはそれで、死刑囚は怯えに怯えて拘置所で日々をすごす。冤罪や量刑不当な事例は、矢磯とて肯定するつもりはない。だが、大間ならそんな心配も不要だ。むしろ、じっくりと恐怖を味わってほしい。
目下のところ、最優先の課題はゴミ処分とデータ転送だ。特に、前者は神経を使う。大間が眠っているいまこそといいたいが、礼美はまだ完全な味方と断定できない。矢磯に調子をあわせているだけかも知れない。
目を覚ませば、大間は腹を減らしてチョコレートを食べるだろう。ゴミをゴミ袋にいれて、満杯になったから捨ててくると提案する。どうせ監視はするだろうが、ゴミ袋の中身にまでは察しがつかない。ゴミを捨てた場所を頭に叩きこんで、事情が落ちついてから本当に処分する。つまりは一時的に隠す。
この方法の注意点は、隠した場所によっては警察に探しだされてしまうことだ。また、ゴミ袋そのものを回収するのもかえってよくない。手紙や写真だけを抽出せねばならない。むろん、だらだら時間をかけてもいけない。
逆に、ゴミ袋を隠す場所に電波が届くようなら、データ送信は心配しなくていい。
やるならもっと標高をあげたところがいいだろう。こうした地点で電波が届かないのは、木や稜線に邪魔されているのが主な原因になりやすい。ならば、いっそ手近な頂上へいけば確実だ。大間や礼美は、単純に山奥だから電波が切れているくらいにしか考えてないだろう。その思いこみに賭ける。よくしたもので、そういう場所は……車でいけるならとくに……ゴミを捨てる連中があとを絶たない。だから、心理的にここで捨ててもたいしたことはないと判断しやすくなる。
ただ、警察を呼ぶのは危険だ。呼べたとしても、やってくるまで時間がかかりすぎる。
これから夜明けになる。次の日没までに、この隠れ家が警察に発見されるかどうかは運次第。もし発見されたら、大間は矢磯を人質にして悪あがきするだろう。反射的に、礼美はさっさと投降するのが目に浮かぶ。礼美の脱落に衝撃を受けた大間が、やけくそになって矢磯を殺すか、気力を失って自分も投降するかはなんともいえない。どちらにせよ車は根掘り葉掘り調べられ、手紙や写真は矢磯が持ち帰ったとバレてしまう。
変なところで、不本意ながら、わずかなあいだ矢磯と大間達の利害は一致する。いびつで薄っぺらな一致にすぎないが。
奏太の両親……巨安の両親……奏太……赤楠。頭の中で、様々な顔が湧いては消えた。
それらの顔の中に、自分も加わるのだろうか。まさか、願いさげだ。
矢磯は、我知らず左肘を右手でなでていた。腫れた部分が鈍く痛み、ぶよぶよした感触が気持ち悪い。よく考えると、背中の傷からでたのもあわせて、ちょっとした献血くらいな量の血をこの三日間で失っている。
『疲れたので、ちょっと休みます』
『はい、お休みなさい』
大間のように椅子は倒せない。すぐうしろに礼美がいる。それでも、窓ガラスにもたれるようにしてとにかく目を閉じた。
目をさますと、二人の姿はなかった。ずっとトンネルの中なので陽射しの強さがわからず、スマホで時刻を理解した。午前九時一五分。不自然な姿勢で寝たので、傷のせいもあり、あちこちがうずく。
ぎこちなく手足をのばしつつ、改めて車内を見わたした。いないものはいない。
まさかと思い、ゴミ袋から手紙や写真の欠片をだした。ざっと噛みあわせたら、不足はない。
警察の気配はまったくない。かすかにカラスの鳴き声がするくらいだ。
鍵は大間が持っていったきりだから、どのみち遠くにはいけない。歩いて山を降りていけば、保護はされるが大間を自力で詰ませるチャンスは失われる。
どのみち、保護はいつでも求められる。それより、手紙と写真を隠せるかもしれない。
矢磯はゴミ袋をフックから外し、できるだけ空気をぬいてからきつく口を縛った。手で丸めてズボンの尻ポケットに押しこんでおく。
大間は車の鍵にこだわったくせに、胸ポケットのスマホには手をつけてなかった。どうせ使えないという先入観もあったのだろう。正直、こちらを取りあげられたら下山一択になっていたところだ。
そこまで準備を整えてから、大間達を探しにいくべきか思案した。ペットボトルの茶入り水は、量がかなり減っている。チョコレートも。つまり、二人はある程度動きまわれるエネルギーを補充している。
飲まず食わずの矢磯が、追いつけるか。なんともいえない。どこかでいきちがいになることも、充分ありえた。
ここでひたすら待つのも、堅実ではある。じつのところ、せめて椅子を倒してじっくり寝たい。しかし、起きたら猛烈に喉が乾くだろう。谷川の水を飲めばよくはあるが、ぎりぎりまでその線は控えたい。
そういえば、大間はどうして矢磯を殺さずに礼美と車をあとにしたのか。矢磯の死体をここに捨てて、車を奪って逃走のほうが、むしろ彼らしい。
警察がきたなら、すでにこの車は見つかっている。ならば、ある意味で二人を自由に探せるということでもある。
ここで回避したいのは、二人とのいきちがい。遅れて車にもどった矢磯が、大間にあらぬ疑いをかけられあえなく刺殺……という展開。これだけはでくわしたくない。
自分の体力と相談しながら、少しずつ大きな円を描いていくように範囲を広げていく。限界がきたらしかたない、車で休む。あと一つ、『ゴミ』を隠せるなら隠す。これも、せっかくの外出なのでなしとげたい。
結論がでて、矢磯は車をでた。とたんに涼しくさっぱりした空気を吸った。たいして長くもないトンネルなので、常に風が抜けている。反対に、いかに車内が淀んでいたかを思い知らされた。
新鮮な空気で肺を満たしただけでも、多少なりと活力が湧いてきた。まずは夕べの谷川からだ。いくら大間と礼美が馬鹿でも、ふもと側の出入口からうろつくほどではないだろう。警察はその方向からくるのだから。
あいかわらず、山は静かだった。朝の明るさに照らされると、錆びたレールや枕木を覆う雑草もまたオブジェのように思えてくる。
谷川までは簡単だった。夜明け前でも往復できたのだから。それでも二人は見つからず、何の気なしに下流を眺めた。
流れをまたぐ橋のうえに線路がある。そこはさっきとおった。橋のしたには、うつぶせになった女性がいた。左半身を谷の水に浸しており、左手足が流れに応じてぶらぶら揺れている。右側はぴくりともしない。水辺といい、橋桁といい、点々と血が散っていた。服装と髪型からして、礼美なのは一目瞭然だった。
三日前の矢磯なら、なにはさておき脈の一つでもとってから顔をたしかめたろう。廃倉庫の一件で、彼は学んだ。礼美は死んだのだ。たとえ生きていたとしても、死ぬまでほんのわずかな時間しかない。電波がこないし公衆電話もないから、救急車も呼べない。
呼べたとして、そうするかどうか。
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