第35話 死者の告げ口

 はなはだ邪悪な疑問だった。矢磯からすれば、大間の口から語られる事実さえ入手すればいい。彼女からとりだせる情報はもう尽きている。礼美が、法廷で矢磯を面倒ごとに巻きこむ証言をするのは、なんら否定できない。大間だけが残ったら、彼が矢磯を共犯や事後従犯に引きずりこもうとしても、幼稚な責任転嫁ですまされる。なにしろ、彼は自分の弁護につながるはずの人間を、すべて殺してしまったのだから。

 なら、見殺しか。矢磯が黙っていればすむことだ。大間の真意を獲得するしないを除くなら、当面、彼は『安全』となる。だが、矢磯に少しは残された良識、人間性。これらは著しく傷つけられる。自分は完全な裏社会の人間ではないというのが、矢磯なりの方便であり仁義だった。都合の悪い部分は無視して生きるという選択も、あるにはある。大間のように。

 それもこれも、礼美が生きていて、かつ治療に結びつく手段があればの話になる。そのためには、まず彼女の安否をはっきりさせねばならない。足跡がついたり、彼女の血が自分の衣服についたりしたらおしまいだ。

 谷川に踏みいり、川から彼女の具合を見るという手段はあった。それなら足跡はつかない。血も気にしなくていい。矢磯のすねからしたはずぶ濡れだが。

 そこまでして、貴重な時間を費やすのか。彼女が生きていたら、応急手当てでも試みるのか。結局は血がつく。具合を見るなどと、いかにも人道的なことをするようでいて、彼女に死んでいて欲しいと思っているだけだろう。

 頭上で、またカラスが鳴いた。矢磯は谷川に一歩をつけた。

 結論として、礼美は死んでいた。谷川の中、脛どころか太ももまで水につかって、脈をとった。念のために、彼女の顎を丁寧に手であげて、当人だとも確かめた。

 さらさらと流れる谷川の水は、身を切るほど冷たい。しかし、幸運な冷たさでもあった。死体にそんな感覚などありはしないのだから。

 矢磯は、礼美にむかって、自然に両手をあわせて頭をさげた。生きていたときは、世間知らずな無能者くらいにしか思っていなかった。死んでようやく、なにも死ぬほどではなかったのにという気持ちが生まれた。

 ややあって、矢磯は谷川をさかのぼった。最初に足を踏みいれたところまでもどってから岸にあがり、ふたたび大間を探しはじめた。

 死体の周囲からして、大間が礼美を包丁で刺したという以外に考えようがない。大間は、礼美を四六時中こきおろしていた。ということは、こきおろす相手として有用なわけだ。つまり、その限りにおいて殺す必要はない。反面、用ずみになったからといって、あそこで殺すのはどう捉えても賢明ではない。

 大間が損得勘定を度外視するほどの事態。矢磯が推測するに、一つしかない。

 礼美は、大間を問いつめようとした。矢磯からの情報を元に。大間は、礼美まで裏切っていたことを認めるしかなかった。認めたが最後、唯一の味方までいなくなる。たどりついた結論は口封じ。

 もしそうなら、赤楠に続き、矢磯が間接的に死をもたらしたのは二件目となる。それら自体には、彼はさほど良心を痛めなかった。あくまで本人の自由意志だ。死んで当然だなどと思っているのではない。生き延びたいなら、必要な情報を適切に判断せねばならない。大間がまっとうな人間の真反対であることは、二人とも徹底的に理解できたはず。極端なことをいうなら、こうなるまでに第三者に相談してもよかった。つけ加えるなら、矢磯は両者いずれの最期にもいあわせていない。

 死そのものには礼を尽くすが、死因や死んだ当人には必ずしもそうではない、というのが矢磯の基準だった。

 頭を切りかえねばならない。そして思いだした。スマホの動画モードをいれっぱなしだった。さすがに、時間がたちすぎているから、途中で切れてしまっただろう。

 念のために再生してみた。

『そりゃ勝手だが、狸寝いりして裏をかこうなんて思うなよ。礼美はこれでも声がでかいからな』

『ああ、肝に銘じるよ』

『ふん』

 大間との、いまのところ最後のやりとりだ。

 そこからは、大間の断続的ないびきがえんえんと発しては消えた。指で適当に飛ばしながら耳にしたものの、ほとんど変化はない。

『こーちゃん、もうおしまいだよね。楽しかったけど、あなたが裏切ったんだから』

 礼美の声だ。大間は一貫して白河夜船なのが、いびきでわかる。

 そこで、録音は切れた。奇しくも、記録に残る礼美の最後の肉声となった。

 ため息をつきたくなるのを我慢し、矢磯は改めて動画機能をつけた。いつ大間にでくわすかわからないので、つけっぱなしにしておくしかない。

 スマホを胸ポケットにしまったとたん、様々な事態が同時に起きた。

 銃声がして、仰天しながら振りむくと、包丁を持ったまま棒だちになった大間がいた。二人から数十メートルほどしたの道路に、矢磯を職務質問した警官の女性が、ピストルをかまえてたっている。そして、カラスの群れが喚きながら上空を飛びさった。

「包丁を捨てて両手をあげろ!」

 警官は、叫びながらじりじり斜面を登ってきた。ピストルの狙点は、しっかりと大間にむけられている。しかし、したからうえへと撃つのは一番当たりにくい角度だ。距離も開きすぎている。

「さ、さい! さいだな!」

「関係ない。お前は犯罪者で、私は警官だ。さっさと降りてこい」

 職務質問のときは、うっとおしくてたまらなかった。それがいま、なんとも頼もしい。

「さいなら、俺の事情もわかるだろ!? こいつはピンピンしてるんだし、見逃せよ!」

「黙れ!」

 警官の一喝で、大間は口を閉じた。

 矢磯は、場ちがいにも絵馬の一枚にあったイニシャルを思いだした。ST。『さい』ならSは噛みあう。

 などとのんびり思いかえしていい状況ではなかった。大間は矢磯の背後に回り、自分の左手で彼の左手首を握った。右手の包丁が、喉に軽く当てられる。

「こいつを人質にとった! そっちこそ、銃をこっちに投げてよこせ!」

「ふざけるな! よけいに罪が重くなるぞ!」

 大間を牽制しつつ、警官はさらに詰めよった。

「おっとそこまでだ! こうしてやる!」

 大間は自分の右手首をくいっとひねり、矢磯の下顎をかすかに切った。ぷつぷつと血が吹きでて、喉を濡らしていく。皮膚が破れた程度だが、次は本気で喉をかき切ってもおかしくない。

「それ以上人質を傷つけたら、ただではおかないぞ!」

「へっ、やれるものならやってみろ!」

 警官は、矢磯と大間に、あと十メートルというところまで迫っている。

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