第30話 内緒話をするならいま
消毒してない水ではあるが、汚染源になるような家屋や工場はない。唯一、動物の糞尿からなる寄生虫や感染症の危険性はある。沸かせば安全になるが、道具は一つもない。
生水でも、飲んで平気な場所はある。地域によっては、こうした谷川の水を無消毒で飲むこともふつうにあるし、矢磯もそれくらいは知っていた。
ここの水が大丈夫かどうかは運次第である。
矢磯は、腹を括っていた。こいつらが腹を壊そうが脳に寄生虫が巣くおうが、知ったことではない。とにかく、必要な情報を手に生還する。そのためには、一日くらい飲まず食わずでいても耐えるしかない。
「まずペットボトルの
愚にもつかないことに、大間はこだわった。
「わかった」
川岸で、矢磯はペットボトルの蓋を開けた。暗くても手探りでどうにかなりそうなので、スマホはズボンの前ポケットにいれた。かがんでペットボトルを満たし、蓋を閉めながらたちあがった。
ふたたびスマホのライトをつけても、大間はなにもいわなかった。矢磯も期待していない。
「礼美、見張りご苦労。一口飲めよ」
帰ってくるなり大間は、矢磯が持つペットボトルをあごでしゃくった。
「ありがとう」
礼美は矢磯からペットボトルを返され、蓋を開けて一口飲んだ。
「味はどうだ?」
大間はにこにこ笑いながら質問した。
「おいしいよ」
谷川の水と残り物の茶が混じりあった代物なのだが。
「そうかそうか。じゃ、そのまま持っていてくれ」
はたで眺めていた矢磯からすれば、ていのいい毒味だった。礼美が気づいているかどうかは知らない。
「もう引きあげていいか?」
矢磯でなくとも、ここで時間を浪費するのは馬鹿げている。
「ああ」
大間がうなずき、矢磯はきた道を率先して帰った。
トンネルに至り、車にはいってから、一同は各自の座席のうえでぐったりした。こればかりは、誰だろうと関係ない。
「おい、車の鍵をよこせ」
ここでは逆らえない。背に腹はかえられなかった。
「よし。礼美、俺の包丁を預けとく。俺は寝るから、こいつを見張ってろ」
車の鍵を失ってから、矢磯がスマホのライトを切ると、待っていたといわんばかりに大間は命じた。
「はい」
「どうせ俺も寝るよ」
「そりゃ勝手だが、狸寝いりして裏をかこうなんて思うなよ。礼美はこれでも声がでかいからな」
電話からは想像もつかない。
「ああ、肝に銘じるよ」
「ふん」
大間は礼美に包丁を持たせてから座席をいっぱいまで倒し、足をダッシュボードに乗せた。礼美は運転席のうしろにいるので、矢磯は座席を倒したくとも倒せない。どのみちすぐ寝るつもりもない。
数分とたたず、大間はいびきをかきはじめた。礼美の真意を知る好機。
矢磯は、大間の眠り具合を簡単には信用しなかった。それこそ狸寝いりかもしれない。したくもない賭けだが、あと五分は待ちたい。
人は、カップラーメンを三分待つのもじりじりする。カップラーメンなら、待てばラーメンという報酬が生じる。矢磯の忍耐は、成果になるかどうかはっきりしないという意味でカップラーメンにも劣る危険があった。
スマホの画面をずっと睨み、一分二分と無言の行を伸ばしていくのは、まさに苦行である。大間は、いやがらせのようにいびきをますます強くしはじめた。
とにもかくにも、五分たった。すぐにでも礼美に話しかけたい。その前に、ここのところ大事な儀式を忘れていた。猫波アプリは、電波に関係ない。
起動させる寸前に、はっと気づいた。大間を起こすほどではなく、礼美が感づくほどには高い音量で流すのが肝要。
すぐに実行すると、大間のいびきに猫の鳴き声とさざ波の音が混ぜこぜになった。情緒もクソもないが、やむをえない。
バックミラーを見やると、礼美は困惑しながら心持ち上半身を前のめりにさせていた。一度湧いた好奇心は簡単には消えない。そこに隙ができる。
矢磯はアプリを切り、メールの文書作成画面をだした。じっさいに言葉を口にしながら会話すると、つい声の抑制が利かなくなる。大間が目を覚ましたら、元も子もない。
『ずいぶんと大間さんに辛くあたられているようですが、大丈夫ですか? 会話はこのスマホで筆談すればかまいません』
そう入力してスマホを貸した。
『ありがとうございます。大丈夫ですから』
『彼がジェントルローズの売り上げを着服して、赤楠さんを殺したのは事実ですか?』
『はい』
『あなたも事後従犯になりかねませんが、いいんですか?』
大間の犯罪そのものにはかかわらずとも、犯行のあとで犯人……つまり大間……の利益となるような行為をしていれば立派に有罪である。むろん、ここでいう利益とは逃亡の手助けや証拠の
『それは、よくないですけど、いざとなったら彼が全部罪を負うからって』
典型的な詐欺師の逃げ口上だ。本当にそうなら、とうに自首している。
もっとも、礼美は礼美で、いざ法廷にたたされたらあることないことぶちまけるだろう。彼女は唯々諾々と大間の命令に服しているが、検察官は二人に巣くう共依存や支配願望を嬉々として指摘するにきまっている。『洗脳』が解けたら、反動はちょっとやそっとではすまない。ましてや自分の有罪無罪がかかっている。つまるところ、泥試合。類は友を呼ぶとはまさにこのことだ。
『婚約者だと聞きましたが、それは事実なんですか?』
『はい』
『失礼ですが、あなたはお父さんとはうまくいってなかったんでしょう?』
『父は関係ないです』
『お母さんは?』
『私が小さいときに亡くなりました』
『それは失礼しました。なら、十数年ほど父子家庭だったわけですね』
『あんなの家庭じゃないです』
『家庭じゃない?』
『お
読んでいるだけでおぞましい。しかも、まだ終わらない。
『旦那は俺が選んでやる、というのが父の最近の口癖でした。ちょっとでも逆らうと、怒鳴ったり暴れたり。俺は指一本触れてない、だから虐待じゃないともいってました』
悪い意味で、昭和のオヤジそのものだ。なるほど、だから礼美はちゃんとした人格的成長をとげられなかったのか。電話でのあの口ぶりもうなずける。
『そのくせ、私が失敗したりとまどったりすることがあったら、お前はどんくさいからいつもこうだと馬鹿にするんです』
矢磯だったらとっくに手がでている。少なくとも礼美の辛抱は称賛に値した。
『それでも、父が建設業をやっているときは多少ましでした。私は父の会社で事務員として働いていて、かわいがってくださる社員さんもいました』
『ああ、転業で困った人が何人かでたんですよね』
反射的に、矢磯は地野の息子を思いだした。
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