第27話 本音の機微

 どうにか冷静さを保てたのは、皮肉にも赤楠のおかげだった。矢磯は彼女を利用した。弁明するつもりはない。ただし、不必要に危害を加えられていいとまでは思っていなかった。どのみちすぐに警官が養殖場に雪崩れこんで、犯人逮捕と踏んでいたからだ。

 赤楠の死は、間接的に矢磯も一因を負っている。事実から顔をそむけないことが、大間に対する最大の武器であり盾であった。

「どうにかしよう。車に湿布があるから、背中に貼ってくれないか? 運転中に失神したらみんな台なしだ」

 背中の血が止まったのかどうか、自分ではわからない。さりとてなにもしないわけにはいかない。

「まあ、それくらいは認めてやる。いっとくが、作業は俺の連れにやらせるからな」

「なんだっていいよ。鍵はかかってないから、まず手当てをしてくれ。湿布は後部座席にある」

「いいだろう。なら、ここで止まれ」

 車をすぐ前にして、矢磯は背後の男とともに止まった。すると、もう一人の足音が脇をぬけて車の後部ドアを開けた。赤楠とはまた異なる意味で地味な事務服だ。とはいえ、うしろ姿から女性なのは察しがついた。湿布を手にしてこちらをむいたら、やはり女性だった。矢磯とほぼ同年代で、どこか記憶にある……和辻だ。死んだ和辻の面影を残している。

 彼女は矢磯のうしろに回った。

「上着とシャツの裾をあげてください」

 はじめて聞く声ではない。社長令嬢そのものだ。服装も化粧も、令嬢という言葉からは想像もつかないほど、貧相の数歩手前くらいな質素さを現している。もっとも、こんななりゆきで華やかな美しさを全身から放っていたら、病的におかしくはあるのだが。

 ここでどうこうつきつめられる筋ではない。口をつぐんだまま指示を実行した。三十秒ほどして、傷口にひやりとする粘着がついた。これで、わずかながらもましにはなる。

「もういいよな? おい、先に乗れ。お前は運転席のうしろだ」

 大間は社長令嬢に命令した。彼女はすぐに従った。

「次はお前だ。運転席につけ」

 社長令嬢が車内、それもすぐ背後にいる。たいした筋力ではないが、矢磯の行動を邪魔するくらいはできるだろう。つまり、いいなりになるしかない。

 最後に、大間が助手席に座った。矢磯はエンジンをかけた。

 じつのところ、アテなどあろうはずもない。相手が勝手に期待しているからいいものの、時間稼ぎにも限度がある。

 黒銀町の地図は、ネット検索のおりに何度も眺めた。あれだけの捕物を試みたというのに、追加のパトカーは一台もない。町外へ至る道はことごとこく検問するだろうが、逆にいえば、町内は一種の真空状態にやや近い。銃を所持した凶悪犯なら全力も投入するだろうが、まだ大間にかかっている容疑は結婚詐欺と横領……いわば知能犯だ。人手も重要だが、それ以上に、犯人に先手を打てるかどうかこそが問われる。

 養殖場には、特別な抜け穴があるとしか思えなかった。さもなくば、こんなにあっさりと大間らの逃亡は成功しない。

 抜け穴。かつて、黒銀町は林業が盛んだった。道路の両脇を延々と挟みつづける植林が、その名残りだ。

 切った木は市場まで運ばねばならない。トラックなりダンプなりを使うのは、現代の感覚だ。

 この手の植林は、昭和の中盤くらいまで、伐採した木材の搬送に森林鉄道がよく使われた。自動車の隆盛により役目を終えたが、道路と無関係な、森林鉄道のためのトンネルがそこかしこにあるはずだ。

 おぼろげながら、町の観光名所案内で森林鉄道跡地があったと記憶している。目的からずれているので無視したが、こうなるとすがりつきたい。

 まだ山道はとぎれてないが、たまたま交差点にでくわした。左右を確認するふりをして、横目で大間を観察した。

 幼少期から中学時代までの写真は記憶に新しいし、両親の顔も知っている。知識と現実がピタリ噛みあうのはいいとして。彼が最初に和辻を殺し、矢磯をだましたことをどう問いつめていくか。

 どこまでも皮肉なのは、裏切った元顧客に落とし前をつけるはずが、とうの張本人に脅されて、逃亡の手助けをさせられていることだ。

 先方は、矢磯を新聞記者と思いこんでいる。逃がし屋と知ったら、もっと厳しく協力を求めてくるだろう。なにしろその道のプロなわけだから。

 プロといえば、大間はもはや犯罪のプロですらない。赤楠を殺した時点で、結婚詐欺師として四流以下に落ちた。鳥居に絵馬まで自作して奉納した、純粋でいじらしいひたむきさは、とうに消えさっている。

 大間は、自分の膝のうえに包丁を乗せていた。切っ先から根元まで、べっとりと血がついている。矢磯のものだろうが、赤楠のそれも混じっているだろう。ズボンにも血が染みているはずだ。

 無言無表情な大間の様子は、昭和時代のロボットさながらだった。現代の人工知能にはるかおよばない、きめられたプログラムに沿ってきまりきった作業だけを果たす、電卓の延長線。大間はただ、警察から逃げきることしか頭にない。彼のような立場になったら、誰でもそうなる。ただし、親と夜逃げしようが親が自殺しようが、まっとうに生きている人間はゴマンといる。逃がし屋をやっていて、そうした人々の存在に触れるのはとても重要な収穫だと気づかされた。

 大間は、矢磯が手を貸した顧客のたどる『もう一つの運命』であり影法師でもある。これまでは、ルールを守ってきたとはいえ、基本的には金のためだった。これからもそうだといえばそうだ。しかし、大間のような人間が増えていくと、矢磯はいつか自分で自分の首をしめるだろう。

 山道のでこぼこにタイヤが落ちこんでからすぐに離脱し、車体がガタンと上下に揺れた。衝撃というほど大げさではないが、はずみでバックミラーに映った社長令嬢の顔が見えた。

 大間のいいなりになっている彼女は、少なくとも赤楠が殺されたことに抗議も反論もしていない。脅されているのではなく、自発的に協力しているのは明らかだ。でなければ、矢磯が刺されたとき、警官に助けを求めにいっただろう。学習性無気力とやらなのか、善悪はともかく愛情のゆえなのかは、まだはっきりしない。

 一ついえるのは、彼女は大間の養殖場での行為を証言できるほとんど唯一の人間ということだ。赤楠の死にも動揺した素振りはないが、この一連よりずっと前から、自分の殻に閉じこもりがちな生活だったのかもしれない。控えめに表現しても、電話対応は下手クソだった。

 赤楠も、ある程度までは彼女と似た部分を備えていた。となれば、大間は、自分がコントロールしやすい女性を選んで操ることにだけは長けている。

 大間と社長令嬢の考察はいくら深めても問題ない。だが、矢磯は、意地でも自分から喋ってはいけなかった。こういうとき、もっとも精神の弱い者がベラベラやりだす。三者三様で根くらべをしているようなものだった。

 

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