第26話 捕虜の運命
養殖場まであと五百メートルというところで、状況の一端が矢磯にもわかった。路上に、三角コーンや、透明なビニールカバーつきの細い非常線が散乱している。パトカーの姿はない。
矢磯は、車を後退させた。この手の山道は、大型車同士がすれちがったりするときに備えて、要所要所に待避スペースがある。そこへ駐車した。捜査妨害とみなされても、車できたよりは徒歩のほうが悪質性を低く見積もってもらえる。それに、車だといざというとき脱出しにくくなることもある。徒歩ならたいていの地形に侵入できる。
車をでて、鍵はポケットにしまったものの施錠はしなかった。一応、鍵に備えついたスイッチで自動的に施錠も解除もできるが、その一瞬が命とりになるかもしれない。それに、こんな夜ふけの山道で、パトカーのサイレンまで鳴ったのに車上荒らしなどくるはずがない。その点、さっき職務質問を受けたのも逆によかった。こんなときに、警察が同じ車を調べなおすようなことはまずしない。
矢磯は、道路を外れて斜面をあがった。木に隠れてすすむと同時に、やろうと思えば一気に駆けおりて場内へ乱入できる。むろん、間近な高い位置から現状を把握するのが先だ。
矢磯は、ここでも走りたいのを我慢せねばならなかった。転んだら道路まで転げ落ちる。そうでなくとも枝や根を踏みつけて音をたててしまう。養殖場までの距離が詰まるほどに、回転灯をつけたままのパトカーが、二台も路上に駐車しているのが見えた。パトカーに挟まれた姿で、平凡な軽四もある。非常線を乗りこえたのはそれだろう。ますます焦りたくなるが、平常心で忍の一文字である。
十数分かけて、ついにここぞという場所についた。十名前後の警官が、懐中電灯を片手に養殖場の中をあちこち探し回っている。首にロープのついたエビスを手で揺すっている者もいた。
これはもう、電話どころの騒ぎではない。手遅れか。大間が養殖場のどこに隠れていようと、時間の問題だ。
背後で、がさっと音がした。殺気という言葉を、矢磯は生まれてはじめて素で感じとった。ろくに解釈する暇もなく、背中に鋭い痛みが弾けた。
「大声をだすな。殺すぞ」
うしろから、耳元にささやく声がした。若い男性としかわからない。ほぼ同時に、喉元を相手の腕で軽く絞められ、右耳のうしろにちくちくする感触がつきつけられる。
「お前、私服警官か? 新聞記者か?」
「し、新聞記者だ」
かろうじて、矢磯はふだんの偽名と偽職業を思いだした。
「なら、ふつうの車できてるはずだよな」
ここでいうふつうとは、警察車輌の類でないという意味である。
「そうだ」
「お前の背中を刺したから、逃げようったってそうはいかないぞ。車まで案内しろ」
なるほど、背中は痛くてしかたない。だが、血を吐いたり腹がむかむかしたりはしない。背筋をちょっと傷つけたくらいか。それでも、左肘は治りきってないし、相手は刃物を持っている。走って逃げても出血がひどくなって気絶するか、ひどいと死ぬ。その前に、もっと深く刺されるだろうが。
「わかった。歩きにくいからちょっと離れてくれ」
「いいだろう。逃げようとしたら容赦しないぞ。あと、道路にはでるなよ」
喉は解放された。しかし、刃物の切っ先がちくちく背中をつついている。
男が大間であるのは、およそ的を射ているだろう。ここで問いかけられるようなことではないが、それはまだいい。足音は、矢磯と彼を刺した男の分だけではない。もう一人あった。正体がはっきりしないと、はっきりした段取りがたてられない。
傷口からの出血は、かかとから靴の中へと流れついていた。山肌の斜面であるから土や砂利も侵入してくる。一歩ごとに足がぐちゃついて、不快な思いをせねばならなかった。
「おいっ、まだか」
「ちょっと遠くに置いてきた」
「はやくしろ」
勝手な理屈をならべる男を、矢磯は殴りとばしたくてしかたない。かりに車へいきついたとして、用ずみになった矢磯がとどめを刺される可能性はなんら否定できない。
「あれだよ、見えるだろ」
月明かりに照らされた矢磯の車は、なにごともなかったかのように持ち主を待っている。
「鍵をよこせ」
「俺を生かして運転手にしたら、逃げやすくなるぞ」
まんざらでたらめでもない。極端な話、男と正体不明の二人は後部座席に座り、上半身を伏せておけばいい。夜中ならまず大丈夫だ。むろん、いくら小細工したところで、警察が改めて検問を敷いていたら町外への脱出は無理だ。しかし、町内で新たな隠れ家を探すには役だつだろう。
「いらん。さっさと鍵をだせ」
「あんた、大間巨安だろ」
「知らん」
否定に先だち、数秒の沈黙があった。そうする内にも、車には次第に近づいてきた。
「ホストクラブのジェントルローズで、売上を着服したそうだが、俺ならどうにかできる。だから、車の運転は俺にやらせろ」
「どうにかなるもんか。だいいち、お前になにができる」
もはや、自分が巨安だと認めたに等しい。結局は、浅はかな保身が第一になる人間のようだ。
「ジェントルローズの店長が、脱税した金を溜めこんでいたっていう筋書きを作る。あんたは正義感にかられて、金をじかに税務署に納付するべく手をだしたという理屈だ」
「へえそうかい。でもな、俺はもう、人を殺したんだ」
「なに……」
「人がせっかく静かにほとぼりを冷ましていたのに、いきなりやってきてイキり散らした馬鹿がいたんでな。グサッとやってやったよ」
パトカーに追われていた車の持ち主だろう。
「その人物……赤楠って女性か?」
「どうして知ってる」
「俺は新聞記者だからな」
流れるように説明しつつ、矢磯は己の策が荒削りすぎたのを痛烈に思い知った。赤楠は、恋人の運命を案じに案じ、いてもたってもいられなくなったのだろう。養殖場まであとわずかというところで、非常線に差しとめられ、強行突破してでも一緒になろうとした。そして、当の恋人に殺された。
「ふんっ。たしかに、ちょっとはアテになりそうだな。いいだろう。お前が運転しろ」
「どこへいけばいいんだ」
「お前は新聞記者だろうが。責任もって、安全なところへ俺達を連れていくんだよ」
どこまでも
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