第17話 大間家

 車は目的地についた。時刻は正午を回っている。まずは板チョコを二枚頬張り、朝買ったペットボトルの茶で胃に流した。これで昼食は終わった。

 試算では、あと一日半の時間しかない。手持ち時間の半分がすぎた。

 和辻が夜木聖町の会社に在籍していたと確定したのは、大きな前進だ。しかし、高い評価を受けていたのに突然の退職。その一年後に会社は倒産。

 いくら小さな所帯とはいえ、一人の優秀な社員がやめた程度で駄目になるとは思えない。逆に和辻は、前もって会社が傾くタイミングを知っていたというのか。

 黒銀町での和辻は、万人に好かれる人格者などではなかった。強引な転業が少なからず摩擦を生んだのは、地野の息子が証言している。大間水産からの退職は、その予兆ということか。

 だがそれでいて、まさか殺される理由には……というより動機には……ならない。

 こうした展開で注意すべきは、たんなる○✕クイズで手がかりを判断しないことだ。いまのところ、和辻の人生には殺されるほどの恨みを買う要素はない。だからといって、大間水産とのかかわりを調査したのが、まるで無駄になったとはまだ断定できない。

 和辻が入社した一九九二年といえば、控えめにいっても、都内に山ほど就職口があっただろう。なにをもって、資本金が一千万円しかない地方の零細企業を選ばねばならなかったのか。また、会社からは評価されていたのに、倒産もしないうちからどうして退職したのか。養殖のノウハウを積んだからというなら、最初は建設業を開いたというのが噛みあわない。

 噛みあわないからこそ、そこに重大なヒントがある。なんとなれば、和辻について集めた情報は……有益か無益かはともかく……一定の客観性が保たれている。水産業から建設業に、ふたたび水産業へと移りかわった動機こそが、彼の死になにかかかわるはずだ。

 今回の収穫で、もっとも焦点を当てるべきは、大間社長個人の真意だろう。

 貴重な残り時間をそこに投入するのは、ある意味で賭けに等しい。だが、どんな小さな可能性でも一つ一つ真贋を判別せねばならないことにかわりはない。

 ならば、大間社長の自宅を洗おう。むろん、和辻個人について、なにかを残している可能性は低い。だが同時に、会社について表にはだせない特別な事情を隠していることはありえる。

 例によって、当該住所はスマホですぐ把握できた。問題は『訪問』の要領だ。

 夜逃げしたからには、空家にきまっている。会社の様子からして、警備会社をいれているとは思えない。ただ、いくら寂れた町とはいえ住宅地に所在している。こんな時間帯にのこのこ顔をだすのは論外だ。

 夜まで待つのが上策といいたいが、残り時間はあと一日となる。時間の空費だけは避けたい。

 ここは、病院で診察を受けておく。まとまった時間が空いたのなら、やはり負傷の程度は把握せねばならない。肝心なときに、意識を失ったり腕が機能しなくなったりするのは願い下げだ。思ったより深刻な結果が告げられる可能性もあるが、無知なめまよりははるかにましだろう。

 さっそくスマホを使った。横浜市方面へ、一時間も運転すれば、ほどほどに大きな整形外科にいけそうだ。さすがに夜木聖町からは離脱するが、逆に、そうでもしないとまとまった時間を使えない。

 電話をかけて、診察を予約してから、矢磯は公園をあとにした。

 病院では、レントゲンやらCTやらを撮影することで、思うように時間を使うことができた。結論として骨にも筋にも異常なく、脳も無事だ。肘の腫れは、皮下出血からもたらされているが、放っておけば自然に吸収されて消えるとのことだった。待ち時間を利用して、この病院から遠くない衣料品店もスマホで把握しておいた。

 頭痛もほぼなくなっているので、サポーターと湿布だけだしてもらうよう、処方箋を書いてもらった。これで負傷の診察はすんだ。

 病院をでると、昼下がりにさしかかっていた。駐車場に隣接して薬局があったので、処方箋を渡してサポーターと湿布を求めた。

 対応した薬剤師は、名札に赤楠とあった。白衣にマスク姿でも地味なのがわかる、三十代くらいの女性だ。もちろん、業務そのものにはなんの遺漏もなかった。ただ、ありそうでない名前だから、なんとなく印象に残った。

 車にもどると、矢磯は処方されたばかりの新たな湿布を貼ることにした。ドラッグストアの湿布は、とうにはがしてある。整形外科医の指示に応じた品だけあって、ドラッグストアのそれよりもはるかによく効いた。湿布のうえにサポーターをはめて、ようやく回復を実感できた。なにより、後遺症の危険が晴れたのは心強い。身体が資本とはよくいったものだ。

 これまで矢磯は、一件一件の仕事に段取りをまとめてはそつなく処理してきた。それはそれでいい。なにか予期せぬ問題にでくわしたとき、特に今回のような怪我をしたとき。具体的にどんな悪影響があるのか、改善策はどうなのかを学ぶことにもなった。もっとも、元顧客に落とし前をつけてこそ活きる教訓でもある。

 とにかく、衣料品店へいかねばならない。湿布とサポーターがすんで、すぐに病院をあとにした。

 衣料品店で、矢磯は上着から手袋まで二そろいを購入した。靴も買いたいが、さすがに時間がない。

 それから夜木聖町へもどると、黄昏時から夜にさしかかるところだった。それほど広い町ではないので、使える駐車場つき公園の数は多くない。病院へいく直前に利用したそれへ車をむけた。

 公園についてまず、矢磯はチョコレートを数枚頬張った。ペットボトルの茶も飲んで腹と喉を落ちつけておく。

 そして、予備のチョコレートに湿布、新旧の下着や買ってきた服の一そろいをそれぞれ汚れないようビニール袋に詰めてから助手席の下に隠した。次に、車をでて、新しい衣類一そろいとともに公衆トイレへ急いだ。個室で着がえを終わらせると、また車にはいり、古い衣服を別のビニール袋にいれて運転席の下に隠した。助手席の方は満杯になっていた。

 調達した服は、一回かぎりの使い捨てだ。帰ってきたら、二つ目の新しい服を身につける。そうすることで、疑われる危険を最小限に抑えるのが狙いだった。

 十分かけて、ここから大間家までのルートを丸暗記した。万が一に備え、複数の道筋を頭にたたきこんでおく。

 それも解決がついた。今一度、車をあとにした矢磯は、迷わず足を踏みだした。

 二十分ほどかけて、目あての住宅地にきた。スマホは胸ポケットにしまったままだ。ながらスマホをやらかすと、どうしたって注意力が落ちる。人目を避けねばならないときに、そんな危険はしでかせない。

 大間家の門前についたときには、宵の口から深夜にさしかかろうかという時間帯だった。犬こそ吠えてないが、物音一つしない。どこの町でもジョギングに励む人々がいるものだが、それもいない。

 月明かりに照らされた大間家は、塀という塀にびっしりと落書きがされていた。『金返せ』やら『泥棒一家』やら、読むに耐えない罵詈雑言の数々。

 かつては、悪質な債権者が、半グレを雇ってこうした嫌がらせをするのは珍しくなかった。ここ十年でめっきり減った。法律が厳しくなったのもある。ほかにも、ネットで闇金の手口が暴露されたり、救済措置が広く紹介されたりした面もあった。

 負の面もある。闇金にさえ相手にされない貧困層が増えたり、自殺こそしないが金を借りてまでまっとうな生活を維持する人間が減ったりもした。よく、借金のカタに、債務者が外国で臓器売買の対象にされる話がでてくる。たしかにそうした実例はある。しかし、肉体的には健康だが闇金しか頼る先がない事例はそう多くない。いや、頭数自体が減っている。病気を抱え、働けず、公的扶助も受けられない。そんな人間のほうが増えつつある。あるいは、自分の人生になんの希望も持てず、いわば消極的な自殺として引きこもりを選択する人もいる。

 夜逃げの依頼も、借金絡みは依然として一定数あるが、犯罪加害者の家族やDV被害者といった『人権系』がじわじわ増えていた。

 なんとも複雑な気分を味わいながら、矢磯は、手袋をはめてから大間家の裏庭と道路をへだてる柵を乗りこえた。表門は、たとえ錆びついてなくともきしんで甲高い音をたてることが多い。夜中は意外に響く。

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