第15話 買い物

 スマホをしまい、二本目のペットボトルを開けて、一口飲んだ。そのころには、頭痛も肘痛も多少は収まってきた。代わりに眠い。今日一日で、山から海から洞窟からかけずり回った。負傷までしたとあっては、眠気が押しよせてきて当たり前だろう。

 意識を失う前に、スマホの目覚ましを夜明け前にセットしておいた。コンビニなら営業しているし、その時間帯は一番人が少ない。まず下着と食料を補充し、それから具体策を練ればいい。

 今度は、スマホを鼻にぶつけずにすんだ。

 翌朝。熟睡は、アラームによって破られた。頭も肘もまだうずくが、なにより腹が減ってたまらない。まず、夕べの飲みかけたペットボトルを全て飲んだ。矢磯にとって、こうした残り物を飲み食いすることには、なんの抵抗もない。

 それから公衆トイレにいって顔を洗い、口をすすいだ。ついで、空になった二本のペットボトルを、自販機の脇にあるゴミ箱に捨てた。かわりに、長方形の栄養添加クッキーを二箱ほど買っておく。

 ゴミ箱から視線を放すと、防潮堤ごしに広がる水平線が、オレンジ色の朝焼けに染まっている。ラジオ体操でもしたくなる爽やかさだが、左肘の鬱血うっけつは少しも薄くなっていなかった。

 ふたたび車に乗って、矢磯はまず栄養添加クッキーを一箱食べた。三本目の栄養ドリンクも一緒に飲んだ。朝食ではなく、コンビニへいくまでのつなぎだ。

 しかるのちに、出発した。負傷が尾を引かないかと気を揉んだが、一晩休んだこともあり、思ったより冷静に運転できた。

 町内にあるコンビニは……ドラッグストアもそうだが……スマホによれば一件だけだった。やはりというべきか役場前だ。時間帯を選んだかいあって、客は矢磯だけだった。

 自動ドアをくぐると、制服とマスクをつけた初老の男性が軽く会釈した。

 ここ数年来、世界中を悩ませた新型ウィルスは、ワクチンの普及と衛生意識の向上でインフルエンザとかわらない扱いになった。しかし、どこの店でも威勢のいい挨拶はしなくなった。飛沫感染を用心しているからだ。それに、十年ほど前から、コンビニは必ずしも若い学生やフリーターの定番アルバイト先とはいえなくなっている。

 下着は……このさいシャツだけでなく、パンツから靴下からそろえたが……簡単に見つかった。タオルも忘れてはならない。弁当はほとんどなかった。一番売れない時間帯だから当たり前か。握り飯がいくつか売れ残っているので、それらを買い物籠に入れた。あとは二リットル入りペットボトルの茶に、板チョコを何種類か、合計で十数枚買った。歯みがき粉と歯ブラシも買った。

 店員は、いささかくたびれた格好の矢磯になんの関心も持たないまま、マニュアル通りに勘定をつけた。手ふきも一枚入れてくれた。

 金を払って小さく礼を述べ、矢磯は店をでた。そして、車をコンビニの駐車場からださないまま、握り飯を平らげた。次から次に、五個も食べた。それから茶をがぶ飲みした。とにかく食わねばはじまらない。

 これからは、外食は控えるつもりでいた。肘が腫れていて、負傷が隠しきられないからだ。腹が減ったらチョコレートをかじる。まだ気温はそこまで高くないので、車内に載せたままでも溶けはしない。

 握り飯を食べたあとのゴミは、コンビニのゴミ箱を利用して捨てた。

 腹が落ちついたら、身だしなみの番だ。とはいえ、さっきの防潮堤前はもう使わないほうがいい。夕べ会った、休暇中の警官が『巡回』してくるかもしれないからだ。

 矢磯はスマホで手近な……かつ、ほどほどに大きな公園を探した。多少、町の中心地から遠くなっても差しつかえない。幸いにもすぐに見つかった。間髪をいれず、車のエンジンをかけた。

 公園も、彼以外には人っ子一人いなかった。まず公衆トイレにいき、個室で下着を丸ごとかえた。衣ずれが、頭と左肘に障ってうめきそうになる。さっさとすませたい気持ちとは裏腹に、ゆっくりすませざるを得なかった。五分ほどかけてどうにかやり遂げると、古い方はビニール袋に押しこみ、個室をでて手洗い場で歯を磨いた。

 体臭は芳香スプレーでどうにかするとして、髪はどうすべきか。やろうと思えば、夕べのように頭をすすぐくらいはできる。タオルも買ってある。それこそ、次に頭を洗う機会がいつくるかはわからない。

 決心して、実行した。傷に水がしみて、うずくのがうっとおしい。手で髪をすきたいところだが、痛いからやめた。

 髪先からしずくが落ちるのを無視して、左肘にも水を浴びせた。こちらも鈍い痛みがひっきりなしに矢磯を打ちすえた。

 ここまでの犠牲を払ったからには、元顧客には割増料金を払わせるくらいではすませない。彼はけっして善良一辺倒の人間ではない。

 もっとも、そんなことは相手を捕まえてから考えるべきだろう。

 ドラッグストアが開店するまで、あと数時間ある。その間に、今日の方針をまとめておくのが賢明だ。

 車内に至り、ビニール袋にいれた古い下着をどうすべきかをまず考えた。捨てるのはもったいない。さりとて、抱えたままだと、この車の所有者が海岸をうろついていたのが証明されてしまう。

 あの警官とやらいう女性は、矢磯と矢磯の愛車を結びつける質問まではしていない。休日だし、正式な職務質問でもない以上は、そこまで聞けないとでも判断したのだろう。だから、余計な手がかりを残したくはない。百パーセント消すことは不可能にしても、できるだけの『脱臭』は意識してしかるべしだろう。

 その気になれば、ほかのゴミ……お菓子の包装紙など……にまぎれこませた形で、コンビニのゴミ箱にでも捨てることはできる。ただ、チョコレートまで買いこんだからには、またコンビニにいくのは二度手間だろう。店員にも顔を覚えられる可能性が高まる。隣町のコンビニにまで足をのばすのは非能率だ。

 結果論的に、古い下着は捨てないことにした。

 それはそれとして、大間水産。スマホで簡単に所在地までのルートは判明した。車でいくべきか、歩いていくべきか。

 負傷がなければ、後者にしていた。だが、夕べの女性が地元の警察に連絡でもしていたら、不審者対策のパトロールが強化されている可能性がある。よそ者の自分が潰れた会社の跡地をうろうろしていたら、自殺行為になりかねない。

 車を使うとして、怪しまれないようにするなら、止まってはならない。建物の周りをぐるぐる走らせるなどもってのほか。つまり、一回通りぬけたら終わり。それでは調査にならない……建物が残っていればの話だが。

 妥協案として、車を所在地にぎりぎりまで近づけてから徒歩で所在地へいく。職務質問されたら、道に迷った観光客だと答えればいい。負傷については、洞窟の冒険ごっこで羽目を外したと応じればすむ。職務質問くらいでは、スマホの中身までは点検しない。どのみち新しいものにかえてあるのだし。

 妥協案にふさわしい場所は、あっけないほど簡単に見つかった。これからいくドラッグストアだ。時間にすれば、ドラッグストアから大間水産までは、歩きで十五分というところか。

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