第14話 ささやかな手当て

 洞窟をでて、ふと月に視線をあげようとしたところ、頭痛がなおさら酷くなった。左肘も、ちょっとやそっとで回復する状況ではない。これでは車が運転できるかどうか疑わしい。

 とにかく、車へたどりつかねばならない。話はそれからだ。

 洞窟を調べる前に見つけた、崖の階段を登ると、しっかりした舗装の二車線道路に至った。あとは、まっすぐ道沿いに降りていけばいい。

 そこから数十分は、一歩ごとに二ヶ所の負傷からしつこく苦痛を受けとる、拷問さながらの道中だった。目まいや発熱がないだけましだが、歩きながら歯を食い縛るのは生まれて初めての体験だ。できれば生涯未体験ですませたかった。

 難儀の末に、車がはっきり見えてきた。ようやく腰が落ちつけられるという安堵もさることながら、はやく傷口を冷やしたい。喉も潤したい。

 走りたくなるのを我慢して、ついに到着した。なにはさておき公衆トイレにいき、頭を水道水で冷やした。ついで、シャツをざっと洗い、上着の袖をめくって左肘の様子を調べた。皮下出血のせいか、青黒く腫れている。痛みはともかく動かせはするし、指もおかしくない。頭と同様、とにかく冷やした。

 洗ったシャツは、肘ではなく頭に巻きつけた。少々目だつ格好だがしかたない。どうせ自分以外誰もいない。

 公衆トイレをでて、自販機で栄養ドリンクのペットボトルを三本買い、それらを抱えて愛車のドアを開けた。栄養ドリンクなどといっても気休め程度の効能だが、溺れる者はわらをもつかむというではないか。

 矢磯は、倒れこまんばかりに座った。ドアの鍵をかけ、座席をうしろに倒して寝そべる姿勢をとる。頭に巻いたシャツがヘッドレストをべたべたにするが、かまっていられなかった。

 そんなことより一本目のペットボトルを開け、中身をがぶ飲みした。ものの十秒で空になった。わずかながらも精神が落ちつき、これから先の方針を練りだした。

 どのみち、今夜はここで車中泊するしかない。わずかな幸いとして、自販機にはお菓子もある。最初からそのつもりで出発したのだし、今夜はとにかくじっとしているのが賢明だ。

 翌朝になれば、病院へいくのがどう考えても最優先だろう。財布には保険証もはいっている。洞窟からここまで、自力でやってこられたことを考えれば、深刻な打撃ではないはずだ。

 だが、検査だけでも半日は潰れかねない。それに、この格好。いくらなんでも怪しすぎる。まさか警察に通報されはすまいが、悪い意味で何ヵ月でも印象に残る。

 一度自宅まで帰り、シャワーでも浴びて服を着がえて、それから近所のドラッグストアで湿布でも買うか。いや。中途半端な妥協策をとるくらいなら、着がえたあとにせよ、病院にはとにかくいくべきだ。

 明日まで待てば、生乾きでも一応はシャツが身につけられるようになる。コンビニで食料と新しいシャツを、ドラッグストアで湿布と頭痛薬をそれぞれ買うか。この場合、病院はあとまわしとなる。だが、なにより貴重な時間は無駄にならずにすむ。

 最初の試算からすれば、実質的にあと二日しか残っていない。逃がし屋を廃業する危険を避けるなら、肉体的な忍耐を重ねるしかない。

 どっちが正しいのか。思案するうちに、自然にスマホに手がのびた。猫波アプリの出番だ。

 冷やした頭がようやく落ちついてきたときに、またとない癒しを仕いれるのは絶妙のタイミングであった。張りつめていた緊張がほぐれると同時にいねむりしかけ、スマホが手から離れて鼻を直撃した。

「ふごっ!」

 思わず悲鳴をあげ、矢磯はスマホを拾ってアプリを切った。そこで、洞窟で入手した写真を思いついた。

 しっかりした検証は明日やるとして、ちょっと観察するくらいなら、いま実行してもいいだろう。

 さっそく、三枚の画像を一枚ずつ画面にだした。

 改めてためつすがめつすると、二枚の絵馬は鳥居にもまして稚拙な仕あがりだった。既製品でないのはすぐわかる。字も手書きで、ふぞろいだしトメハネのバランスも悪い。文章そのものも、大人ではなくこどもが思いついたような雰囲気だ。

 だが、『悪い人がはやく捕まりますように』と『家にお金がもどってきますように』は共通した悲劇について訴えかけていてもおかしくない。一つの文言に統一すればいいのに、というのは他人の後知恵だろう。

 二○○六年十月四日になにかあったのかと、スマホで情報収集をかけた。なにもない。特定の事件発生日や記念日ではないということか。あえて挙げるなら、大間水産が経営破綻した年が近いくらいか。

 大間水産。ローマ字なら、頭文字はO。絵馬の一つもイニシャルにOがあった。

 大間水産が潰れた原因は、放漫経営とあった。公式にはそうだろう。表沙汰にできない、特別な理由があったとしたら。たとえば身内の不祥事を揉みけした、など。

 いや、ただの陰謀論だ。結論ありきでこじつけていけば、どんな理屈だって成りたつ。

 だがそれでいて、乏しい時間を割いてでも、現場ではっきりさせろという気持ちが否定できなかった。

 頭痛のせいもあってか、つまらないことをあれこれ思いだした。

 矢磯の父は平凡な会社員で、母はスーパーでパートをしている。一人っ子ながら、それは特になんとも思ってない。彼の最終にして最高の学歴は専門学校であり、本来ならIT技術者になるはずだった。

 一足先に卒業した先輩達は、ある意味で矢磯の進路に重大な影響を与えた。ごく一部ではあるが、労基法をまるで無視した企業に就職したり、残酷なパワハラにさらされたりするのがメールやSNSで伝えられてきた。

 矢磯は、彼らの境遇に義憤を感じはしなかった。同情すらしなかった。どちらかといえばその逆寄りだった。

 彼らは笑っていた。法や裁判に訴えかけもせず、ただ自虐し、卑屈に笑っていた。金や時間がないのではない。変に目だって余計に嫌な仕うちをされるくらいなら、『笑って耐える自分は強くて賢い』とすら思っていた。そのくせ、誰かがそんな労働環境に異論を唱えようものなら、よってたかって非難した。

 むろん、世間がそんな頓珍漢な会社で満ちあふれているはずがない。学んだことを活かして、思う存分活躍している……そして、私生活も充実している……先輩の方が圧倒的に多い。

 矢磯はどちらの道も選ばなかった。学んだパソコンの知識や技術は、夜逃げ業のために投入されている。それ自体を、逃げだ不戦敗だと批判するもう一人の自分自身も否定できなかった。

 回想はそれくらいにしよう。

 三枚目、鳥居ごしに窪み全体をまとめた写真は、絵馬ほど明らかな情報には結びつかなさそうだった。鳥居の赤色がやたらに目につくくらいだ。

 赤色。なにか気になる。絵馬の写真を呼びだし、拡大してみた。二枚とも、かすかだが赤いシミがいくつか側面についている。鳥居のペンキを塗ってから、指についたそれをぬぐわないまま絵馬をつついたとしか思えない。

 大人なら、洞窟の奥に奉納する絵馬を汚すようなことは絶対に避けるだろう。仮にそうなったらやりなおす。逆説的に、絵馬も鳥居もこどもが作ったものだ。こどもなら、あの狭間も簡単に出入りできる。物好きな大人があとからきたかもしれないが、鳥居と対面しただけで祟りを恐れてすぐに引きあげるはずだ。よしんば窪みをつつきまわしたところで、二枚の絵馬にはなんの価値もない。

 こども。絵馬の年からすれば、現在は少なくとも二十代の中盤だろう。元顧客の年代ともある程度は合致する。

 いうまでもなく、こんな根拠は大雑把を通りこして細く頼りない。それでも、手繰たぐっていかねばならなかった。できることは全てやるしかない。

 それやこれやが、矢磯の決断を後押しした。病院はなしだ。家にも帰らず、ここの近所にあるコンビニとドラッグストアにいく。

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