第13話 思わぬ負傷

 和辻の死に、絵馬がなにかかかわっていたら。これこそ、ハイリスクハイリターンだろう。

 こんなとき、一昔前の迷惑系動画配信者だったら、なんだかんだと理屈をならべてちゅうちょなく絵馬を手にするのだろう。いや、その場でバラバラにして『やはり腐っている』とでもテロップを流すかもしれない。

 そういえば、絵馬は見せかけで、元顧客が何者かと交わしている特別な連絡手段という可能性もあった。スパイ映画さながらだが、和辻の死体が廃倉庫にあったのも異常なら、海岸の洞窟に鳥居があるのも異常だろう。

 ふと閃いた。絵馬はとりあえずあとまわしにして、まず鳥居を調べる。手で触るつもりはない。まさか、分解したら通信文がでてきたなどとはならないだろう。スマホの角で軽くつついた。見た目には、がっちり据えてあるので地面に落ちたりはしないはずだ。

 どこもかしこも、均一に硬い手ごたえがした。金属のような質感はない。見たままの木製だ。出来映えはいかにも見よう見まねといった荒削りながら、よほど念入りにペンキを塗ったのだろう。

 そこで思いついた。スマホをヘラのように使って、絵馬をとりだせないだろうか。どのみち、絵馬はスマホの画面よりずっと小さいから乗せられる。神経を削る作業にはなるが、手で触れないですむ。

 だが、落として割ってしまったりすれば悲劇だ。仮に無関係だとわかっても、作った人間の気持ちは台なしになる。それを無視するほど、矢磯は冷酷ではなかった。

 思案の末、シャツを脱いだ。上半身が裸になるがやむをえない。脱いだシャツで絵馬をつかむことも考えたが、繊維がついてしまう。警察の鑑定力は、ゆめゆめ甘く見てはならない。

 脱いだシャツは、畳んで鳥居の真下に据えた。万が一落としても、クッション代わりになるだろう。そうなると、繊維がついても甘んじるしかない。絵馬が傷まずにすむのを優先する。

 準備が整い、矢磯はスマホを絵馬の底にあてがった。まるでジェンガのように、ごくわずかずつ……数分の一ミリに数十秒の時間をかけ……ゆっくりと抜いていく。

 上半身裸で、まだ夜は肌寒い時期なのに、いつのまにか顔から汗がふきでていた。そういえば喉も渇いている。呼吸を押しころすようにして、最初の一枚が半ば以上窪みからでてきた。

 唐突に気づいた。なにも、絵馬を完全にだす必要はない。反対側に回れば、窪みとスマホで絵馬を支えて、あらかた中身が読める。

 足が滑らないよう、爪先に神経を集中しながら実行した。もうちょっとで読める……というところで、いきなり天地が逆転した。スマホが投げすてられ、思わずうしろにつきだした左肘がしたたかに地面を打つ。さらに、後頭部をガツンとやってしまった。失策を理解するよりはやく、意識はどこかにとんでしまった。

 不定期に、顔を濡らしては砕ける天井からの水滴が、どうにか矢磯を覚醒させた。頭と肘が猛烈に痛むし、暗闇だ。

 まずは、怪我の程度をはっきりさせねばならない。左肘は、痛みはともかくどうにか動いた。指も一本ずつ曲げたり伸ばしたりできる。頭はどうだろうか。右手で、頭全体をなでてみた。血はでていないようだ。自分の名前、生年月日、血液型、全部思いだせる。吐き気や悪寒もない。

 軽傷だというなら、まずは、スマホを探さねばならなかった。腹這いになって、右手だけで地面をほうきのようになぞりながら円を描くように求めた。頭痛のせいで考えがまとまりにくいものの、やるしかない。

 どれくらい時間をかけたか。とにかく右手が平べったい長方形に突きあたったのは、まさに蘇生した思いだ。スイッチをいれると、ライトがふたたび点灯して、鳥居が闇に浮かんだ。どこも故障しておらず、一定時間がたつと電池を節約するため自動的に消えるようになっていただけだ。画面も割れてない。時間も、三十分ほどしかたっていなかった。猫波のアプリを味わいたいが、洞窟をでるまでおあずけだ。満潮にはまだまだ時間があるので、あわてて引きかえさなくてもいいことだけは助かった。

 改めて鳥居を照らすと、幸いにも絵馬は転ぶ直前の状態をとどめていた。しかし、シャツはひどく汚れてあさっての方向に散っている。絵馬に気をとられすぎて、せっかくのクッションを踏んだのが原因だった。作業が九割九分無事に進展したことで、油断したのもある。自分で自分を叱責するほかないが、ぐだぐだ腹をたてて時間を損なうべき状況ではない。

 左肘と頭はひっきりなしに苦痛をもたらしている。それでも、今度こそ完遂せねばならなかった。絵馬が落ちる可能性が否定されたわけではないので、シャツも元の位置に直しておく。

 今度こそ、絵馬の内容が拝めた。自分をいたわっている場合ではない。二枚目が残っている。一刻もはやく、現物をものにせねば意味がなかった。

 『悪い人がはやく捕まりますように 二○○六年十月四日 ST』

 なんのことだろう。STというのはイニシャルのようだが、悪い人とは。スマホの電波が通らないので、この年月日になにがあるのか、すぐにはわからない。とりあえず、写真は撮影しておいた。

 ならば、二枚目にかからねばならないだろう。

 一枚目は、スマホで押しもどせばすぐ元どおりになった。二枚目は、一枚目で経験を積んだこともあり、ずっと簡単にできた。

 『家にお金がもどってきますように 二○○六年十月四日 KO』

 これまた、にわかにはわからない。KOもまたイニシャルだろうが、STとはなにかしらかかわりがあったのだろう。もちろん、写真も撮っておいた。

 写真といえば、まだ鳥居から見た窪み全体をものにしていなかった。二枚目の絵馬を窪みにもどして、原状復旧してから、画像データに納めた。

 二枚の絵馬は、年月日が一致している。場所が場所だけに、STとKOは強い結びつきがあったはずだ。

 考察を深めたいが、頭痛も肘痛もしつこく彼の邪魔をしている。疲れたし、せめて栄養ドリンクでも飲みたい。だいいちこれから満潮だ。

 矢磯はシャツを拾い、具合を点検した。破れてはいない。ただし汚れがひどく、そのまま身につける気にはなれない。ここに捨てていくのは愚かとしかいいようがないので、左肘に巻きつけた。サポーターの代わりだ。

 きびすを返し、彼はまた狭い部分を抜けた。上着はちゃんと置いた場所にあったので、一度シャツを肘からはずし、上着をはおってから袖ごと巻き直した。

 洞窟の地面は、海へと進むにつれてうっすらと波に洗われてきた。靴底がぱしゃぱしゃとかすかな音をたてる程度なので、ズボンに塩水がかかるようなことはない。むしろ、また転んでしまうのをこそ警戒せねばならなかった。

 もっとも、帰り道は思っていたよりはるかにあっさりと終わった。またそうでなくては困る。

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