第3話 スマホの処分

 矢磯は、自分を完全な裏社会の人間だとは思ってない。いわんや反社とは微塵も思ってない。報酬の代わりに、引っ越しを手伝っているだけだという認識でいる。じっさい、暴力団にはなんら加わってもかかわってもいない。戸籍偽造屋とはメールでのやりとりしかしておらず、金銭は顧客が先方に払うから関係ない。

 ただし、もうけた金を税務署に申告するなどできはしない。なにしろ、彼の顧客は全員が行方不明になってしまうのだ。実態は偽造した戸籍や氏名で新たな人生を送っているが、杓子定規に捉えるなら犯罪だ。

 だから彼は、うわべは個人請負の運輸業者ということでとおしている。そうした仕事もふつうにこなすので、これまではうまくやってきた。夜逃げ屋としての金銭は、あらゆる口座を使わない。現金のみである。前金は、アルバイトで雇った受け子に顧客から現金書留で送らせる。受け子は、矢磯に連絡をして自分の報酬を差しひいてから、現金を密封して矢磯の自宅のポストに投函する。残金は、夜逃げを実行するときに、顧客から手渡しで受けとる。

 賭博だの麻薬だので稼いだ金ではないので、受け子を介することそのものはなんの犯罪にもならないのがミソだ。むろん、信頼できる人間を厳選している。

 死体一つで、そんな積み重ねが水の泡になりかねない。

 こんなとき、冷静さをどれくらいの時間でとりもどせるかは死活問題となる。まさかとは思っていたが、あらかじめ用意していたそれを起動すべきときがきた。

 矢磯はスマホをいじり、『非常用』と題名のついた波マークの自作アプリを起動した。しばらくして、寄せては返す波の音と猫が人間に甘える鳴き声がかわるがわる聞こえてきた。急いで耳にあて、心いくまで聞いた。

 約三分後、彼の肩から、なにか大きな塊がぬけ落ちたかのように力が抜かれた。満足げなため息が口をついてでる。

 矢『磯』という名にふさわしく、彼は海が好きだ。それ以上に、猫を気にいっている。もっとも、飼育まではしていない。死ぬと辛すぎるし、自分の仕事がけっして安定しているわけではないのも承知していたから。波の音は湘南海岸で、猫の鳴き声は都内の猫カフェでそれぞれ収録した。

 精神が落ちついたところで、改めて考えた。あくまで死体と矢磯は無関係だ。発見したのに無視したということを、通報でもされなければ当面は問題ない。問題は、この場をどうはなれるか。

 顧客が矢磯をはめたのは疑いようがない。それは個人レベルか組織レベルか。前者なら、死体の調達は困難極まる。さりとて後者なら、とうに警察がきて、彼はあらぬ疑いをかけられたことだろう。

 自分のスマホで死体を撮影しておくことも考えた。しかし、スマホは廃棄せざるをえない。業務用とはいえ、ほかに二台……個人用もあわせれば三台ある。

 基本的に、逃がし屋の仕事は、一件ごとに完遂自体が精算となる。つまり、顧客のデータを残しておく必要はない。だからこそ、こういうときは思いきった処置ができる。

 人里はなれた土地ながら、車を倉庫からはなれた場所に停めておいたのも好判断だった。これは、打ちあわせではぼかしておいたことでもある。倉庫のすぐ近くに車を置くのは愚の骨頂。ナンバープレートでも誰かに記録されようものなら、一通りの個人情報が筒抜けになるのは必定だからだ。

 すぐにでもたちさるのが賢明なのに、矢磯がまだ倉庫にいる理由は一つしかなかった。死体をもっと詳しく調べておくべきかどうか。

 すでに、何ヵ所かを触ったあとだ。このうえ余計なことはしたくない。しかし、顧客……いや、すでに敵とみなしていいだろう……にけじめをつけさせるなら、死体にまつわる情報は多いほどいい。

 悩んだ末に、矢磯は軍手をはめてから死体のポケットだけを探ることにした。むろん、ゼニカネなどどうでもいい。自動車免許証でも保険証でも、なにかしらの資料がでてきてほしかった。

 矢磯はふたたび死体のそばで膝をついた。上着だろうとズボンだろうと、どのポケットにもなにもなかった。拍子ぬけだ。

 時間があれば倉庫の床まで調べたいが、キリがない。本当に警察がきたら一貫の終わりだ。

 たちあがりかけたとき。死体の指先から漂うかすかな香りに、矢磯は気づいた。用心しつつ鼻を近づけると、釣りに使う集魚剤かなにかだとわかった。神経を落ちつかせて、集中して探ったからわかったことだ。さもなくば感じとることさえできなかっただろう。

 死ぬ直前、釣りでもしていたのか。矢磯は、海は好きだが釣りにはなんの興味もない。ただ、七福神でエビスが豊漁にかかわるのは知っていた。この死体は、エビスに見放されたということか。

 のんびり探偵ごっこをしている状況ではない。今度こそたちあがり、廃倉庫をあとにした。

 車とは真反対な方向へ歩きながら、まず旅館と偽造身分証の業者にキャンセルのメールをいれた。前者についてはキャンセル料がかかるが、前金から工面するしかない。後者については、返信を初めとする面倒なやりとりはいらない。しかし、これだけでも……よくあることとはいえ……矢磯の評判には傷がつきかねない。甘受するほかなかった。次に、業務用スマホを操作して一切のデータを初期化した。軍手をはめたままなので、指紋が残らないようぬぐっておいた。

 矢磯は、とある用水路の岸にいきついた。海に近いせいか、やたらにドブだの空地だのが多くて助かった。月明かりはそれなりだが、廃倉庫は見えなくなっている。

 まず、スマホのチップを取りだしてから指で折りまげ、しまいには二つに割ってから指で弾いて水面へ飛ばした。ついで、しゃがんで握り拳ほどの石を拾い、スマホを地面に置いて叩き潰す。画面が割れ、部品が外気にさらされてもなお叩き続けた。とくに、集積回路は念いりに破壊した。そのうえで石ごと用水路に投げこむ。スマホが置いてあった場所にあたる土は、足で何度も蹴散らした。

 作業が終わり、車へもどる道すがら。気晴らしにまた渚とネコの録音が聞きたくなり、アプリをスマホごと処分したことを思いだした。バックアップがとってあるとはいえ、どこまでも忌々しい一晩だ。

 それでも、車のある空地まではなんら問題なく帰った。工場で完成してから二十年、走行距離が三十万キロに達した白い軽四。整備は滞りなく、ふつうに走る。ちなみに、表稼業に使う軽トラックも所有しており、こちらは自宅から徒歩十五分の月極駐車場を使っている。年式は、これから乗る私用の軽四とどっこいどっこいだ。

 矢磯は、車のブランドや細かい性能にこだわりをもたなかった。へたにぜいたくな車を購入しようものなら、たちまち税務署が飛んでくる。それに、テレビや漫画にあるようなカーチェイスなど現実には起こらない。日常生活のなかに完璧に紛れこんで、初めて逃亡は成立する。その意味では、地味であるかないかが致命的に重要だ。

 座席についてシートベルトをしめ、矢磯はエンジンをかけた。これでようやく廃倉庫とご縁切れになった。目指すは自宅。神奈川県に隣接した、ぎりぎり都内の地方都市にある。三時間近い運転になるが、苦にはならない。

 帰ってからなにをすべきかは、とうに結論がでている。まっさきに、靴を処分する。倉庫や近辺の、細かい土がついている可能性がある。切り刻んで、可燃ゴミに紛れるようにして捨てればいい。商売柄、いつも予備の靴をかまえてあるのでかまわない。それから、シャワーを浴びて食って寝る。とにかく疲れた。

 起きたら、顧客……いや、敵を捕まえるのに全力をつくさねばならない。

 矢磯はなめられた。

 この手の業界で、それは万死に値する大罪だ。できるだけ速やかに報復せねばならない。そのためには、死体の身元と死因をはっきりさせねばならない。死因をはっきりさせるという言葉には、仮に殺人なら犯人をつきとめるという意味もある。

 二十分ほどハンドルを握ると、国道に合流できた。そこでラジオをつけた。気を緩めるつもりはないが、廃倉庫の死体にかかわる情報が入るかもしれない。

 天気予報に交通情報、クラシック音楽。役にたつものは一つもなかった。逆説的に、死体はまだ騒ぎになってないようだ。でなければ困るところではある。車内で使うスマホ用充電器もあり、小まめに充電しているが、肝心のスマホがない。運転以外にできることはなかった。

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