第2話 (本編ここから)廃倉庫の死体

 矢磯やいそ 十吾じゅうごは、断じて殺し屋などではない。どちらかといえば、その逆……逃がし屋だ。

 彼の足元には、死体が転がっている。いや、転がされていた。廃倉庫を支える、冷たそうなコンクリートの床が、よけいに冷ややかに思えてくる。頭上からは、破れた屋根の穴から月明かりが降りかかり、下手な役者があやふやなスポットライトの下で死体の演技をしているようにさえ思えた。そんな非現実な期待は、自分で脈がないのをたしかめたことで消え去った。

 かつてどこかの商社が使っていたらしい廃倉庫の中で、顧客と合流し、夜逃げの段取りを実行する。それだけで、必要経費を差しひいても、半月は遊べる金になる。嘘でない証拠に、前金をすでに得ていた。

 廃倉庫自体は、たしかにここだ。スマホのGPSで何度もたしかめた。静岡県は伊豆半島の東側根元といえば、温泉で有名な街にも近い……最初から、のんびり湯治するつもりはなかったのだが。割れ目だらけの薄い壁から、かすかに夜の潮騒が漂ってくるのを聞くにつけても、風情より焦りが湧いてきた。

 そもそも、この廃倉庫を指定してきたのは今回の顧客だ。まず疑うべきだった。いつもの要領なら、深夜に顧客が住む家の門前へ車を停める。電光石火、乗りこむと同時に新たな自宅へ発進というのが王道。

 もちろん例外もある。勤務明けから、友人との待ちあわせを装ってそのまま……といった類だ。

 夜中の廃倉庫とはギャング映画さながらだが、逃亡先までの距離はごくわずかだった。その意味では合理的だと判断したが、とんだくわせもの案件となった。

 五月の夜とあっては、まだまだ肌寒くても当然ながら……今や、精神的にも肉体的にも涼しすぎる風が彼を冷やしては去っている。せめて悪態でもつきたいが、どこに誰が潜んでいるのかわからない。無意味な感情の爆発は大禁物だ。

 この死体は、どう見ても彼の顧客……夜逃げ志望者ではなかった。顧客は、矢磯よりは数歳上だが、三十歳にはならない男性のはず。死体で顧客と共通しているのは性別くらいで、年齢からして明らかに五十がらみだ。身長は百七十二、三センチほどで、歳相応に肥っている。矢磯の方が五センチ以上背が高いし、体脂肪率に至っては、腹筋が割れている矢磯と比較にならないだろう。身なりは簡素な作業服姿で、素手には結婚指輪をはめていない。髪はいささか薄くなっているものの、染めてはなかった。腐敗臭も血の臭いもなく、服には水滴一つついてない。土木作業かなにかをしていて、心臓が急にとまったかのような様相だ。

 死体の特徴はともかく、苦々しいのは、初見で顧客が倒れているのかと思ってしまったことだ。廃倉庫は鍵がなく、はなから半開きだったのも災いした。うつぶせになっているので、入ってすぐ床に膝をつき、身体を手でめくった。ご丁寧にも手首から脈までとった。

 矢磯は予定よりも十五分ほどはやくきていた。待ちあわせ現場の周囲をざっと確認し、暴力団員や警察が張りこんでいるようならさっさと引きあげるためだ。彼が自分から情報を漏らすことはしないのだから、顧客側の不手際しかありえない。ただの失策なのか、意図的な罠なのかはどうでもいい。そうした齟齬には一切応じず、契約はそこで破算となるし、前金も返さない。そこは、どの顧客にも徹底的に説明してきた。もっとも、過去数百回になろうかという仕事で『途中解約』など一回もなかった。

 廃倉庫の外ではなく、中に死体はあった。夜中だし、床に密着する形で横たわっているのだから、簡単には見つからない。待ち伏せなら、外に人手がいるはずだという先入観も邪魔をした。一方で、顧客はいつまでたっても顔をださない。だから、これがただの偶然である可能性はゼロだ。

『店で働いてる女とデキちゃったけど、ルール違反で半殺しにされるんす。なので、助けてください。金、サイト見て振りこんどきましたから。女とはもう別れました』

 業務用のスマホに、そんな依頼メールがきたのが二日前の深夜。匿名で、歌舞伎町のキャバクラで働くボーイだそうだ。『ひっこし おいそぎ』で検索すれば『二十四時間営業のプロ』というサイトがでてくる。そこで、いくつかの符丁に基づく問答と前金を踏まえれば、最終的にこの業務用スマホへといきつく。匿名であるからには割高な料金だが、相手は不満をならべはしなかった。

 事前に本名と身分証を明示すれば、料金が割引される。悪質な業者なら、そうして入手した個人情報を犯罪組織に売ったりする。むろん、矢磯はそんな馬鹿げたことはしない。顧客がこちらを信用する度あいに応じて、値段をきめているだけだ。

 矢磯も、一応は客を選ぶ。金払いが悪そうだったり、横柄な態度をとったりする人間ははじく。夜逃げを決心するほど追いつめられているくせに、小金にこだわって前金を渋ったり、幼稚な自尊心だけは一人前という依頼人もまれにはいる。慈善事業ではないから容赦なく切りすててきた。しかし、そうでなければ事情や背景に関係なく請けおう。一度承諾したからには全力を尽くす。今回は、メールの文面はともかく、金と真剣さは伝わった。

 前金を確認してから顧客とメールで打ちあわせしたのが昨日の早朝。逃亡先が、神奈川県南西部にある夜木聖町よきひじりちょう……この倉庫からなら北東に約二十キロの地点にある小さな港町……ときまり、業者に偽造身分証の発行を段どったのが今日の昼。当座の宿泊先も、地元の旅館ですんなりきまった。この間、顧客はなんらおかしな言動をとらなかった。夜木聖町は、顧客の現在の潜伏先……この廃倉庫がある自治体にあるビジネスホテル……から一番近い県外の町なので、矢磯自身が提案した。もっとも、一連の交渉は、すべて業務用スマホだけを用いたメールのやりとりだったのだが。

 元顧客からは、ビジネスホテルには偽名と偽住所を使っており、簡単な変装もしているともあった。だから、当人の勤務先が彼を拘束できる可能性は、最初からごくわずかしかない。

 単純な、退屈なほどきまりきった仕事のはずが。

 不幸中の幸い……といえるかどうか。彼と死体以外にはだれの姿もない。まだ五月だから、夜が明けるにはまだまだ時間がかかる。

 検視官が優秀なら、矢磯の痕跡を発見するかもしれない。いまさら死体を洗浄するわけにもいかない。

 矢磯がもっと場慣れしたプロなら、倒れた人間を目にするなりさっさと回れ右して善後策をたてただろう。己の未熟さを噛みしめるほかはない。

 逃がし屋。

 数年前から、矢磯は自分の人生をそこにつぎこんできた。人から命令されずにすむ気楽さと、働き次第でそれなりの報酬が見こめて需要もある。国内のマスコミや保守派ネット論客は、飽きもせずに日本絶賛を唱えている。事実なら、こども食堂など全国に増え広がるはずがない。だからといって、政治家を志したり、世の中を変革だの救済だのするつもりもなかった。金になりにくいからだ。

 表社会で働く人々……いや、表社会そのものに、矢磯はよくもわるくもそれほど関心を持たない。ただ、自分が高齢者になったら……半世紀近くあとではあるが……どうせ年金制度や国民皆保険は破綻するとも思っていた。役にたつ間は利用するが、信じてすがりつくものではない。過労死やサービス残業などという言葉が常態化している世間に、自分の時間をつぎこむ気にもなれない。ある意味で、人なみな苦労から逃げるために逃がし屋をしているともいえた。

 二十代中盤にして、固くみずからに誓ってきた彼の信条は、現実を前に崩壊寸前だった。

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