第19話 教師(2)
――校門前で田山先生と一悶着(?)あった、その日の日中。
「では、この問題を山木君。前に出て解きなさい」
僕は教室にて数学の授業を受けている。
壇上で教鞭を振るっているのは、数学担当の
彼女に指名されたクラスメイトが、黒板の前に立ちうんうんと唸りながら三角関数の問題を解かされている。
諏訪部先生は、女性の先生だ。
白いブラウスに、下は紺色のスカート。
眼鏡を掛け、栗色の髪を後頭部で団子状に纏めている。
真面目でクールな雰囲気を漂わせ、言葉使いも直線的で厳しい印象を受ける。
ベタランっぽいが、まだ20代後半くらいの教員だ。
美人だけど、きつそうな性格と見た目で男子達から怖がられている先生である。
「では、今日の授業はここまで。日直、終礼をお願いします」
終業の鐘が鳴り、諏訪部先生は帰り支度を始める。
緊張感に包まれていた空気が弛緩し、教室内にはざわめきが広がり始める。
「夏野君」
その時だった。
諏訪部先生が、僕の名を呼んだ。
僕は、教科書を鞄に戻していた手を止め、目線を上げる。
……聞き間違いじゃない。
諏訪部先生は、真っ直ぐ僕の方を向いている。
蛍光灯の明かりを反射して、眼鏡の奥の目は見えないが、確実にこちらを見ている。
「ちょっと、いいかしら」
「……あ、は、はい」
何だろう……。
何かやらかしてしまったのだろうか……。
諏訪部先生に呼ばれ、僕は教室を出る。
先生はスタスタと先に進んでいくため、僕も慌てて後に続く。
やがて、諏訪部先生と僕が辿り着いたのは、空き教室の一つだった。
「こ、ここは……」
その空き教室は、別名『指導室』。
教師が生徒を呼び出し、注意したり叱ったりする時に使う教室である。
「あの……すいません、僕、何かしちゃいましたか?」
「………」
諏訪部先生は無言のまま、指導室のドアを開ける。
仕方なし、僕もビクビクしながら後に続く。
指導室の中に入ると、諏訪部先生は振り返った姿勢のまま動かない。
何だろう……怖い……。
無言の時間だけが、刻々と過ぎていく……。
「……な、夏野君」
やがて、諏訪部先生が口を開いた。
「今朝、大丈夫だった?」
「……?」
言っている意味がわからず、僕は首を傾げる。
諏訪部先生が振り向いた。
いつもの凜然とした感じではなく、おどおどした様子で。
眼鏡の奥――心配そうな目で、僕を見詰めてくる。
「え? え?」
「あ、ごめんなさい……いきなり、こんな……君がこの学校に転入してきたと知った時は、驚いたわ。でも、こちらから声を掛けていいものか、不安で……今まで、無視するような形になってしまってごめんなさい」
「………」
え……。
いや、まさか、そんな事って……。
「今朝、あなたが校門前で田山先生に何か言われていたのを見て……やっぱり、逆恨みされているんじゃないのかって……あなたと、あの人の間にあった事で……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい!」
僕は思わず、諏訪部先生の肩に手を伸ばす。
僕の行動に、諏訪部先生は「きゃっ!」と悲鳴を上げる。
「あ、ご、ごめんなさい……でも、すいません、一旦話を止めて下さい」
僕は、諏訪部先生に尋ねる。
まさかと思うが、このパターン……。
「先生……僕と、田山先生と、諏訪部先生の間に、昔何かがあったんですか?」
「え? ど、どういう……」
「僕、記憶喪失なんです」
僕は、諏訪部先生に説明した。
約一年前に記憶を失い、療養のためにこの街を離れていた事。
体調が回復したのと同時に、母さんの仕事の都合でこの街に戻る事になった事。
即ち、昔の記憶をまるっきり失っている事。
自分がどんな人間だったのか、何をしたのか、諏訪部先生との間に何があったのか……何も思い出せない事。
「そ、そんな……」
僕の話を聞き、諏訪部先生はショックを受けたような表情になる。
「だから、何かがあったとしても、僕にはそれがわからないんです。でも、恐らくなんですが……田山先生と諏訪部先生の揉め事に、僕が介入したとか、そういう事があったんですか?」
「………」
「今朝、田山先生は僕に気付くと目に見えて警戒するような態度になりました。憶測なんですけど……つまり、僕が田山先生に何かをして、田山先生に困らされていた諏訪部先生を助けたとか……なんて」
「……ええ、それで間違い無いと思うわ、多分」
そこで、諏訪部先生はどこか安堵したように、胸を撫で下ろす。
「でも……ひとまず安心したわ。田山先生には何もされていないのね」
「先生、僕はどんな人間だったんですか? 実は今、なんとかして昔を思い出そうと情報を集めているんです。教えて下さい」
「それは……ごめんなさい。私にもわからないの」
俯きながら、諏訪部先生は言う。
「ただ、私は昔、田山先生に困らされていた事があって……その時、夏野君に助けてもらった事があるかもしれない……とだけしか」
「………」
ま、またこのパターンか!
人の厄介事に首を突っ込んで、助けた相手には「何のことやら」と真相をはぐらかして去って行くパターン!
かっこいいんだけどさぁ!
そのせいで今、色々とややこしい事になっちゃってるんだよ、過去の僕!
「と、とりあえず、次の授業が始まるので、教室に戻りますね……」
「ええ、わかったわ。あ、夏野君」
額を抑えつつ、指導室のドアを開けた僕に、後ろから諏訪部先生が声を掛けてきた。
振り返ると、手をギュッと握られた。
「困った事があったら、何時でも相談に乗るわ。あなたの過去を知る調査、私にも協力させて」
「あ、は、はい」
間近で熱い眼差しを向けられ、僕も緊張しながら返す。
甘い香水の匂いがじわりと漂って来て、成熟した大人の色気にドキリとさせられる。
見詰め合っているのも恥ずかしいので、僕は誤魔化すように、急いで指導室を出て行った。
……だから、その時は気付けなかった。
――指導室の外の物陰に隠れ、大柄な体育教師が僕等の会話を盗み聞きしていた事を。
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