第12話 一年前(1)


「夜空、落ち着いて聞いてちょうだいね」


 リビングの中央。


 テーブルを挟んで向かい合った先には、僕の母さん――夏野櫻子が椅子に腰掛けている。


 いつもの飄々としていながらも、敏腕会社員を思わせる凜々しい雰囲気はなりを潜め、その顔には真剣な……というか、深刻な表情を浮かべている。


「この話は、とても重要な……いえ、とても繊細な問題だから、アナタの状況を確認しながら進めたいの。まずは、可能な限り私の質問に答えてちょうだい」

「う、うん……」


 いつもと違う母の雰囲気に、僕も気圧される。


 これから、自分の世界が一変する。


 今まで普通に、何の疑問も無く暮らしていた日常が、大きく変わる。


 そんな気配を、ひしひしと感じる。


「まず、教えて。“どこまで思い出した”の?」

「………」


 どこまで。


 そう聞かれたなら、僕は「何も思い出せていない」と答えるしかない。


「何も……思い出せていない? なら、どうしてさっきみたいな発言を?」


 ――昔、この街で暮らしていたの?


 僕の口にした疑問を、母さんは確かめているようだ。


「実は……」


 僕は、この街に引っ越して来た後――大角学園高等部に編入してからの数日間を母さんに語る。


 編入してから少し後に起こった、美倉三姉妹からの猛アタック。


 まるで記憶にない、彼女達との共通の思い出。


 違和感と戸惑いに満ちた日々。


 しかし……そんな日々の中でも、時々、まるで自分が自分で無いような感覚を味わうこともあった。


「そう、だったのね……」


 そこまで聞いて、母さんは表情に影を深めた。


 遂に、口にしなければいけない時が来たのか――と。


 そして、同時に、どう説明するべきか、非常に気を使いながら頭の中で言葉を選んでいるのだということが、表情からわかる。


「夜空、落ち着いて聞いてね。まず、誤解を招かないために結論から言うわ」


 母さんは、真実を口にした。


「あなたは、かつて事故で記憶を失っている……記憶喪失なの」

「………」


 僕は、絶句する。


 今の自分の状況を説明するのに、最も単純で、最も納得のいく発言だった。


 しかし、そう率直に言われれば、驚いて言葉を失うしかない。


「事故で、記憶喪失……」

「ちょうど、一年くらい前ね。おそらく、車との接触事故だったみたい。だったみたい……っていうのは、相手の車が未だ逃走中だからなの」


 母さんは、表情を曇らせながら語る。


 きっと、苦い思い出なのかもしれない。


「病院で一週間ほど昏睡状態だった後、アナタは意識を回復した。一命をとりとめて安心したけれど、その代わり、アナタは記憶のほとんどを失っていた」

「………」


 抜け落ちた記憶がまばらで、覚えている事もあれば忘れてしまっている事もあったそうだ。


 検査の結果、脳の損傷等は無かったため、おそらく衝撃による一時的な記憶の混濁ではないかと、医師には言われたらしい。


「私は、療養のためアナタを連れてこの街から引っ越した」

「………」


 僕と母さんは、この街に引っ越してくる前、長閑な田舎に近い地域で暮らしていた。


 知らなかった。


 あの場所で暮らす前に、僕は既にこの街で生活をしていたなんて。


 ……俄かに信じがたい……が、母さんは説明を続ける。


「アナタは療養生活中、徐々に記憶を取り戻したり、逆に直近の記憶を忘れてしまったりと、記憶障害が続いたの」

「じゃあ……僕がその事故の記憶や、記憶を喪失していた当初の頃の記憶も無いのは、忘れてしまったから?」

「そういうことになるわね。それからしばらく経って、アナタの記憶は日常生活を送るのに問題のないレベルまで回復した」


 記憶の喪失が原因で、以前に比べて性格が卑屈というか暗いというか……内気になってしまったけれど、それでも普通の生活が送れるまでにはなったそうだ。


「……性格も、変わってたんだ」

「ええ。でも、また何が切っ掛けで記憶の混濁が始まるかわからない。脳に負荷をかけないため、こちらから過去のことを深堀りするような質問はしないようにしていたの」

「……そう、だったんだ」


 この街に関する事も、過去の事も、僕が思い出せないなら自分からは言わないようにしていた。


 そう、母さんは言う。


「そんな中、私は仕事の都合でこの街にまた戻ることになった。その頃には、夜空もほとんど問題無く回復し、通常の日常生活を送れていたので、もう大丈夫だと思ったの」


 そして、僕と母さんは、この街に戻ってきた。


 僕は初めて訪れる場所……新生活の新天地として、この街にやってきたつもりだった。


 しかし、僕がこの街に戻ってきて、失われた記憶が由縁だろう再会を、多くすることになった。


 同時に、この街にいた頃の記憶も取り戻しつつある……のかもしれない。


 先日の、ひかりさんとのバスケ対決や、今日、楓先輩を助けるために不良達に立ち向かった時のことを思い出す。


「そうだったのか……」


 ひとまず、まだ半信半疑な部分もあるが、僕は母さんに質問する。


「母さん、教えて。僕は、昔どんな人間だったの?」

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