第8話 通い妻(1)

 ――翌日。


「………うぅん」


 自宅のベッドの上で、僕は寝返りを打つ。


 カーテンの隙間から差し込む朝日を見て、朝が来たという事実を認識した。


 ……結局、昨夜は一睡も出来なかった。


 ひかりさんとのバスケ勝負の後、帰宅した僕は必死に昔の記憶を掘り返そうとした。


 子供の頃から、今日に至るまで。


 しかし、思い出せない。


 というか、自分の人生の出来事なんていちいち事細かく覚えていない。


 自分は、一体いつ彼女達と面識があったのだろうか?


 ……いや、ところどころ、違和感もある。


 楓先輩は、僕の腹部、臍の下にホクロがあるという身体の特徴を知っていた。


 けれど、春歩さんは僕の料理の好み……卵焼きの味の好き嫌いに関して、間違っていた。


 全てが真実ではなく、ところどころ、やはり勘違いも混ざっている気がするのだ。


 しかし、考えれば考えるほど、八方塞がりの迷宮に陥っていくだけ。


 脳細胞を酷使しすぎたためか、頭が痛い。


 寝不足も相俟って、ズキズキする。


「うぅ……」


 自室を出ると、僕はふらふらとした足取りでリビングへ向かう。


「あら? どうしたの、夜空」


 リビングで朝食を用意していた母さんが、僕の姿を見るや否や驚きの声を上げた。


「顔、途轍もなく真っ赤よ」

「え……」

「ちょっと、椅子に座って」


 言われるまま椅子に腰掛けると、母さんは体温計を持ってきた。


 脇に挟んでしばらく――アラーム音が鳴り、表示された数値を見て、母さんは「あら」と目を丸めた。


「かなり熱があるわね。これじゃあしんどいでしょ」

「熱……」


 どうやら、高熱を出していたようだ。


 なら、このズキズキとした頭痛と体調不良も当然である。


 仕方なし――今日は学校を休むことになった。


「私も休めないか確認するから」

「だ、大丈夫だよ」


 こんなことで、多忙な母にいらぬ心配を掛けるわけにはいかない。


「確かに熱はあるけど、全く動けないっていうほどじゃないし、ある程度身の回りのことはできるから。一日寝て休んでれば、すぐに治るよ」

「本当?」

「大丈夫、大丈夫」


 心配する母さんを、僕は何とか送り出す。


 母さんは「帰れそうなら早く帰って来るから」と言って、仕事に向かった。


 さて……。


 僕は、自室に戻り横になる。


 だいぶ強がったことを言ってしまったが、正直、かなり症状は辛い。


 相変わらず頭痛は止まず、視界もぐるぐるしてきた。


 昨夜、考えすぎて知恵熱でも出てしまったのだろうか?


 ……いや、よく考えてみると、昨日自分は頭を打ったのだった。


 ひかりさんとの、バスケのゲームで。


 あの後から、少し疼痛が残っていた感じはあったのだ。


 やはり、救急車を呼んでもらうべきだったのだろうか。


 過ぎたことを考えても、どうしようもないが……。


「とりあえず……寝よう」


 家に常備していた頭痛薬も飲んだ。


 頭を休めれば、きっと痛みも引いてくるはず。


 それに、何はともあれ、久しぶりに落ち着いた時間を過ごせる感じがするし……。


 そう考えながら、僕は布団に潜り込んで目を瞑った――。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 ピンポーン……。


「……ん?」


 目を覚まし、壁の時計に目をやる。


 時刻は、昼の13時……。


 今、マンションのチャイムが鳴ったような気がしたけど……。


 そう思っていると、もう一度チャイムの音が聞こえた。


 やはり、誰か来ているようだ。


「誰だろう……」


 僕はベッドから起き上がり、ふらふらした足取りでリビングへ向かう。


 このマンションはオートロックだ。


 リビングに備え付けられた受信機で、一階のエントランスと通話する。


「はい……どなたですか?」

『あ、ええと……』


 映し出されたカメラ映像の中で、おどおどしている小柄な少女の姿があった。


 春歩さんだった。


「は、春歩さん!? どうして!?」

『ご、ごめんなさい、いきなり訪ねてきたりして』


 春歩さんが言うには、今日のお昼、教室を訪ねたところ、僕が休みだと聞かされたらしい。


『そこで、思い出したんです。実はこの前、夜空先輩がわたし達の家に遊びに来た時……』

「ひかりさんに誘われた時?」

『はい。あの時、ひかりお姉ちゃんの部屋で、夜空先輩の鞄の中に入っていたメモ帳が、チラッと見えてしまって……』

「え」

『そこに、おそらく夜空先輩の家のものと思われる住所も記載されていたので……ほ、ほんの一瞬、チラッと見えただけですが……』


 引っ越してきたばかりで、まだ自分の家の住所も覚えていない。


 なので、持ち歩いているメモ帳に書き留めておいてあるのだ。


 僕の家の場所を知っている理由は、それか。


「チラッと見た一瞬で、覚えたの?」

『つ、強く印象に残っちゃって……でも、だからと言って何もする気はありませんでしたし、本当に、ただ偶然見えちゃっただけだったので!』


 大慌てで喋った後、春歩さんは呼吸を整える。


『……でも、今日夜空先輩が病欠しているっていう話を聞いて、いてもたってもいられなくて……』

「それで、早引きして訪ねてきた……っていうこと?」

『か、看病させてもらえれば、と思いまして』


 僕は驚く。


 僕が休んでいるという話を聞きつけ、心配してもらえるだけでも申し訳無いのに、わざわざ看病しに来るなんて……。


「どうして、わざわざ……悪いよ」


 そう正直な気持ちを言う僕に、画面の中の春歩さんは微笑む。


『ううん。わたし、夜空先輩に助けてもらったから。今度は、わたしが夜空先輩を助けたいんです』

「助ける……」


 まっすぐ向けられる好意はとても嬉しいし、一生懸命な彼女の姿はかわいらしくて仕方がない。


 しかし、申し訳ないが“彼女を助けた”という記憶に関しては、全く持ち合わせてい

ない。


 おそらく誰かと……もう一人の夏野夜空氏と勘違いしているのだろうけど。


「あ、ええと……」


 罪悪感を抱く一方、弱った体と頭は、情けないほど助けを求めている。


 痛みと怠さで衰弱した僕にとって、春歩さんの来訪はありがた迷惑どころか素直にありがたい。


「じゃあ、その……どうぞ」


 結局、断り切れず、半ば春歩さんに押し切られる形……という免罪符で、彼女に看病をしてもらうことになった。


「台所は……ええと、ここですね」


 部屋に上がった春歩さんは、リビングに併設されているシステムキッチンを確認する。


「夜空先輩、今日は何か食べましたか?」

「いや……朝から何も」

「お腹は空いていますか?」

「まぁ、ちょっとは」


 流石に、朝から何も食べていないので、空腹感はある。


 答えると、春歩さんは「わかりました」と頷く。


「キッチン、お借りしますね」


 春歩さんは、手にしたカバンをテーブルに置く。


「それは……」

「一度家に帰って、色々と食材を持ってきたんです。あと、エプロンも」

「な、何もそこまで……」


 驚く僕の前で、春歩さんは料理をしていく。


 その腕前は、素晴らしいものだった。


 野菜を切る包丁の手捌きも、調理器具を用意していく手際も、適格で無駄が無い。


 思わず、見惚れてしまう。


「あ、夜空先輩は寝ていてください」

「は、はい……」


 まるで母親に介助されているかのような安心感を覚え、僕は言われるままベッドへと戻るのだった。

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