第5話 人違いでは?(1)
結局――先日僕は、彼女達に何も切り出せないまま、何もわからないまま――最後まで楽しく遊んで、美倉家を後にすることとなった。
非常に反省した。
猛省した。
そして、事ここに至り、僕もいい加減にこの怪奇現象の原因に思い至った。
即ち、正解はこうだ。
きっと、三人とも自分を誰かと間違えているんだろう――と。
そう、人違いだ。
とんでもない偶然ではあるが、彼女達三人はたまたま自分と同姓同名、もう一人の夏野夜空と出会っており、その人物と人知れず何らかの親交があった。
その人物――もう一人の夏野夜空氏との間にどんなドラマがあったのかは知らないが、羨ましい事に、もう一人の夏野夜空氏は彼女達から多大な信頼と好意を向けてもらっている。
そして、ひょんな事から彼女達の通う学園に転入してきてしまった僕が、偶然にももう一人の夏野夜空氏と間違われてしまった為、身に覚えの無い理由で彼女達から接近されてしまっている――という状況になっているのである。
なるほど、そうに違いない。
そう考えるのが普通だ。
決して考えるのに疲れたから、適当なゴールラインを決め付けたわけではない。
なので、今日こそハッキリ言おう。
自分はあなた達のことを知りません。
初対面の人間です。
そして、あなた達が思うような人間ではない。
きっと、誰かと間違えているんです。
その人を探してください――と。
先日、家にまでお呼ばれしてしまい、そこで彼女達からの熱烈な歓待を受けた。
しかし、それを受けるべき相手は自分ではない。
彼女達の想いは強くて、それを受けるべきでない自分が受けているということに罪悪感も抱いた。
事実と異なる状況を、正しい方向に向けないといけない。
「夏野君……」
学校にて。
本日、最初に僕の教室を訪ねて来たのは、楓さんだった。
グッドタイミング。
僕は、頭の中で言うべき台詞を整理し、場所を移してその言葉を告げるため、楓先輩に向き合う。
「あの、楓先輩、少々お話したい事が……」
「ちょっと、良いかな」
しかし、僕の蚊の鳴くような声は、彼女の凜と響く美しい声音に掻き消される。
「一緒に来てくれる?」
「は、はい……」
楓先輩の顔、ちょっと怖い。
完全に怯んだ僕は大人しく応じ、先行する彼女に連れられ教室を出る。
向かった先は、校舎の端に位置する用具室だった。
「あの、こんなところで何を……」
用具室の中は、所狭しと教材や掃除用具のストックが詰め込まれている。
いけない行為に浸るカップルが身を潜めるのには最適な場所かもしれないが、こんな場所で楓先輩は何の話があるのだろう。
疑問を抱きながら、僕は扉を閉めた楓先輩を振り返る。
瞬間、楓先輩に密着された。
僕の胸元に、楓先輩が身を寄せて来た形だ。
僕と楓先輩の身長はほとんど変わらない、僕が少し高いくらい。
なので、密着されれば顔の位置はほとんど同じ。
目と目が合う。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
「あ、あの、楓先輩……」
「……ひかりが、休み時間の度に遊びに行ってるみたいだから。捕まらないように、先に捕まえに来たの」
胸に手を当てられる。
夏野君……と、切なそうな声で囁かれる。
「昨日、夏野君がひかりや春歩とばかり楽しそうで……私、胸が苦しかった」
「え……ご、ごめんなさい……」
「本当は、もっとちゃんと伝えたかったけど……我慢できないから、今、言うね」
僕を真っ直ぐ見詰める、濡れた目。
心臓が高鳴る。
瞳の中に宿った熱量、唇の間から漏れる吐息の温度。
いくら鈍感な自分でも、彼女の抱く感情の意味はわかる。
何を言おうとしているのか、わかる。
「か、楓先輩! 待ってください!」
そして同時に、ダメだと思う。
それを、人違いで関係無い自分が聞くわけにはいかない。
「お、落ち着いて僕の話を聞いて下さい!」
「どうしたの? 夏野君……」
「楓先輩は、僕を誰かと間違えているんです!」
今が正にベストタイミングだと思い、僕は事実を伝える。
「か、楓先輩が……その、す、好きな夏野夜空氏は僕ではなくて、別の方なんだと思うんです!」
口下手な自分が嫌になるが、こういう風にしか言い表せない。
楓先輩は、わかってくれただろうか?
「………」
沈黙が流れる。
やがて。
「……お腹……おへその下」
楓先輩が口を開いた。
「え?」
「夏野君のお腹には、おへその下にホクロがある」
楓先輩の手が伸びて、僕の制服のカッターシャツを捲り上げる。
露わとなった腹部、臍の下には、大きめのホクロが一つ。
楓先輩の言うとおりだ。
確かに、僕のヘソの下には目立つホクロがある。
でも、なんでそんなことを楓先輩は知ってるんだ?
当然だが、人に素肌を見せるなんて、そんな機会そうそう無いのに……。
「ほら」
動揺する僕の顔を見て、楓先輩は嬉しそうに口の端を持ち上げる。
「やっぱり、君は私の知ってる夏野君だよ」
楓先輩が、顔を近付ける。
何を――と思う間もなく、彼女は僕の口元に、自身の首筋を寄せてきた。
「こうすれば、思い出す?」
「せ、先輩……」
「におい、嗅いで」
楓先輩は、全身を僕に密着させてくる。
水泳部の朝練があったからだろうか、肌から塩素の香りがする。
「私のにおい……思い出して」
淫靡で背徳的な空気が漂い始める。
全身の血流が速度を上げ、体温が上昇する。
何が何だかわからなくなってくる。
「か、かえで――」
そこで、用具室の扉が開いた。
入って来た生徒二人は、授業で使う道具を持ちに来たのかもしれない。
扉を開けた瞬間、僕達二人が密着している光景を見て、絶句した様子だ。
楓先輩も、ビクッと体を揺らして停止している。
(……い、今だ!)
僕は楓先輩の手を掴んで、慌てて用具室から飛び出す。
「失礼します!」
そして、楓先輩と廊下の途中で別れ、教室へと逃げ帰った。
とりあえず、一時難は逃れた……のかな。
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