side story 九条麗舞 前編
昼にビールを飲む。
これ以上に気持ちのいいことはない。
昼の生温い風を感じながら、キンキンと冷えたビールを流し込むと、
断言できるし、私の全財産を掛けてもいい。
世の中では『セックスが最高の快楽だ!』と持てはやされているけど、あれは相手が必要だ。
相手を用意して、その気にさせて、色々と気を遣いながらことに挑まないといけない。
それに責任とか病気とか、色々と問題が付きまとう。
正直、かなり面倒くさい。
その点、ビールはいい。
何も考えなくていいから。
純粋にのど越しを楽しんで、ほどよく酔えばいい。
そうしたら小便として排泄されて、お別れだ。
後腐れがなくて、とても気楽だ。
代償は肝臓が悪くなるのと、二日酔いぐらい。
正直、代償にもなっていない。
私の体なんて、どうなってもいい。早く壊れても問題はない。
病気になっても、うまく生きていける自信がある。
そう思っていた。
◇◆◇◆
事の発端は、親友にして最愛の人――八箇徳美の記憶喪失。
正確には、幼女退行までしてしまっていた。
私はその事実が信じられなくて、徳美の病室へと駆け込んだ。
「……ぁ」
一目見た瞬間、違和感を覚えた。
姿形は完全に徳美なのに、仕草や表情が明らかに違う。
目の前の女性は、もう徳美じゃない。
「お姉ちゃん、だれ?」
その一言が、どれだけ残酷だったことか。
自分の耳が壊れているから取り換えよう、と真剣に考えてしまったほどだ。
でも、いくら耳を引っ張っても取れなくて、痛みのせいで現実感が増してしまった。
徳美が私のことも忘れてしまった。
この絶望感をどう表現すればいいだろうか。
まるで世界中から忘れられたみたいな喪失感?
自分の全てを否定された気分?
一番似ているのは、母親に「なんであんたは生きてるの?」と言われた時の衝撃だろうか。
いや、それ以上だったかもしれない。
つい、考えてしまう。
(まだ、徳美が死んでいた方が気楽だったかもしれない)
もしそうなっていたら、私のことを最期まで覚えていてくれたことになるから。
(最低だけど、これが私だ)
『彼女が生きているだけでいい』なんて綺麗ごとを言うつもりは、これっぽっちもない。
私が好きだったのは『私の徳美』だ。
私のことをいっぱい知っていて、私のことを救ってくれて、私とたくさん時間を共有して、私と笑いあった徳美が、本当に愛おしかったんだ。
一緒にいた時間があって、思い出があって、信頼や友情を築いた積み重ねがあったからこそ、愛情を育んでいた。
もう一度その積み重ねを築き直せばいい。
たしかに、かもしれない。
でも、どれだけの時間と労力がかかる?
その間に、認識の違いでどれだけ苦しめばいいの?
なんでそんな苦しみを耐えて、また好きにならないといけないの?
私には理解ができない。
ふと、ある人物の顔が浮かんだ。
全く理解できない狂人。
(私が冷徹なんじゃない。
純玲――あいつは異常だ。
一度フラれたくせに、娘として転生して、記憶喪失になった徳美を支え続けている。
愛に狂っている。
無償で不変の愛なんて、依存よりもよっぽどヤバイ。
まあ、あいつのことなんてもうどうでもいい。
もう会うことはないだろう。
(やってられるか、こんなクソ人生)
そして、私はやけ酒を
朝起きたらビール。
昼もビール。
寝る前もビール。
仕事中もビール。
トイレでもビール。
常にほろ酔いだった。
そうすることで、気分を紛らわせていた。
ここまでしないと辛さを忘れられなかった。
気絶しないと、眠れなかった。
ビールを飲んで、仕事して、ビールを飲んで、気絶する。
そんな毎日を過ごし続けた。
結果は当然。
肝臓を壊してしまった。
最初は『それでもなんとなる』と楽観視していた。
若いんだし、病気なんてすぐに完治して、元に戻れると思っていた。
でも、そんな優しいものじゃなかった。
肝臓が壊れてからの生活は、まるで亀のようだった。
ずっと体に倦怠感が付きまとっていて、少しのことで息切れするようになった。
動き出すまでに時間がかかって、動き終わってからも一息つかないといけない。
すべての行動に、大きなコストがかかってしまう。
例えば洗濯。
健康な時は、洗濯機に服や下着を突っ込んで、回している間に掃除をして、パッパと洗濯物を干すことが出来た。
全部合わせて、1時間かからなかっただろう。
病気になってからは、全然違う。
洗濯機に衣類を入れた後、疲れて休憩する。
洗濯機が止まっても、すぐに取り出すことができない。
干すのにも時間がかかって、洗濯物を伸ばすのも億劫になる。
周囲からは怠けているだけ、と見えるかもしれない。
でも、実際に体が動かない。
いくら心や体を叱咤しようとしても、思い通りになってくれない。
体と心は繋がっていることが、よくわかる。
無理やりに体を動かそうとすると、頭がクラクラして吐き気がしてしまう。
結果、生きるだけで時間のほとんどを使うようになってしまった。
趣味の時間なんてまともに取れない。
一日がすごく長いのに、空っぽのように感じるようになった。
毎日を無駄に消費している気分。
(なんか、生きている感じがしない)
たった2つだけの趣味。
徳美と、ビール。
今は両方を失っているし、果てしない喪失感が襲ってくることがある。
多分、心も病んでしまっている。
(あー。しんどい)
私は気分転換をするために「よっこいしょ」と立ち上がった。
足が重いけど、なんとか歩ける。
部屋を見渡すと、酷い有様だ。
キッチンには大量の洗い物が溜まっている。
洗濯ものだって畳んでいなくて、山積みになっている。
ある程度ゴミは片付けているけど、それでも健康な時では考えられない程に散らかっている。
私はゆっくりと歩いて、タンスを開けた。
奥の方から、一冊の日記を取り出す。
表紙にはこう書かれている。
『徳美と私のラブラブ日記』
ハートとか、デフォルメされた絵が所狭しを書かれている。
女子中学生かよ、と思わず突っ込みたくなってしまう。
(流石に、これは徳美に見せられない)
もしかしたら、 見せたら記憶を思い出しただろうか?
……いや、ありえない。
これは私の想いを書きなぐっているで、ほとんど事実は書かれていないから。
日記を開くと、最初の一文が目に入る。
『私は天使に会えた』
ぞわっ、と鳥肌がたった。
「うわ、恥ず」
文字が普段よりも丸くなっていて、当時の自分がどれだけ浮かれていたかがわかる。
(まあ、それだけの衝撃だったけど)
あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
突然の天気雨。
またの名を、キツネの嫁入り。
私の新しい人生のスタート地点。
死んだように生きていたのに、一気に息を吹き返した。
あの日は本当の嫁入りみたいに、大切な日。
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次回は7/21夜~22朝に公開する予定です
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