第11話 初雪の微笑

 私は母を突き刺すことはできなかった。

 それどころか、あのとき腹の底から湧き出た怒りや殺意は時間と共に萎れてなくなり、残ったのは抜け殻のような体だけだった。

 私は婦人科に連行され、医師に体を触られ、変な機械を入れられ、痛くて、苦しくて、惨めでみっともなくて、結局、何の病気にもかかっていなかったし、当然妊娠もしていなかった。

 スマホはデータを初期化され、使えるアプリに制限をかけられて、位置情報を母親に送信し続けるアプリをインストールされた。休日は一切の外出を認められず、押し付けられた参考書や、自宅から近い大学の看護学部の入学試験の過去問を、自室で開いて眺めるだけだった。

 何も頭に入ってこない。何も考えられない。何も感じない。

 頭には霧がかかったようで、手足は重く、制御できない涙が流れたり、流れなかったりして、私は呆然と息をしていた。

 母は何事もなかったかのように、毎日料理を作ってくれたり、何気ない雑談を振ってきたりした。まるであの日の記憶が全てなくなったかのようだった。

 私が悪かったのだろうか、と思った。

 一回り以上離れている男性と、連絡先を交換したこと。信用して、何度も二人きりで遊びに出かけたこと。遊ぶお金なんて本当はないのに、そのお金で参考書でも買って勉強するべきなのに、毎回先生に奢ってもらうのが申し訳なくて、自分のお小遣いを何度か使ったこと。それらの全てを、母に隠していたこと。

 私が悪かったのだろうか。

 知らない男性だったら、ついていかなかった。連絡先も教えなかったし、遊んだりすることもなかった。信用できると思ったからそうしただけで、何も考えずに、ふらふらついていったわけではない。使ったお金だって微々たるものだったし、確かにそれは自分で稼いだお金ではなかったけれど、私は毎日学校に通っていたし、成績だって悪くはなかったし、子供として、学生として、するべきことはしていたつもりだった。

 それでも、私が悪かったのだろうな、と思った。

 だって、まだ、子供だから。学生だから。未成年だから。

 親に、従わない方が、悪い。

 ただ、一つだけ。

 先生がかつて中学校の先生だったということを、誰にも話したりしなかったことだけは、自分のことを偉いと思った。それだけは褒めてあげてもいいと思った。

 もう、連絡を取ることもできない、先生。会うことも話すこともできない先生。きっと、未成年の、元教え子と遊んでいたことがバレてしまえば、大変なことになる。新しい会社への就職も、取り消しになってしまうかもしれない。

 私たちは、何でもなかった。何にもなかった。

 ただの、元教師と元生徒だった。

 先生が、どこかで幸せでいてくれればそれでいいと思った。

 就職が上手くいって、親とは一生連絡を取らないままで、お金を稼いで、そのお金を自分で自由に使って、そのうち友達ができて、恋人ができて、子供ができて、家族でお花見なんかをすればいいと思った。でも、別に生涯独身でもいいなと思った。先生は、たぶん、結婚なんかしなくても、一人でも、十分楽しく生きていけるような気がした。

 苦しかった。寂しかった。

 けれど、先生が穏やかに幸せに生きていてくれることを想像することが、私の心の、微かな希望だった。支えだった。先生のいる世界なら、悪くないと、思えた。


 魂が抜けたようにして学校に通い続ける私の、二学期の期末試験での成績は酷かった。

 今まで先生と出かけていた時間を全て勉強に費やしたのだから、成績は上がってしかるべきだった。けれど、上がるはずはなかった。今まで授業で生じていた疑問や不明点は、全て先生に質問して教わっていた。それがもうできなくなった。それどころか、授業を聞いていても、自習していても、まるで頭が動いていないのが自分でもわかった。

 母は当然怒った。けれど、まだ間に合うと思っているようだった。

 中学の頃も、三年生の一年間、受験勉強を頑張っただけで高校に受かった。と、母は思っている。だから、高校三年生でもっと頑張れば、大学受験も大丈夫だろうと。だから、三年生になれば、今以上に監視の目は厳しくなるはずだった。

 私は何もかもがどうでもよくなった。看護師になる気はもう既になかったし、そもそもなれるとも思っていなかったし、だから、母が指定する大学に落ちてもどうでもよかった。最終学歴が高卒でも別にいいと思った。

 本当に行き詰ってしまえば、母を殺して、私も死ねばいいと思った。それでいいと思った。

 あの時の爆発的な殺意はもうどこかに行ってしまったけれど、その選択肢が目に入ったことは、私にとっては救いだった。

 だって、どうせ一生見張られて、どうせ一生怒られるのだ。そんな人生、何の意味が、何の喜びが、楽しさが、あるというのだろうか。何もない人生なら、なくていいし、ない方がよかった。

 二学期の終業式のあと、冷たい外気を浴びながら俯いてとぼとぼと帰路を歩く私の目の前に、影が覆い被さった。

 危うくぶつかりそうになり、慌てて踏みとどまり、顔を上げた。

 先生だった。

 ……先生、だった。

「阿原さん」

 懐かしい声だった。ほんの数か月会っていなかっただけだが、その、静かで、穏やかで、冷たく美しい声は、先生のものだった。

「せ、ん、せい……」

 呆然と、その顔を見上げる。

 瞳は変わらず凪いでいて、顔はほとんど無表情で、けれど、僅かに、先生は怒気をはらんでいるように思えた。

「阿原さん」

 先生は、両手で私の両腕を掴んだ。声にも顔にも見合わない、強い力だった。

「僕に、依存しては、いけませんよ」

 先生はそう言った。

「あなたは、僕なんか、そして親なんかいなくても、大丈夫な人です。頭が良い。洞察力もある。想像力もある。だから、大丈夫だ。勉強をしなさい。将来、何がしたいか考えなさい。僕がいなくても。親がいなくても。誰がいなくても。あなた自身が、どうやって生きたいか、考えなさい」

 冷たい風が、私と先生の間を、びゅうと吹いた。

 髪が頬に張り付き、目に被さり、先生の姿が一瞬見えなくなる。

「あなたはあなたの、好きなことをしてください」

 いつかにも聞いた言葉だった。聞き覚えのある言葉だった。

 風が止み、髪を払って、先生を見上げる。

 こちらを見つめる先生と、視線が合う。先生は真剣な顔をしていた。

「あなたは来年成人して、そしてすぐに高校を卒業する」

「……はい」

「そしたら、僕と、結婚しましょう」

 再び強い風が吹いた。雪が降りそうな寒さだった。

「今、もう少し、時間はありますか」

「いえ……位置情報が……」

「では、これを」

 先生は私の手に、横長の封筒を握らせた。

 そして、そのまま、何も言わずに去っていってしまった。

 私はしばらく放心状態で立ち尽くし、そして、帰らなければと思った。鞄を開いて、入れっぱなしにしていた教科書を取り出し、適当なページに封筒を挟み込む。教科書を鞄に戻して、私は歩き始めた。

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