第10話 台風、稲妻、世界の終わり
先生が難しそうなパソコンの資格を取得して、ようやく就職先が決まろうかという頃、今度は私の方に大学受験という現実が迫ってきた。
高校二年生の秋は、既に志望校を決定しているような生徒と、受験はまだ先だとまったり過ごしている生徒の両方が教室にいた。割合で言えば、後者が多い。私も気持ちとしては後者なのだが、母は既に受験する学部を指定済みであったし、大学にも目星をつけているようだったから、なんとなく受験モードのようなものが家の中では漂いつつあった。
中学生の頃のように、リビングテーブルの上に大学のパンフレットが置かれるようになった。ついこの間、高校受験をしたばっかりのように思えたが、あっという間に時は進んでいるようだった。
かつて、私がまだ中学生だった頃、時の流れはもっと遅かった。
毎日が同じことの繰り返しで、息苦しさも毎日同じようにやってきて、早く早く時間が過ぎるよう祈りながら、私は薄い日々の上を這うしかなかった。
高校生になって、とりわけ先生と休日に出かけるようになってから、時の流れが急激に加速したように思う。
平日は、次に行きたい喫茶店や飲食店のことを考えながら授業を受けて、わからないところがあれば週末にまとめて先生に聞いてみようと質問の要点をメモしたりしていた。休日になれば、先生と好きなお店に入って、先生はいつでも甘いものを注文するからそのことに毎回笑い、わからない問題の解説を聞いたり、なんでもないような話をずっとしていたり、時には沈黙を分け合ったりして、時間はあっという間に過ぎた。
先生はかつて理科教師であったが、実際は得意科目も苦手科目もないようで、学生時代はものすごく成績が良かったであろうことが簡単に想像できた。私のどんな質問でも、あっという間に把握して、いつだってわかりやすい解説をすぐにしてくれた。
そんな日々を過ごしていたある日、学校終わりに家に向かい、いつもどおり玄関扉を開けると、そこには見慣れたパンプスがあった。何年も前から母が愛用しているそれは、いつも通り、玄関の隅に綺麗に並べられていた。いや、いつも通りではない。母が帰宅するには、まだ早い時間だった。
何かあったのだろうか、具合が悪くて早退したのだろうかと考えながらリビング入口のドアノブに手をかける。
そっとドアを開くと、こちらに背を向けてソファに座る、母の背中があった。
リビングは電気がつけられていなかった。カーテンが開け放されているから、もうずいぶん短くなりつつある日の、最後のひとしぼりのような光が窓から差し込んでいて、ぎりぎり生活はできそうな明るさであった。ソファの正面にあるテレビは電源が切られており、真っ暗な画面は母の顔を反射しそうでしていない。空調も扇風機も、何も稼働していない室内は静まり返っていて、母の息遣いも聞こえず、私は、私の心臓だけがばくばくと音を立てているのを感じた。
心臓が痛くて、血管が痛くて、耳の内側にごうごうとした血液の流れを感じる。手のひらと足の裏から汗が滲み出るのがわかって、息が、呼吸が、苦しくなる。
これは、怒っているときの、母だ。
「……ま」
ただいま、と言ったつもりだったが、上手く声になっていなかった。
私は動いていいのかどうかわからなくて、片足をリビングに踏み入れた体勢のまま固まる。母が私の帰宅に気付いているのかどうかわからなかった。いや、玄関扉の開閉の音が聞こえているはずだから、気付いていないわけがなかった。
震える手で、リビングの入り口にある照明のスイッチに手をかける。
ぱちん。音がして、電気がついた。
片手で鞄の持ち手を握りしめながら、次はどうしようかと考えていると、首だけがこちらを振り返った母と目が合った。
一瞬、時が止まる。ああ、このまま、心臓も止まればいい。
怖い、嫌だ、何もかもが。止まって、心臓。お願い。今、この場で。もう、死にたい。消えたい。許して。どうか。
「柚里香」
母が私の、名を呼ぶ。
「こっちに来なさい」
私の願いは、叶わない。
「あなた、最近、休日どこに出かけているの」
ソファに近付くことができず固まったままの私に、母は立て続けにそう言った。私はその言葉をすぐには理解することができず、数秒置いてから、先生のことを言っているのだと気が付いた。
「ここ最近ずっと、週末になると出かけているわよね。高校のお友達って言っていたけど、本当なの」
「あ……、そう、友達……」
「高校の友達に、三十代くらいの男の人がいるの」
母の眼光が、私の眼球を貫く。
確かに、ここ一年ほどで、先生と私はたくさんの飲食店を回った。それは徒歩のこともあったし、バスを使うこともあったが、ほとんどの場合そう遠くへは行かなかった。私たちはこの町を歩きすぎた。誰の目に留まっていてもおかしくなかった。
「高校に……、入ってから、友達になった人で……、同級生、では、ない」
それは当初の説明と相違なかった。私は、高校に入って友達ができたから、その友達と遊びに行くと伝えていた。
嘘ではなかった。本当のことだった。でも、本当かどうかは、どうでもよかった。少なくとも、母にとっては。
「本気で言ってるの?」
「…………」
息が、苦しい。
「休みの日に、その三十代の男と会って、何をしてるの? ほら、この人でしょ?」
母が、スマホの画面をこちらに向けた。
遠くてよく見えなかったが、それは私と先生が並んで歩く、後ろ姿のようだった。
母ではない。母の知り合いが、私たちを見つけ、後ろからこそこそと写真を撮り、母へと密告したのだ。あなたの娘さん。この間見かけたわよ。知らない男と歩いてたわよ。随分年上の。
「何してたの? 一緒に遊んで何してたの? 手でも繋いで歩いたの? それとも体でも売ったの? 今流行りのパパ活とかいうやつ?」
その瞬間、全身の血が、頭にのぼったのがわかった。
同級生の女の子と遊んでいるかのように、誤魔化して伝えた私が悪かった。誰かに見咎められることを、徹底的に回避することができなかった私が悪かった。いつかはバレるかもしれないと心の底では思っていた。詰めの甘い私が悪かった。考えの足りない、私が全部、悪かった。
でも。けれど、けれど、けれど!
「そんなことしない!」
生まれて初めて出したくらい、大きな声だった。
お腹の中の空気が、塊で口から飛び出してきたみたいだった。
腹筋が震えて、指先が痺れて、耳の中でビリビリと音が鳴り、顔が、頭が、燃えるように熱かった。
「友達が年上の男の人で何が悪いの! 友達と一緒に出掛けて、一緒にご飯を食べることの、何が悪いの! 私が、私が、どんな友達と遊ぼうが、関係ないでしょ!」
家の外まで聞こえていたかもしれない大声だった。ほとんど絶叫だった。
そんなつもりはなかったのに涙が溢れ出た。悔しくてたまらなかった。
袴田先生が、私に、そんなことを、するはずがない。
するはずがないのだ。
「関係あるに決まってるでしょ。私はあなたの親なのよ」
母は静かな声でそう言って、私を睨みつける。
「そうやって大きい声出して、父親にそっくり。怒鳴ったってどうにもならないのに。後ろめたいことがあるからそんなふうになるんでしょ。そうやって、自分の感情も制御できないような子供が、大人の男と何を遊ぶって言うの? 普通の母親は心配するわよ。そんなこともわからないの?」
「何も悪いことしてない! お母さんにあの人の何がわかるの? お母さんに私の何がわかるの?」
「あんたのことなら私は何でもわかるわよ。親だもの。あんた程度が考えることなんて、手に取るようにわかる」
「わかんないよ!」
「中学で友達ができなくて、高校でも友達ができなくて、コンプレックスの塊で、そんなときに知り合って優しくしてくれた男がいたから、ほいほいついていったんでしょ? 私のことをわかってくれるのはこの人だけだーとか、私の居場所はここだったんだーとか思ったんでしょ?」
「おも、って、」
「婦人科の病院に行くわよ。今予約するから。それから、今後は、休日は外出禁止だから。平日も当然寄り道禁止。位置情報を追跡できるアプリをスマホに入れなさい。その男とは、二度と連絡を取らないように」
スマホを操作する母親の姿が涙で滲んで、私は肩で息をしながら、カウンターキッチンの方を見た。
走れば二秒で手が届く。私の方が速い。収納扉を開けて、それを取り出して、握りしめて、母がすぐに立ち上がろうとしても、背中はまだこちらを向いている。私の方が速い。
黙らせる。今すぐに。
言葉が通じないのだから、仕方がない。
どうして死のうなんて考えたんだろう。どうして死にたいって悩んだりしたのだろう。別に私が死ぬ必要はない。代わりに、死ねばいい人が、ここにいる!
キッチンの方へ踏み出そうとした時、母が「もしもし」と言った。
電話だ。病院に電話をしている。
スマホを取り上げて、床に叩きつけてやろうと思った。私は処女だった。婦人科になんて行ったって仕方がなかった。私には何もなかった。私には何もない。
何をすべきか、今何をすべきか、頭の中でものすごいスピードで考えたけれど、結局母が通話を終えるまで、私はただの一歩も動けていなかった。ただ、その場で突っ立っていただけだった。
「明日の午前中で予約できたから。明日は学校休みなさい。お母さんも有給を使うから」
ソファに座ったまま振り返った母の、全てが憎いと思った。
「私……わたし……」
「何?」
「私、そんなこと、してない。処女だし、なにも」
「だからそれを確かめに行くんでしょ。別に処女ならそれでいいわよ。これを機に検査しておけば安心でしょ。処女でも病気になることあるんだから」
「じゃあ、じゃあ、私が処女だったら謝って。性病とか、妊娠とか、何もなかったら謝って。土下座して」
「はあ? ……親に向かって、何言ってるの?」
「疑ったんだから謝って! 疑って、決めつけて、濡れ衣を着せたんだから、それが間違ってたなら謝るのが普通でしょ!」
「疑われるようなことをするのが悪いんでしょ? あんたが知らない男とふらふら遊んでるから疑われてるのよ。自分が間違ったことをしてるのを棚に上げて、心配してもらってるのに土下座しろ? あんた何様のつもり?」
母の眼光は依然鋭かった。全身から威圧感が発せられていた。恐ろしかった。
けれど、負けない、と思った。瞳孔が開いているかもしれないと思った。頭がおかしくなっているのかもしれなかった。それでもよかった。殺してやる、と思った。
「男女が二人でいるってだけでそういうことを想像する、お母さんの頭の中がいやらしいんでしょ! 誰もそんなことしてないのに、勝手に卑猥な想像して、頭おかしいよ! どうかしてる! 何が母親よ、気持ち悪い! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」
家が揺れるくらいの大声を出して、それでも母は怯まなかった。
母はそれ以上何も言わず、ただ、ゴミを見るような目でこちらを見ていた。
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