第3章
第9話 花筏沈みて
先生の予想通り私は希望する高校に合格して、入学して、そこそこの成績を修めつつ、そうして二度目の春が来た。
一年生の夏の終わりに連絡先を交換してから、先生とは定期的にお茶やご飯に行く間柄になった。何をするでもなく、私と先生は、好きなものを飲んだり食べたりして、どうでもいいような話をして、たまに遠くまで歩いて新しい飲食店を開拓したりもした。
その日も私たちは、なんとなく入ったチェーン店のカフェで、それぞれ期間限定の桜コーヒーとカフェモカを飲みながら、二人してぼんやりと窓の外を眺めていた。
「お花見っぽい人が多いですね」
「ええ」
「親子連れが多い気がします」
「そうですね」
通り行く母親がまだ幼い子供を抱っこし、父親は上の兄弟であろう子供の手を引いて歩く。春の柔らかな日差しが笑顔の子供のすべすべの頬の上で光り、その光景は幸福の象徴であるかのように思えた。
「二十代くらいの親御さんが多いですね」
「……もしかすると、それは僕に対する嫌味でしょうか」
「ええ……、全然そんなつもりはなかったのですが、気に障りましたか」
「いえ。まあ、同年代はほとんど、結婚して、家を買い、子供を持ち、今日のような晴れた日は……家族みんなでお花見に行っているのだろうなあ、とは思いますが。普通はそうなのだろうな、と」
「一方先生は……」
「やめましょう」
先生は、少し前に「そろそろ厳しくなりますね」と他人事のように呟いた後、ゆったりとしたペースで就職活動を始めたようだった。なんでも、総資産としてはまだ余裕があるものの、使えるお金としては不安が出てくる額面になってきた、とのことだ。よくわからなかったが、先生のことだから、困窮の直前になって慌てることはないだろうと思った。
就職活動が上手くいっているのかどうかはわからないが、少なくともまだ、就職先の目途は立っていないようだった。
「やはり、三十代も半ばで、独身でいることについて世間の目は厳しいのでしょうね」
「そうなんですかね」
「僕は親から、就職はまだか、と結婚はまだか、を同時に追及されますよ。就職しないことには結婚はまずないというのに」
「それはそうですね……。就職したら、婚活とかするんですか。今はアプリとか、色々あるらしいですよ」
先生は、あからさまに嫌そうに眉間にしわを寄せて、深い溜め息を吐いた。慣れてみれば、案外わかりやすい表情のある人だということに最近気付いた。
「……億劫ですね……」
「結婚願望は」
「ないのですが、このまま一生独身というのも……なんだかみじめに感じてしまいますね」
「そうですね。傍から見れば、結婚しないのか、結婚できないのかはわかりませんからね。なんか……負け組、みたいなふうに言われたりもしますし」
「阿原さんの言葉は、たまに刃のようですね……」
「あっ、すみません」
正直、私も結婚願望というものはあまりなかったし、幸せな家庭のようなものを上手く想像することもできなかった。結婚の必要性、というのも、世間体と孤独死への恐怖以外は思いつかない。ただ、先生の場合は、探せばそれなりの相手は見つかるのではないかとも思えた。
「でも、こう、安定した会社に就職して結婚して子供を産んで、親を安心させましょう! みたいなのは……ちょっと腹が立ちますよね」
「煩わしいですよね」
「親が求めているのは、安心というよりも、刺激と娯楽なんじゃないかとも思いますし……」
要望通りの高校に合格し、毎日通い、テストでも悪くない成績を修めているというのに、最近の母は妙に機嫌が悪いことを思い出す。
思い通りに事が進まなければ当然怒るのだが、そうでなくても、毎日何かしらの不満は生じているらしい。母を喜ばせるには、楽しく、刺激的で、目新しい何かが必要だった。それが母の自尊心を満たすものであれば、なお良い。
私の中で、母の機嫌を取りたい気持ちと、そうでない気持ちが争い合っている最中、チャカチャカとスマホが騒ぎ始めた。デフォルトのままのその着信音は、先生のスマホのものであった。
私は無言で、どうぞ、と片手を先生に向けた。先生が「失礼」と断り、通話ボタンを押す。
「はい。……はい。……ああ、はい……。…………。いや、前にも言った通り、もうすぐ資格を取得できるから……はい。……はい。ああ……どうかな。確かに公務員ではないから……いや。父さんや母さんに迷惑をかけるようなことは……」
そこまで聞いて、実家からの電話だということに気が付いた。漏れ聞こえる声が男性のものなので、おそらく、父親からの電話ではないだろうか。
「……それは、申し訳ないと……」
無表情で受け答えをする先生の瞳は相変わらず凪いでいて、けれど表情はいつもよりずっと暗いように思えた。話し口調は普段よりも少しだけ砕けていたが、声のトーンは限りなく他人行儀だった。
私も、母と話すときは、こんな顔で、こんな声でいるのだろうか。
「それは……、いや、問題なく生活できてるから。大丈夫。……こちらのことは、こちらでなんとかできるから……」
向かいに座る私にも聞こえるくらい、大きな声がスマホから飛び出す。恥さらし、とか、お前はそんなんだから、とか、いつまで経っても、とか。身の周りに五十代や六十代の男性があまりいなかったこともあり、その罵声は、私にとって恐怖の塊に思えた。無意識に身が竦む。
先生がしばらく黙り込んでいると、突然スマホの向こうから声が聞こえなくなった。
私が聞き耳を立てているような立てていないような表情でコーヒーを飲んでいると、先生はスマホを耳から離し、袖口で画面を拭った。通話は終わったようだった。
「すみません、お恥ずかしいところを」
俯きながらそう言う先生の声は、掠れていた。
「恥ずかしくないですよ」
私はほとんど何も考えずに、そう口にしていた。
「恥ずかしくないです。親が……おかしな人なのは、子供が恥ずべきことではないと思います。なので……大丈夫ですよ」
耳をそばだてていたことが完全にバレてしまう発言だと思ったが、構わなかった。今、私が言わなければならないと思ったし、今、ここにいる私にしか言えないことだと思った。
「大丈夫ですよ」
もう一度そう言うと、先生は、へにゃりと笑った。牛乳をこぼしてしまった子供のような、情けない顔だった。初めて見る顔だった。
「ありがとうございます」
先生はそう言って、ストローでカフェモカを吸った。グラスの中の氷がカラリと音を立てて、カフェモカの水位がぐんぐん低くなる。攻撃を食らった先生のヒットポイントがぐんぐん減っていっているように思えて怖くなった。逆ならいいと思った。甘いもので、先生の体力が、何もかもが、回復するならいいのに、と。
「勝手にしろ、だそうですよ」
全てのカフェモカを吸い込んだ先生がそう言う。
「……勝手にしますよ。僕は。今までも勝手にしていたわけですし」
言いながら、先生がスマホを操作する。画面の上で指を滑らせて、叩いて、滑らせて、一通りの操作が終わると、先生はスマホを胸ポケットではなくテーブルの上にコトンと置いた。
「着信拒否にしておきました。アプリ上でもブロックしましたし、これで向こうからはもう連絡はとれないと思います。共通の知り合いも別にいませんし、職場に電話をかけるなんてこともできませんし」
先生は早口でそう言った。
「……お疲れさまです」
「僕は勝手にします」
「そうですね。それがいいですよ。……先生が仕事を辞めたのも、ある意味で伏線だったんですね。情報を与えずに連絡を絶つという意味で。先生は策士ですね」
私がそう言うと、先生は少し考えて、その後神妙な顔で頷いた。
「僕は策士なので」
その返答に私が少し笑うと、つられて先生も、少し笑った。
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