第8話 穴熊出づる、春

 三年生になっても、結局私は、毎日教室に通えるようにはならなかった。

 それでも、週に一度は教室に行くようになったし、そうでなくてもほとんど毎日学校には向かうようになった。

 教室で授業が受けられるようになったのは、クラス替えと共に、私が一番苦手としていた生徒とクラスが離れたからというのが理由として大きかった。その生徒は、今は隣のクラスで大きな声を出しているようだったが、少なくとも私のクラスまでやってきて大暴れするようなことはなく、相変わらず荒んだ空気はあるものの、二年生の時ほども絶望的な雰囲気の教室だとは感じなかった。

 相変わらず、冷たい目を向けられたり、あからさまに避けられたりすることもあったが、水をかけられたり聞こえるように悪口を言われたりするよりは、まだ我慢ができた。

 暗黙の目標とされていた通り、テストではそれなりに良い点数を取ることができた。もともと偏差値の高くない学校だったから、そう考えるとこの点数は決して良いとは言えないのかもしれないが、それでも、数字だけ見ると悪くはないように思えた。

 母が黙って高校のパンフレットをリビングに置いたりするようになって、それがいつの間にか赤本に変わって、私も黙って高校入試の過去問を解くようになった。特段行きたいわけでもない、どうやら理系に少し強いらしい公立高校に、私は行くことになるだろうと思った。

 母の希望通り看護師になるかどうかは、まだ考えてはいなかった。ただ、ならなくてもいいのではないか、と考えるようにはなった。それを母は怒るかもしれないが、それでも。怒られるのは嫌だったし、怖いと感じるのは変わらなかったけれど、それでも、「絶対」ではないと思えるようになった。

 その変化は、間違いなく、袴田先生の助言のおかげだった。


 三年生の三学期が始まったばかりの頃、隣のクラス、袴田先生のクラスの様子がおかしいらしいという声が耳に入った。

 どうやら、私が苦手だと思っている声の大きな気の強い男子生徒と、そのクラスの学級委員長である女子生徒が揉めているらしかった。その女子生徒は、この学校では珍しく、品行方正で、成績が良いタイプの生徒だった。おそらく、素行の悪い男子生徒を、その女子生徒が注意するような形で対立構造になったのではないかと想像した。

 お行儀が良くない学校なりに、一応、三年生の三学期ともなれば受験ムードが漂っていた。それなりの高校へ進学するためにしぶしぶ受験勉強に励む生徒も多かったが、中には、高校に行く気はないといわんばかりに授業妨害をするような生徒もいた。

 そうなると、クラス内で対立が起こってしまうのも無理はなかった。

 日に日に険悪な雰囲気となっていく隣のクラスを、多くの生徒や、あるいは教師までもが避けるようになった。触らぬ神に、とでもいうように、ほとんどの人は見て見ぬふりをした。

 当然、そんなふうに振る舞えなかったのが、担任である袴田先生だった。

 先生は相変わらず、喜怒哀楽を剝き出しにすることなく、淡々と授業をしたり、騒ぐ生徒を注意したり、生徒の進路相談に乗ったりしていたようだった。時にはクラス内の対立に板挟みになり、クラスの生徒の不満や愚痴を一身に受けることもあるようだった。

 私は袴田先生を気の毒にも思ったが、先生ならなんとかするだろうと漠然と考えていた。それは、上手く問題を解決してクラスをまとめ上げるだろう、という期待ではなく、卒業までそつなくこなすんだろうな、という信用のようなものでもあった。

 しかし、私の予想に反して、卒業を目前にした二月、先生のクラスで大きめの問題が起こった。

 件の男子生徒が、学級委員長である女子生徒に、暴行を働いたらしい。具体的に言うと、顔を一発殴って、その後スカートを引きちぎり、服を脱がして乱暴をしようとしたらしい。

 それは全ての授業が終わった放課後であり、部活を引退済みの三年生の生徒のほとんどが既に下校していて、私も保健室を後にしようと思っていた頃に起こった出来事だった。職員室から色んな教師が慌ただしく出たり入ったりしていて、廊下を駆ける教師がいて、悲鳴を上げる教師もいた。

 その問題がどういう過程でどういう結論になったのかはよくわからなかったが、その日以降、その男子生徒が学校に現れることはなかった。

 卒業間際だったこともあり、親や警察や教育機関を交えた話し合いになることはなかったようだった。どちらの生徒の親も、そして教師たちも、穏便に事を済ますことを望んだのかもしれなかった。

 そして、そのことを袴田先生がどう思っているのかを聞く機会が訪れることもなく、私は卒業式を迎えた。

 卒業式の当日、無駄に長い式典が終わった後に、一緒に写真を撮る友達がいるわけでもない私は、高校の合否発表のことを考えながら、母の待つ正門に向かっていた。その途中、長い渡り廊下で、一人で佇む袴田先生を見つけた。

 声を掛けたい、と思ったが、丁度いい言葉が思い浮かばなかった。こんにちは、と言うのも違う気がしたし、いきなり大丈夫ですか、と聞くのもおかしいように思った。

 立ち止まって考えているうちに、袴田先生がこちらに気付き、目が合った。

「阿原さん」

 先生は、いつもの凪いだ声で、私の名字を呼んだ。

「ご卒業おめでとうございます」

「あっ……、はい、ありがとうございます」

 目線を下げて軽く会釈した先生に、私も軽く頭を下げる。

 その後、沈黙が訪れて、私は何故か必死に言葉を探した。何か言わなければならない気がしたが、何を言えばいいのかを、頭の中から見つけ出すことがなかなかできなかった。

「入学試験の結果発表がもうすぐですね。阿原さんは、おそらく大丈夫なのではないかと思いますが」

「あ……、大丈夫ですかね、私」

「三年生次の成績を見ていた限りでは、大丈夫だと思いますよ」

 先生はやっぱり、なんでもないことのようにそう言った。

 実際それは、先生にとってはなんでもないことなのかもしれなかった。

「先生、あの、私、あの……」

「はい」

「私、好きなことを、しようと……したいと、思います。まだ、自分が何を好きなのかもわかりませんけど……、でも、誰かの目を気にするとか、言われたとおりに動くとか、そういうのじゃなくて。したいことを……しようと、思います」

 思いついたままに喋ったせいで、支離滅裂な文章になってしまった。けれどそれが、一年以上前に先生に貰った言葉に対する、私なりの返答だった。

「先生の、おかげだと、思います」

 今度は深く、頭を下げた。

「ありがとうございました」

 そう、私は、お礼を言わなければならなかったのだ。感謝しているという気持ちを、伝えたかったのだ。

 多くの言葉を交わしたわけでもない、深い関わりがあったわけでもない、でも、だからこそあの時、ほんの十分程度、私の心の拠り所になってくれた先生に。

 それが先生にとって何でもないような、すぐに忘れてしまうかもしれない、もしかしたらもうあまり覚えていない可能性もある、取るに足りない時間だったとしても。

 私は確かに救われた、と思った。

 顔を上げた私を、先生はしばらく無言で見つめた。その感情はやっぱり読めなかったが、先生は小さく息をついて、そして、頷いた。

「どういたしまして」

 そうして私は、中学校を卒業した。

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