第7話 霧氷、繊細にして頑固
母の圧力に屈して、三学期からは保健室登校を始めた。
私は三年生になるまでは登校したくなかったのだが、確かに三年生に上がると同時に毎日きっちり登校できるようになる自信もなかった。せめて受験の直近の一年間はしっかりと通えるように、今のうちに慣らしておくべきだというのが母の考えらしかった。
進級してクラス替えがあれば、いじめの標的からは脱することができるかもしれない、と、私は漠然と考えていた。この学校に在籍する生徒の質は決して高くないと思っていたし、実際にいじめもあるわけだが、同時にそこには他人への無関心のようなものも存在すると思っていた。わざわざ別のクラスまでいじめに向かうほども、誰も、誰にも執着しないような気がするのだ。
みんな、今の自分のストレスを、目の前の誰かにぶつけたいだけなのではないか。それは冷静な分析でもあったし、「クラスが変わってもいじめられ続ける原因がある私」を否定したいが故の思考でもあった。
けれど、個人としての私ではなくとも、「ストレスをぶつけてもいい弱そうな誰か」に私は該当し続けるのではないかとも思った。
そんなことをぐるぐる考えながら、かといって明確な解決策が思い浮かぶわけではなく、私はしぶしぶ保健室に通った。最初は一週間に一回くらいで、徐々に頻度を増やしていこうと保健室の先生は言った。
保健の先生しかいない静かな部屋で、空調の音だけを聞きながら、教科書を読んで問題を解く。たまに生徒がやってくると、私は顔を背けて、じろじろと無遠慮に向けられることのある視線から逃げた。同じクラスの生徒が軽い怪我でやってきたとき、友達なのであろう複数人がひそひそと囁き合い、私を嗤っているのも、聞こえないふりをした。
各教科の先生が、保健室を訪れてくれることもあった。問題の答えを書き込んだノートを覗き込みながら、どこかわからないところはないかと聞いてくれる先生もいた。私は質問したり、しなかったりした。思ったよりも、勉強は遅れていないらしかった。
クラス担任であると同時に理科の先生である袴田先生も、時折保健室を訪れた。
先生は、私の勉強がスムーズに行われていることを理解したのか、勉強についてああだこうだと物申すことはなかった。勉強に限らず、他のことについても、先生は多くを語らなかった。
先生は保健室に来て、保健の先生と二言三言、言葉を交わし、私が座っているテーブル座席の、斜め向かいの席に腰かける。私が開いている教科書を見て、それが理科であってもそうでなくても特に何も言わず、たまに「調子はどうですか」というようなことを聞き、その他はただただ、そこに居るだけという具合であった。
かつては、何を考えているかよくわからなくて怖いという理由で先生のことを忌避していたが、だんだんと、恐怖心のようなものは薄れていった。先生の持つ、独特の、穏やかで冷ややかな、静かで平等な感じのする空気感が、嫌いではないと感じるようになった。
先生は本当に何も言わなかった。
叱咤も、慰めも、共感も、お説教も、誘導も、なにも。先生は私にどんな感情も向けていないように思えたし、無言が持つ圧力すら、先生は持ち合わせていないように感じた。例えるならば、飼育ケースの中の爬虫類のようであった。動いていても、じっとしていても、こちらを見ていても、見ていなくても、そこにはほとんど、熱いエネルギーのようなものを感じなかった。
変な人だと思った。変な教師だとも思った。
だから、少し、話してみたいと思った。
「せ、んせい」
母以外の人に、自分から声をかけるのは久しぶりだった。声が少し、掠れていた。
「はい」
先生は驚きもせずに、私を見て返事をした。
「あの……、私に……、看護師、とかって、向いてると思いますか」
「看護師ですか。そうですね……。看護師には、気が強い人が多いとは聞きます」
「えっ……そうなんですね……」
早速気持ちが萎れてしまった。別に前向きに検討していたわけでもないのだが、母が言うなら、私はそれになるのだろうと思っていた。けれど、やっぱりなれやしないという気持ちが一瞬で心の中に満ちた。
「看護師になりたいのですか」
先生が問う。
「いえ……。でも、母が、そういう……資格、を取っておいた方がいいんじゃないかって」
「なるほど。堅実なお母様ですね」
そう、堅実な母だった。堅実で、現実的で、強固で、強大な母だった。
「資格のある職業は、他にも色々あると思いますよ。阿原さんはどういった仕事に就きたいのですか」
その問いには、答えることができなかった。
ないのだ。就きたい仕事も、なりたいものも。私には、大人になって働いている自分の姿すら、想像できなかった。
沈黙する私をどう思ったのか、それ以上先生は質問を続けなかった。ただ、「なんでもしていいんですよ」と先生は言った。
「したいことでも、したくないことでも。なんでもしていいんですよ。好きにすればいいんです」
「好きに……」
「ええ」
先生は小さく頷いた。
「でも……、例えば、私が……、もし、画家とか、哲学者になりたいとかって言ったら、みんな反対するんじゃないんですか」
「みんなというのは、誰のことでしょう。……いいのではないですか、画家でも、哲学者でも。ただ、阿原さんのことを大切に思って、心配しているような人たちは、それで生計が立てられるのか? という不安な気持ちにはなるかもしれませんね」
「そうですよね……」
「ただ、誰かが不安になるからと言って、阿原さんが考え方や価値観や、好きなものや嫌いなものを変える必要はないと思いますが」
思ってもみなかった返答に、思わず顔を上げてしまった。
真っすぐにこちらを見ている先生と、真っすぐに目が合う。先生の目は、先生の声と同じくらい、熱を含んでいないように見えた。
「え……でも……ちゃんとしてないと、怒られますよね」
「それは別に、怒らせておいていいのではないでしょうか」
まるで当然の事実を語るかのように、何の動揺もなく先生は言った。
威圧と誘導で私に「正しさ」を教える母とは真逆の振る舞いで、けれど、先生の言うことはひどく正しく思えた。いや、正しさ、というよりは。心の中にすとんと落ちる、この違和感のなさは、正しいからというよりは、納得できるからという方が近いように思えた。
なんでもしていいし、それで怒る人は怒らせておけばいいし、怒られたからって価値観自体を変えて、相手に合わせなければならないわけではない。それは改めて考えてみると当然のことのように思えた。
「もちろん、犯罪行為のように、ルールから逸脱している行為はだめですが。……例えば、百人に聞いた時に、一人でも反対意見を言う可能性があるようなことについては、誰か一人に絶対的に従う必要はないと思いますよ」
その言葉は、考え方は、結果的にその後何年も、私の行動の指標となるものだった。
けれど、その時の私はそんなことは全く想像せずに、今まで周りの大人たちからは決して聞くことがなかったその意見に、ただ驚いて、目の前の先生を見つめるばかりだった。
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