第6話 寒独活の身震い

 久方ぶりに学校へ赴いたのは、二学期の終わりを目前とした十二月、教室にて三者面談が行われるタイミングだった。

 なんとか行かずに済まないものかとあれこれ考えたが、いくら考えても私程度の頭では、しんどい時間を上手く回避できるような方法は思いつけなかった。一学期の終わりの三者面談に行けなかったこともあり、今回ばかりはどうにも、わがままで通すことはできなかったのだ。

 学校に行けなくなってかれこれ五か月が経過していたから、母も、そしてあまり話したことのない担任教師もおそらく、そろそろ業を煮やしているであろうことが想像できた。確実に、怒られるのだ。私は、今から、これから、大人たちから。

 鉛のように重い足は、それでも母に促されるといとも簡単に持ち上がった。五か月分の家のにおいを沁み込ませた制服を纏い、スーツを着ることでいつもよりも威圧感が増している母に連れられ、私は校門をくぐった。

 あまり直視したくもない教室の前にある、三つ並べられた椅子のうちの二つに腰かけて、私と母は自分たちの順番が訪れるのを無言で待った。そして、ほどなく引き戸が開いて、今面談が終わったばかりの親子が教室から出てくる。私は決して誰とも目が合わないよう、すぐに下を向いて自身の上靴のつま先を見つめた。

「阿原さん」

 ほとんど抑揚のない、落ち着いた低い声が私たちの名字を呼んだ。

 顔を上げると、何の感情も抱いていないかのように無表情な、凪いだ瞳をした袴田先生と目が合った。思わず目を逸らす。

 母が立ち上がり、慌てて私も立ち上がり、促されるままに教室の中へと足を踏み入れた。

 ほとんどの机と椅子が教室の後ろ側に寄せられている中で、四つの机と椅子だけが、横並びの二席が向かい合わせになるようにセッティングされていた。教室のど真ん中に、離れ小島のようにあるその「お話し合いの場」は、既に判決が下りた後の処刑場のようだった。

「先生、うちの子がご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」

 椅子に腰かけてすぐに、先に切り出したのは母だった。それはおおよそ社交辞令のようなもので、意味のない挨拶だと思ったけれど、親としては重要なセリフなのかもしれなかった。私はそれを、主文後回し、のようだと思った。

「いいえ。お久しぶりですね、阿原さん」

 先生が私の方を見て、相変わらず感情の読めない声で、そう言った。気遣いなのか皮肉なのか判断できないまま、私は小さくはいと言う。

「お元気でしたか」

 先生が続けて問う。私は責められているような気になって、口を噤んだ。

「体調はなんでもないんですよ。熱もないし。病院に行くようなことは何も。毎日毎日、家の手伝いもせずにぼーっとして過ごして。ねえ。勉強は自主的に、それなりにはしてるみたいですけど、独学だとやっぱり、ねえ。間違っていても自分では気付けなかったりするじゃないですか」

「そうですか」

 私の代わりに必要以上の返答をした母に対して、先生は冷静に相槌を打った。居心地の悪い温度差と、なんともいえない緊張感があった。

「それで、先生。進級と、受験のことなんですけど」

「はい」

「留年というのは、中学ではないんですよね? でも、出席日数が少ないと、高校受験では不利になるのでしょうか? 恥ずかしながら、ご存じの通りうちは母子家庭ですので、高校は公立で考えているんですけど」

「本校では、出席日数で留年になるという決まりはありませんので、阿原さんの場合は問題なく三年生に上がることができます。ただ、公立の高校を受験するのであれば、仰る通り、出席日数が合否に影響する可能性はあります」

「やっぱりそうですよね。その場合、何日以上はアウト、みたいな基準はあるのでしょうか?」

「高校によって基準は異なりますが、明確に日数を規定しているところはないかと思います。例えば中学の一年二年は通えていなくても、三年次にしっかりと登校できているのであれば、高校でも問題なく通えるのではないかと判断されるケースも少なくありません」

「なるほど……。ということは、今からでも真面目に通うようになれば、公立高校に合格できる可能性も十分にあるということでしょうか」

「そうですね。その場合は、どちらかというと、重要視されるのは出席日数よりも内申点かもしれません。仮に出席日数が少なくても、授業態度が良く、テストでそれなりの点数を取れるのであれば、受験にもあまり影響しない可能性が高いと言えます」

「なるほど、そうなんですね……。ちょっと柚里香、聞いてるの?」

 机の木目を眺めながらぼんやりと聞いていた私に、母の声が鋭く刺さった。

 聞いていないわけではなかったが、母と先生の話は私にとってはどこか現実味がなく、遠い国の歴史でも語られているかのように、音が耳から流れ込んでくるだけだった。その音が脳まで到達するのは難しかった。

「き、いて、ます……」

 声が震えているのが自分でもわかって、情けなくて泣き出したくなったが、私にはどうすることもできなかった。

「あなたの進路の話なのよ。本当は、あなたが自分で考えて、こうしたいとか、ああしたいとか、私や先生に話さないといけないのよ。わかってる?」

「はい……ごめんなさい……」

「はあ、本当にもう……。すみません、先生」

 母が先生に頭を下げる。それが申し訳なく思っているふりなのか、もしくは、母は母で私という人間が娘であることが、情けなくって泣き出したくなっているのか、私にはわからなかった。

 先生はそんな私と母と静かに対面していた。怒っている素振りも、困っている素振りも、呆れている素振りも見受けられなかった。

「とはいえ、いきなり毎日、無理に登校しろというのは難しいと思うので、始めは保健室登校などでも問題ないかと思います。保健室登校でも、出席日数にはカウントされますので」

 先生は業務連絡のようにそう言った。

「でも、それだと、内申点が悪くなるんですよね?」

「テストの点数がよければ、どうにかすることはできます。我々教師も、テストの答案を見れば、その生徒が勉強を頑張っているのかどうかはある程度わかります。仮に点数が高くなくとも、です。ですので、努力する姿勢が見えるのであれば、極端に内申点を低くつけることはありません」

「それは……先生方が、便宜を図ってくださる、ということでしょうか? 娘が学校に通えなくなったのは、いじめのようなものが原因だと、娘からは聞いているのですが……、その分の埋め合わせ、という?」

 母が、よくわからないことを言った。

 それまで母と淀みなく会話していた先生が、一瞬口を噤んだ。

「その……いじめの主犯格? のような生徒は、今も普通に通っているんですよね? そちらをどうにかすることは学校としてはできないから、うちの娘は保健室登校でも……、ということなのかな、と」

「ああ……。そういうわけではないのですが、結果としては、そういう形になるかもしれませんね。いじめの主犯格……というものには、正直該当する生徒がいないというのが現状です」

「どういうことでしょうか?」

「阿原さんのように、大人しく、あまり反論をしないような生徒は、得てしてそういったもののターゲットになってしまいます。阿原さんが教室にいない今は、二番目に大人しい生徒が、そういった嫌がらせを受けているという報告もあります。スケープゴートとでもいいますか。多くの生徒が、ストレスの捌け口として、気の弱い生徒を攻撃するのです。誰が誰を、という明確な構図ではないのです」

「そういった、危害を加えるような生徒に対して、先生方は強いご指導はされないのでしょうか?」

「もちろん、目撃した場合はしっかりと注意を行います。しかし、そうなると、生徒は大人の目の届かないところでそれを行うようになるだけです。教師が下手に介入すると、告げ口をしただとかで、余計にヒートアップしてしまうこともあります。いじめの証拠、というのも、性質上非常に確保しづらいものですので、正直あまり強くは言えないというのが現状です」

「そうですか……。まあ、無視や陰口なんて、どのクラスでもあることでしょうからね。でも、それだと、被害者側は泣き寝入りするしかないということになりますよね?」

「ですので、保健室で構いませんので登校していただいて、テストさえ良い点数を取っていただければ、高校受験に影響が出るような形には持っていかないようにするということです。こう言っては何ですが、加害生徒は内申点もそれなりに低くはなりますので、阿原さんが相対的に良い内申点になるということはお約束できるかと思います」

 探り合いなのか、それとも既に殴り合いなのか、大人たちの会話は難しく、また同時に恐ろしいとも感じた。私についての話をしているはずなのに、どこか他人事のように感じて、私はただこのひりついた空気と緊張感のようなものを怖いと感じることくらいしかできなかった。そんな自分を幼稚だとも思った。

 母は先生の言葉に納得したのか、していないのか、それ以上の詰問は行わなかった。

 面談時間が終わり、帰り道、母は「結局あの先生、いじめについては一回も謝らなかったね」と言っただけだった。それはそうだと思った。先生は何も悪くない。

 悪いのはいつだって、私だけだった。

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