第2章

第5話 柊がつけた傷

 中学二年生だった頃、私は一時期、学校に通えていなかった。

 不登校になった理由は、ありふれたものだった。単なるいじめだ。それも、そこまでひどいものではなかった。

 聞こえるように悪口を言われたり、無視をされたり、持ち物を壊されたり隠されたり、バケツに入った水をかけられたり。暴力を振るわれたりだとか、呼び出されてお金を奪われたりだとか、そういったことは一度たりともされていなかった。

 だから、そんなふうな軽い嫌がらせで心が折れてしまう、私の弱さが悪かった。多分、いじめなんてどこの学校にでもあるし、誰の目の前でも起こり得る。誰もが経験するような困難を理由に学校に行くことすらできなくなってしまった、私の心の脆さが問題なのだと思っていた。

 いじめられる方にも原因がある、と言った人がいた。

 それは正しいと思った。私には心当たりがあった。私の手足はひょろひょろで、露出している肌には毛が生えっぱなしで、髪はぼさぼさで、制服のシャツも体操着も、いつも少しシワシワだった。近付くと嫌なにおいがしたかもしれないし、小さな声でもごもごと話す私の姿は、接する人みんなを苛立たせただろうと思う。

 だから、本当のことを指摘されて、改善することもできないくせに嫌な気持ちになる、私が愚かだったのだ。

 母に直接、そう言われたことがあるわけではない。母は、好きにしなさいと言った。私が学校に行かないことを責めたり、怒ったりはしなかった。私にはそれが、心底怖かった。母の瞳の奥に見えたのが、失望だったように思えた。その目が、夢に出るほど、恐ろしかった。

 母は私が学校に行かなくなっても、毎日同じ時間に私の朝食を準備し、同じ時間に家を出て、夜帰宅して夕飯を作ってくれた。少し多めに作られるようになった夕飯の、残った分が翌日の私の昼食になった。

 学校からの電話を母が受けているところは見たことがなかった。学校からの連絡なんてなかったのか、それとも私には見えないように行われていたのか、私にはわからなかった。

 誰が届けに来ているのか、自宅の郵便受けには、定期的に学校のプリントが投函されていた。それは授業で使用した参考資料であったり、宿題であったり、学級だよりであったりした。運動会のお知らせが入っていたこともあった。

 私はそれを読んだり、読まなかったりした。勉強が遅れてしまうのが嫌で、家で教科書を読んだり問題を解いたりしていた私にとっては、プリントの内容で授業の進行度を把握することができたのはありがたかった。練習問題の解答用紙を見て、自分でノートに丸付けをする日々が続いた。


 学校に行かなくなってからしばらく経った秋の終わり頃、母が言った。

「あなた、高校はどうするつもりなの」

 自室で教科書を読んでいるときに、ノックなしにドアが開かれたのと同時の声掛けだった。

「あ……、高校?」

 咄嗟のことに、上手く声が出なかった。

 今まさに頭の中をぐるぐると回っていた数学の公式がはじけ飛んで、耳に入ってきた言葉が脳に辿り着くまでに時間がかかった。

「授業内容の自習はしてるんでしょう。受験はできそうなの」

「受験……ああ……、どうだろう……」

「どうだろうじゃないでしょ。自分のことでしょ。ちゃんと将来のこと考えてるの」

「……ごめんなさい」

 母が本当にがっかりというように溜息を吐く。

「あなたみたいなタイプの人は、資格とか取った方がいいんじゃないかってお母さんは思うの。仕事が続かなかったりしても、資格があれば再就職もしやすいし、食いっぱぐれることもないでしょ。お母さんは学生時代、そういうの何も取ってなかったから」

「資格……」

「看護師とかいいんじゃないの。女の子だし。あなた、他人のためにあれこれしたりするの好きなんじゃないの」

 母の中では、私はどうやら世話焼きな性格のようだった。いや、厳密には世話焼きではなく、承認欲求のために他人におもねる子供という方が近いかもしれない。

 実際の私は、別に他人のために動くのが好きというわけではなかった。そうしないと怒られることが多かったから、怒られるのが嫌でそう振る舞っていただけだ。けれど、かといって、自分のために動きたいのかと問われれば、理想も目標もない私にそんな高尚な意志はないのだった。

「看護科があるのは高校を卒業してからだから、高校は普通科でいいみたいだけど。できれば理系に強い、偏差値も高めのところの方が良いんじゃない」

 どうやら既に学校の目星をつけているらしい母は、明確な返答を何もしない私に、一方的にそう捲し立てた。

「わかってると思うけど、私立は無理だからね」

 最後にそう言って、母はドアをばたんと閉めた。相談や話し合いなどではなく、ただ伝えたかっただけのようだった。だからお母さん言ったでしょ、の礎となるものだった。

 私は閉じられたドアを見つめながら、看護師という職業について考えた。

 看護師、って、人の命に関わる仕事じゃないの。まず思い浮かんだのはそれだった。

 私が直接関わったの事ある看護師といえば、病院で採血をしてくれた、はきはきとした女の人くらいであった。その他の看護師についての知識はドラマなどのフィクションで得たものしかなかったが、テレビの中のそれらの人たちは皆、迅速に、正確に、丁寧に、しっかりと、他人のケアをして人の命を支える難しい仕事に取り組んでいるように見えた。

 自分がそんなふうに動けるイメージは、ほんの少しも抱けなかった。

 そもそも自分はきびきびと動くことが苦手だったし、自分の頭で考えたり決断したりすることはもっと苦手で、重い責任を負う覚悟も当然なかった。とてもじゃないが、看護師になんてなれないと思った。

 母が言った、「あなたみたいなタイプの人」という言葉について考える。それは、間違っても、「看護師のような素晴らしい仕事に向いているタイプの」という意味ではないだろう。

 あなたみたいな、就職活動で苦労しそうなタイプの。資格がなければ、他に売りにできるような人格も能力もないようなタイプの。初めに就職した先の職場で、一生働き続けたりできなさそうなタイプの。その場合はきっと転職活動でも苦労しそうなタイプの。

 しかもあなたは女の子なのだから、きっと産休や育休なんかで、働けない期間があるのだろうし。もしかしたらそのまま専業主婦になるのかもしれないけど、その後で離婚する可能性もゼロではないのだし。

 そしたら、やっぱり、資格がある方が安心でしょう?

 実際に母がそう言いたかったのかはわからない。私の被害妄想も、一部あるかもしれない。けれど、母が言った「あなたみたいなタイプの人」という言葉には、それらに近いニュアンスが含まれているのだろうなという確信があった。

 確信が、あったのだ。

 私は、それが母の考えなのか自身の考えなのか、混ざりあってわからなくなるくらいそのことについて考え続けて、その日の夜には微熱と頭痛が生じた。

 母は、具合が悪そうな私を見て、「はあ、またか、この子は」という顔で溜息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る