第4話 鬼踊りて、夏

「先生の親御さんも、厳しかったんですか」

 踏み込んでもいいのではないか、という雰囲気を先生から感じたので、遠慮がちに、けれどはっきりと聞いてみる。

「そうですね。……阿原さんのお母さんとは、少し毛色が違うような気もしますが」

「どんなふうに?」

「うちは、家族みんな、先祖代々学歴がいいんですよ。親も、兄弟も勿論。生業が医業ですからね。でも、僕だけ、天才ではなかった」

 医業と聞いて、教育ママのような母親を想像する。なるほど、それは確かに自身の母とは系統が違う厳しさを持っているように思えた。

 先祖代々天才の家族と、天才ではなかった先生。

 思い浮かべるだけで、胸がしんどくなるような環境だと思った。

「なので、僕の場合は、比較される息苦しさを感じることが多かったですね。主に上の兄弟と。阿原さんは一人っ子でしたよね」

「はい」

「とはいえ、一人っ子だから甘やかされて育った……というわけでもないのでしょうが」

 その通りだった。

 母は、父がいる頃は父の尻を拭うことに忙しかったし、父がいなくなってからは家計を支えることに心血を注いでいた。何でも一人で頑張って、大抵のことはできてしまう人だったから、私も「一人で何でもできること」を求められることが多かった。

 それは、誰かと比較されて劣等を指摘される苦しみではなく、母の中の正解に沿えるようひたすら洞察を繰り返し、上手くできず、行動や意見を否定され続ける苦しみだった。

「人前で自分の子供を悪く言う親に、良い親はいないと思いますよ」

 先生が、グラスの中の生クリームをストローでつついて、それをアイスココアに溶かすようにぐるぐるとかき混ぜながら言った。

「自己肯定感が、いつまで経っても育たない」

「先生も、そうだったんですか」

「そうですよ」

「……それが、なくなったのはいつですか。いつまで、この苦しさは続くんですか」

 膝の上で拳を握りしめて問う。

「今でも続いていますよ」

 その言葉に、一瞬時が止まってしまったのではないかと思うくらいの、絶望を覚えた。

 二十歳ほど歳が離れているであろう先生が、今も、苦しみの中に。ということは、私もあと、少なくとも二十年間は、この苦しみが、続く。

 アイスオレに刺さったストローの、上端についている栗色の水滴を凝視しながら固まった私に、先生は続ける。

「終わらせるには、親から離れるしかありません。家を出るという意味ではありませんよ。関わらない、連絡しない、いないものとして生きていく。そういうことです」

「そんなことが……」

「阿原さんはまだ学生なので、難しいでしょうね。僕はもうじき、それを実行する予定ですよ。いい年をして、未だに親に干渉され続けている今が異常なのです」

 先生は涼しげな顔で、そう言った。

「でも……先生は……状況的に、心配されるのは、普通なのでは」

 いい年をして、仕事を失って、というか自ら捨てて、次の仕事も決まっていない子供を心配するのは当然のことのようにも思えたが、そう思ってしまう自分に対して違和感と嫌悪感も覚えた。

「そうですね。でも、僕は教師を辞めてから、それまで自分で稼いだお金て、一人で生活しているのですよ。家族を頼った覚えはありませんし、助けてほしいと言ったことも一度もありません。自分で決断して、自分で実行できていることを、遠くからあれこれ言われるのにはうんざりです」

 先生は本当にうんざりという顔をした。小さめの溜息も吐いた。

 心配と干渉は違う。当然のことなのに、たまにわからなくなることがある。干渉されるということは、「あなた一人ではできないと思って」と言われているのと同じだと思った。私は学生だし、一人でできないことも当然たくさんある。けれど、先生はもう大人だ。無職でも、自分で考えて、一人で生きていける大人なのだ。

「でも、親と関わらずに生きるって、そんなことできるんですか」

「簡単ですよ。引っ越をして、住所を教えずに、新しい仕事が決まっても教えずに、電話やメールは着信拒否して、SNSはブロックすればいいんです」

 自身がそれをしているところを想像して、あっという間に警察に通報されてしまう未来が見えた。

 もし私がそれを実行できる日が来るとしたら、それは自分でお金を稼げるようになって、一人で生活できるようになって、それから、「あなたにはもう干渉されたくない」と母に面と向かって言えるようになった後だろう。そんな日が来るのはうんと先の遠い未来のように思えたが、二十年先よりは近いようにも感じた。

「それが……実行できたら、すごくいいですね」

「そうですね」

「周りには……親と縁を切るなんて、って言われそうですけど」

「僕には友人もいなければ職場の同僚ももういないので、そういったことを言ってくる人はいませんよ。もし今後言われても、気にしません」

 先生はそう言い切った。

 それは頑なな意地のようにも見えたが、大人としての強さであるようにも見えた。

「友達、いないんですか」

「いませんよ」

 まるでそれが当然であるかのように、先生は頷いた。その堂々たる様に、少し笑みが零れる。

「じゃあ、今、毎日何をして過ごしてるんですか。テレビ見てるとかですか」

「テレビはあまり見ませんね。家でパソコンを触っていることが大半です。たまにこうして、外でぼんやりしていることもありますが」

「パソコンで何を?」

「ネットで、知恵袋なんかに色々投稿したりしてます」

 知恵袋。確か、匿名で色んな人が質問を投げかけて、それに対して匿名で色んな人が回答をする。そういったサービスだったはずだ。

「何か質問をしてるんですか?」

「いえ、回答する方ですよ。ネット上には馬鹿みたいな質問を馬鹿みたいな文章で打ち込んでいる人がたくさんいるので、そういった投稿に、悉く正論をぶつけて怒らせるという遊びです」

「……なんですって?」

 一瞬早口になった先生からは、先ほど感じた強さのようなものは一切合切消え失せていた。

 中学生の頃、先生に感じていた異質さ、独特の空気感、そしてそこから滲み出る理知的な雰囲気は本当に失われたのだなと妙に感心してしまって、それと同時に、そんな人は元からいなかったのかもしれないとも思った。

「あの……クソみたいな遊びですね」

 思わず笑ってしまい、声に笑みを混ぜたままそう言ってしまう。すると先生は、声を上げてはははと笑った。初めて聞く、軽快な笑い声だった。

「そうですね、クソみたいな遊びですよ。……阿原さん、僕と連絡先を交換しませんか」

「急ですね……。別にいいですけど」

「大丈夫、悪い遊びに誘ったりはしませんよ。たまにこうして、一緒に何か飲んだり食べたりしましょう」

 先生は口元に笑みを浮かべたまま、胸ポケットから取り出したスマホをこちら側に傾けた。

「友達になるってことですか」

「ええ、まあ。……この世界に居場所がない者同士、仲良くしましょう」

 悪役のような笑い顔だった。やはり初めて見るその表情に、驚きつつも妙な楽しさと高揚感を覚えて、私もスマホを取り出した。

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