第3話 揺れて傾く銀杯草

 私のカップの足元にだけ、水溜まりができている。

 先生のカップからはあまり湿度を感じないので、既に冷めつつあるホットドリンクが入っているか、もしくはもう飲み干してしまったかのどちらかだと思った。

「どうして、やめたんですか」

 現実逃避のようにしてそれぞれのカップの体温を考えながら、ぼんやりと質問をした。

 先生が私の知っている先生ではない、という違和感の正体に、ふと思い至る。そうだ、目の前のこの人は、数か月前よりもずっと、投げやりな雰囲気を纏っているのだ。

 そうして、おかしな話だが、つられるようにして私の緊張もふっと抜けてしまった。だって、この人はもう私の先生ではないのだし。その上、今は無職。無職だなんて。

「……疲れてしまったので」

 先生は、特に嫌な顔をするでもなく、淡々とそう答えた。

 疲れてしまった理由は、言うまでもないということらしかった。確かに私は、その原因に心当たりがある。でも、果たしてそれは、職を手放すほどのことだろうか、とも思った。

 中学三年生の頃、先生のクラスで、少し大きめの問題が起こった。

 元々お行儀のいい学校ではなかったから、いわゆる問題児と呼ばれるような人も少なくなかったし、授業中の雰囲気も決して良いとは言えなかった。先生のクラスの生徒に限らず、ちょっとした騒ぎを起こす生徒は定期的に現れたし、いじめを行うような人たちもいた。いじめの標的は、生徒であることもあったし、気の弱そうな教師であることもあった。

 かくいう私も、そのターゲットにされ、一時期学校に通うのを諦めていた被害者の一人である。

 でも、先生は、無視されたり、バケツ水をかけられたり、そういった目に遭ってはいないはずだった。確かに嫌な生徒はいたが、少し我慢すればみんないなくなることが確約されている生活だったはずだ。

 それなのに。

 私の沈黙をどう捉えたのか、先生はスマホを見つめながら小さく溜息を吐いた。

「当分働く気はありませんよ」

「……生活、とか、どうするんですか」

「貯金があります」

 教師の給料がどれくらいで、先生の生活にかかるお金がどれくらいなのか、全く見当がつかなかった。けれど、先生は確か未婚のはずだったから、一人でしばらく生活することができるくらいの貯金はあるのかもしれなかった。

 でも、だとしても、健康な成人男性が働くのをやめる、というのは、やはりとても悪いことのように思えた。

「……何か言いたげな顔ですね」

 考えが表情に出ていたのか、先生がそう言う。顔を上げた先生の眼鏡の奥の瞳は、薄っすら笑っているようにも見えた。

「いえ……。ニートなんだな、と思って」

「ええ、ニートですよ」

 今度ははっきりと、先生は笑った。満面の笑みでもなく、かといってシニカルな笑い顔というわけでもなく、ただ、静かな微笑みだった。

「もう働かないんですか」

「しばらくはお休み、ということです」

「じゃあ、どのくらいしたら働き始めるんですか」

「……君は僕の親のようですね」

 次は苦笑だった。先生の笑顔にバリエーションがあることを初めて知ったし、失礼な考えだろうけれど、なんだかそれをとても意外に思った。

 かつて先生は、変温動物のように、硬質で異質な雰囲気を纏っていたように思う。けれど、今目の前にいる人は、まるで人間のようだった。それも、私と同じ、駄目な部類の。

「すみません」

「別に構いませんが。……貯金が尽きる前には、職を探しますよ」

「教師ですか」

「教師はもういいです」

「じゃあ、何に?」

「さあ……」

 先生はぼんやりした回答をして、カップを煽った。ほぼ真上を向いて飲んでいることから、飲み物はもうほとんど残っていないようだった。

「中身が入っていませんでした」

 ほとんどどころか、全く残っていなかったようだ。

「何飲んでたんですか」

「ホットココアです」

「ホットココア」

 この暑いのに。ホットで。ココアを。

 勝手にコーヒーだろうと思い込んでいたが、全然違った。甘いものが好きなのだろうか。

「もう一軒行きますか?」

 先生が不思議な問いかけをした。私に話しかけているのは間違いなかったが、本当に私に言っているのか不安になる言い方だった。

 そんなふうに、元生徒を誘う人だっただろうか?

 職を失ってやけになっているのだろうか、それとも元々そういう人だったのだろうか。私には全く判別がつかなかったが、まだ日は高いし、特に断る理由もないように思った。

「飲み物くらいなら奢りますよ」

「ニートなのに」

「大人なので」

 大人がニートなのが問題だろう、と思ったが、問答をしても仕方がないので、残っていたアイスティーをずずっと啜って飲み干す。鞄からポケットティッシュを取り出して、濡れたテーブルを拭いてから、カップを持って立ち上がった。

「どこに行くんですか」

「どこでも」

「あまり……人の目の多くないところがいいです」

「そうですね」

 先生は頷いて、歩き出す。私は黙って、後に続いた。


 ファストフード店から十五分ほど歩いて、辿り着いたのは古びた小さな喫茶店だった。

 大通りから少し離れた、奥まった路地に面したそのお店は、入り口横のガラスのショーケースに、オムライスやハンバーグ、プリンパフェやメロンソーダなどの食品サンプルがシンプルに並べられていて、昔ながらの、という言葉がぴったりのように思えた。

「行きつけですか?」

 そう問うと、ええまあ、というような曖昧な返答が返ってきた。

 中に入ると、客はまばらで、というかほとんどおらず、ごく小さな音量で音楽放送が流れている以外は無音といって差し支えないほど静かだった。しかし何故か、居心地の悪い静けさではない。この場所だけが、世界から少しだけ切り離されているような様相だった。

 それはかつて、先生が教師だった頃に纏っていた雰囲気と、どこか似通っていた。

「何を飲みますか」

 座席について、先生がメニュー表を差し出してくれる。白紙に横書きの文字が縦に並べられた、シンプルなメニュー表だった。

 先ほどはアイスティーを飲んだので今度はカフェオレでも飲もうかな、と考える。少し歩いてまた暑くなったので、今度もアイスがいい。

 そう先生に伝えると、先生はアイスオレとアイスココアを注文した。

「ココア、好きなんですか」

 聞かずにはいられなかったので、質問する。

「甘いものが好きなんですよ」

「へえ……」

「ここのココアは、上にクリームが乗ってるので、甘くて美味しいのです」

 先生はちょっとだけ嬉しそうにそう言った。なんだか少し、可笑しかった。

 私がにやついていると、先生はおしぼりで手を拭きながら、小首をかしげた。

「阿原さんのおうちの門限は何時でしょう」

「ああ……、普段は十八時です。でも、今日は休日だし、図書館に行ってくると言って家を出たので、あと一時間もしたら戻らないといけないです」

「なるほど」

 不機嫌な母の顔が脳裏によぎり、上がりかけていたテンションがすぐに降下した。

「確か厳しかったですよね。阿原さんのお母さん」

「ええ、まあ、はい」

 先生は、中学二年生の頃の、私のクラスの担任教師だった。そのとき、三者面談で母と対面したことがある。

 それはほんの三十分程度の出来事だったが、先生にとってはそれなりに印象に残る時間だったようだ。まあ、母子家庭で一人っ子、というだけでもそれなりに記憶には残るものなのかもしれない。

「高校は楽しいですか?」

 先生が唐突に話題を変える。

「楽しくは……、まあ、普通、ですかね。中学の頃よりは随分通いやすいと思います」

「そうですか。それはよかった」

「……なんでですか」

「いえ、自宅にも学校にも居場所がないのは、息苦しいだろうなと思いまして」

 何でもないことのように先生がそう言って、私は思わず怯んでしまった。

 自宅に居場所がない、というのは私が幼少期からなんとなく感じていたことではあるが、他人にはっきりと言葉にされたのは初めてだった。

「そう……ですね」

「僕も学生時代は似たようなものだったので、わかりますよ」

「先生も?」

 驚いて少し大きな声を出してしまったと同時に、店主さんが飲み物を運んできてくれて、己のタイミングの悪さを恨んだ。

 先生は事も無げに、いつもの凪いだ表情で頷く。

「ええ、まあ」

 運ばれてきたアイスココアは、確かに上に生クリームが乗せられていて、とても美味しそうに見えた。先生が早速、ストローに口を付けてココアを飲む。僅かに、その頬が綻ぶ。

 私も自身のアイスオレを飲み、想像したよりも甘ったるい味に、同じように頬が緩んだ。

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