第2話 羽抜鳥の声なき断末魔

 休日、ずっと家にいるのも気が引けるが、遊びに誘う友達もいない。

 気になっている参考書があるから図書館に行ってみると偽って家を出る。参考書なら買ってあげようかと母が言ったが、ここでお願いしても後になって「あのときあなたのものを買ったせいで」と詰られることがわかっていたので、丁重に断る。そもそも、気になっている参考書などないわけだが。

 とっくに冷房がないと生活しづらい気候にはなっていたが、家では満足な電力が得られないというのも、家にいたくない理由の一つであった。

 リビングと自室の二部屋で冷房を稼働することは認められていなかったし、そうなると、設定温度の高いリビングで、母の隣で、テレビを観ることくらいしかすることがないのだ。

 別にテレビが嫌いなわけではなかったし、ぼうっとするのも得意だった。

 でも、テレビを観ながら延々と芸能人の悪口を言う母に同調しながら一日を過ごすのは、苦手だった。

 とりあえず一旦は、宣言通りに図書館に向かう。

 徒歩でニ十分、決して遠くはないが、汗ばむには十分な距離だった。気温以外で季節の変化を感じて楽しんだりする余裕もなく、俯き気味に少し速足で歩く。辿り着いた図書館の冷房が、心地よかった。

 休日の昼下がり、人はそこまで多くない。

 真面目そうな人、涼みに来ているだけのような人、何をしに来ているのか全く想像できない人。横目で少しだけ人間観察をしながら、目的とする本もなく、館内をゆっくりうろつく。

 図鑑の棚に来た時に、「世界の廃墟図鑑」という背表紙が目に留まった。

 手に取って、開いてみる。コンクリートが崩壊しつつある建物、草に埋もれて壁に蔦が蔓延っている建物。どの写真にも、人の気配はない。写真の右下に小さく国名が記載されていたが、その国が地球のどのあたりにあるのかはよくわからなかった。一部、白黒の写真も混ざっている中で、その空気感から気候を想像する。

 廃墟が特別好きなわけではなかった。なんだか、廃墟が好きだと主張するのは、なんとなく恥ずかしいことのように思えた。私はただ、人がいないのに、人の痕跡があるという雰囲気を少し面白いと思っただけだった。

 本を閉じて、元の場所に戻す。

 数歩移動すると、次は「名前の知らない落ち葉図鑑」という本が目についた。

 開いてみると、落ち葉の写真と、その木の名前と、特徴がずらりと並べられていた。

 そういえば、雑草というのは、自分に知識がないせいで正確な名前を述べることができない草花の総称のことだと、聞いたことがある。落ち葉も同じかもしれない。その木についての知識があれば、それをただの「落ちている葉」ではなく、樹木の一部だと認識できるのかもしれないな、と思った。

 とはいえ、別に暗記する気は起こらない。植物学者になりたいわけではなかった。緑の葉、赤い葉、黄色い葉、茶色の葉。細長い形、丸い形、とげとげの形、変な形。私はそれらを、ちょっと面白いと思えれば、それで十分だった。

 本を元の場所に戻そうと思ったが、どの隙間にあったのかわからなくなってしまった。丁寧に本を取らなかったからか、そこには既に本一冊分にぴったりの隙間はないように思えて、各隙間を観察するも、この本の元の棲み処を見つけることはできなかった。

 適当な場所に戻そうかな、棚に間違いはないはずだし、多少ズレていても問題はないだろう、と思い適当な隙間に指を突っ込む。本を差し込もうとしたところで、「ああ、背表紙のシールの番号順に並べられているのか」ということに思い至った。けれど、結局細かい位置まではよくわからなかったので、そのまま適当な位置に本を戻す。

 少し足が疲れたので、図書館を出て適当なファストフード店にでも行こうと思った。安いチェーン店なら、二百円もあれば飲み物は注文できる。

 座って何か冷たいものでも飲もう、と再びニ十分ほど歩いた先のお店で、同じ高校の生徒がいないかどうかを、まず入念にチェックする。同年代の人はいたが、顔見知りはいないようだったので、安心して注文カウンターでアイスティーのMを注文した。注文してから、店内の座席がほとんど埋まっていることに気が付いた。

 テイクアウトにして、適当な公園や道端のベンチに座って飲んでも良かったが、同級生に見られたら気まずいし、母の知り合いの目にでも留まったら大変なことになる。できれば店内の、奥まった、外からは見えない座席に座りたかった。

 空いている席はないか、一人分のスペースでいいから、と恐る恐る座席を見て回る。店内の奥の方、お手洗いからも食器の返却台からも遠い位置、そこで、見知った顔を見つけた。

 一瞬、ぎょっとした。けれど、二人掛けのテーブル座席に一人で腰掛けるその人を見て、そのテーブルの上を見て、誰かと来ているわけじゃなくておひとり様の可能性が高いな、と冷静に分析している自分もいた。

 その男は顔を上げることなく、飲み物に口をつけることもなく、右手のスマホを無表情で見つめていた。

 ほんの数か月前までは、週に一度は必ず見ていた顔だった。あまり表情が変わることはなく、眼鏡の奥の瞳はいつも凪いでいて、人生で楽しいことは何もないと言わんばかりの、その顔。

 咄嗟に引き返そうと思ったのも事実だが、ほんの数秒悩んだ後、結局私は声をかけた。

「……袴田先生」

 呼ばれた男は意外にも肩を震わせて、驚いたように顔を上げた。動揺しているような仕草を見るのは初めてだった。

「阿原さん……?」

 先生が私の名を呼ぶ。懐かしい低音。

「はい。お久しぶりです。……四か月ぶり、くらいですけど」

「ああ……」

 吐息のような声だった。最後に先生を見たのは中学の卒業式だったと思う。そのときと変わりない風貌で、けれど、ほんの少しだけ纏う雰囲気が異なっているように思えた。

「……向かい、座ってもいいですか。静かにしてるので」

「ああ……、どうぞ」

 先生は、テーブルの上の飲み物を、自分の方へと少し寄せた。カップ一つしか載っていないテーブルには十分なスペースがあって、わざわざそれを動かすまでもないように思えたが、律儀な先生らしい動きだった。

「ありがとうございます」

 椅子に腰かけて、アイスティーをテーブルの上へ置く。カップ二つだけが寂しく置いてある、味気のないテーブルだった。

 静かにしていると言った手前、話しかけるのも憚られて、情報の少ないテーブルを眺めながらストローに口を付けた。冷たくて美味しい。

「高校はどうですか」

 先生はスマホを胸ポケットに入れて、そう切り出した。

 聞かれると思っていたのか、いなかったのか、自分でもわからないが心臓が跳ねた。

「……通っています、よ。一応、毎日」

 紺色のポロシャツ、の胸ポケットから微妙にはみ出ている黒のスマホを見つめながら、そう答える。別に嘘はついていないし、やましいことは何もない。それでも、少しだけ、汗が滲むのが分かった。暑さのせいではない汗だった。

「そうですか」

 そんな私の心境を知ってか知らずか、先生の返答はあっさりしたものだった。

 それ以上私が何も言わなさそうなのを悟ったのか、しばらくの沈黙ののち、先生はまたスマホを取り出して触り始めた。休日だから雰囲気が異なっているのかと思ったが、やはりまた、違和感を覚える。

 どう表現したらいいのかわからないが、なんというか、私の知っている先生はもっと、しゃんとしているイメージだった。

「……先生はまた、一年生の担任になったんですか」

 違和感の原因に辿り着けないまま、ほとんど思いつきで質問を投げかけた。袴田先生は、私が中学三年生の頃に、隣のクラスの担任をしていた先生だった。

 毎年クラス替えはあれど、担任の先生の顔ぶれが変わることはほとんどなく、その学年の生徒と担任の先生がセットになって進級していくような制度の学校だったから、三年生の担当が終わると、次はまた一年生の担当に戻るのだと思ったのだ。 

 先生はスマホから視線を外し、黙ったままこちらを見た。

 その意味ありげな沈黙に、居心地が悪くなる。変なことを聞いただろうか。おかしなことを口走ってしまったのだろうか。目を合わせたまま、頭の中でぐるぐると不安が渦巻く。先に目を逸らしたのは先生の方だった。

 私は何も言えず、けれど霧散しない不安を気取られるのが嫌で、なんでもないようにアイスティーを手に取った。私よりもずっと汗をかいているアイスティーは、やはり冷たくて美味しかった。

「やめたんですよね、学校」

 ふいに、先生がそう言った。

 すぐには意味が分からず、ストローに口を付けたまま、私は固まった。再び、先生と目が合う。

 先生は言葉を続けることなく、短く息を吐いて、またスマホに視線を戻した。

「やめた……?」

 学校をやめた、と聞くと、真っ先に退学が思い浮かぶが、先生は先生だ。やめたということは、つまり、つまりは。

「学校を……、異動した? 転職した? みたいなことですか」

 その表現が合っているかどうかはわからないし、聞いていいのかどうかもわからなかったが、ごく自然に、質問は口から滑り出ていた。

「いえ、辞職しました。……今は無職です」

 無職。

 その言葉の響きに、眩暈がした。

 頭のどこかで、あんなことがあったのだから仕方がないかもしれない、と思う一方で、いい年をした大人が口から発する「無職」という言葉の重さに、そして罪深さに、私はくらりとしてしまった。

 先生は確か三十代だったはずだ。三十代無職男性。ニート。極潰し。社会不適合者。

 頭の中で、何故かその言葉たちは、母の声で再生された。

「だから、暇なんですよね」

 追い打ちのような先生の言葉で、私は、かつての先生はもういないのだという現実を、否が応でも認めざるを得ないのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る