第16話
運転席に座った彼女がこちらを見て言った。
「自殺行為みたいなこと、私の目の前でしたら許さないから」
そんなことをする体力はもう残っていなかった。
助手席に座る私は信号が変わったのを目にして、彼女に同意を示した。
「青だよ」
彼女は前に向き直り、勢いよくアクセルを踏んだ。
眠気が増して重たくなった私の目とは反対に、眉間に皺を寄せて目を見開く彼女はたくましかった。
暗闇のなかにひとつの車が消えてゆく。
内陸の地域に住む私たちにとって、海に触れ合える機会はあまり多くない。
約二時間が経過したあたりで友人は車を停めた。
「あれ、眠らなかったの?」
伸びをして首を回す彼女が私に言った。
「なんか、寝ちゃいけない気がして」
目を擦りながら答えると、彼女が笑った。
「ありがと」
そう言い残すと友人は先に外へ出た。私も続くと、強くなった風が襲った。
かなり寒いだろうなと予想していたが、それをさらに裏切るように空気は冷えていた。
ここの辺りは集中した住宅がなく、市場や大規模なマーケットにも距離があった。
近くに人工物がないからか、空気や空が鮮明に澄んでいた。
街の光に負けていた星が藍色の空に映し出されている。
「あっち、行こうか」
彼女の声がした方向に顔を向けると、その先には今すぐにでも襲ってきそうな黒い波が押し寄せていた。
空の暗さと黒い海に水平線がぼやけて、果てのない暗闇が広がっている。
私は恐怖を覚えた。
サツキはなんで夜の海に行ったのだろうか。
そう思いながら前に進む友人の足跡をなぞった。
足を飲み込む砂浜に疲れが溜まるが、それでも歩を進めていくと、聞こえなかった波の音が私の耳に伝わってきた。 穏やかで粛々と奏でる波の音に心地良さを感じてしまう。
どこまでも広がる果てしないこの黒い海は、暗闇のなかに独りで眠る私に似ている気がした。
そして、それは私よりも何倍にサツキに近しいものだった。
「なんで来たかったの?」
友人の後ろ姿が私に尋ねた。
「サツキが、苦しいときは黒い海に落ちていくような気がしてたって。それは幼少期にサツキが見た夜の海に似てるんだって言ってた」
「へえ」
海を見れずに空を見上げていると、視界の端には小さな月がぼやけた水平線の上に低く位置していた。
私をはるかに高いところで見下ろす満ちた月が沈みそうになっていることに驚きを隠せなかった。
「あんなに月が弱々しく見えることあるんだ」
私の独り言に友人は優しく返した。
「月だって隠れる日もあるし欠ける日もあるからね」
「...どういうこと?」
「どん底は必然ってことだ」
そう言った彼女はこちらを振り返り、ポケットに入れていた手を出して、空を指差した。
「月も太陽も必ず沈むように、人間に厄年が何回かあるように、それは免れない」
「...サツキの苦しみも決められていたってこと?」
「...それはどうか知らない」
友人はかぶりを振った。それを無視して私は続けた。
「...でも、月が輝くときも太陽が照らすときもあるから、苦しみも終わるのを待てばいいってこと?」
それを聞いた彼女は放り捨てるように言い返す。
「分かんない」
「は?」
友人は手をポケットに戻して続けた。
「そういう確証はないし。でも、この世に永遠なものは一つもないよ」
澄んだ瞳で静かに私を見つめる彼女の視線から目が離せなかった。
「...そうかもしれない。でもサツキは、学校に行けるようになったと思ったらまた行けなくなった。現れた希望がサツキをさらに絶望に落とした」
友人の目に反射した私のシルエットは荒い輪郭をつくっていた。
睫毛を伏せて、彼女が溜息をついた。
「...辛いなあ。サツキちゃんは期待しすぎたのかもしれないね」
彼女の同情した顔に嘘はなかった。澄んだ空を見張って言葉を紡いでいく。
「この世界には至らなくて不明瞭なことがたくさんある。不平不満は幾らでもでてくるだろうし、世界規模の苦しみがいっぱいある。"それ"に気づいたのに変わらなかった。あまりにも綺麗すぎた」
友人はそう言い残して海へ近づいていった。
遠遠しいその先を見据えると、水平線から新たな光が芽生えた。それは海に一筋の光の道をつくっていた。
友人がその光に手をかざせて、呟いた。
「朝の静寂な海でもなく、昼の眩しすぎる海でもなく、夜の暗い海しか見なかった」
藍色の暗かった空が消えて色を変えていく。
もう夜明けだ。
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