君の音
沙月雨
ピアノと二つの嘘
『可哀想』という言葉が、ずっと嫌いだった。
昔から、みんな僕に同情した。
それが、僕が小学校の時に患った病気のせいだとは幼心にわかっていて。
それでもやっぱり嫌いになったのは――――その『可哀想』だという言葉に、自分は『そう』ならないという慢心、そして僕を無意識のうちに下に見ていることが分かってしまうから。
みんな、口を揃えて同じことを言った。
まだ幼いのに『可哀想』
いつ死んでしまうかわからなくて『可哀想』
何故そんなことを言うのか分からなかった。
いつ死んでしまうかわからないなんて、みんな同じなのに。
馬鹿みたいだ、と。
――――そう思って生きてきて十六年目の夏、僕の幼馴染は呆気なく死んだ。
交通事故だった。
予測しようがない、『いつ死んでしまうかわからない』、どうしようもない死だった。
◇◇◇◇◇
ピアノが好きだった。
弾くことも聞くことも全てが好きで、美しい旋律を奏でるその楽器を、何よりも愛していた。
幼稚園の年長、まだおもちゃのそれに触れて感動したことは、今でも覚えている。
それから、僕が何でもすぐに飽きていたため渋っていた母を説得し、ピアノ教室に通わせてもらって。
そんな僕が数年してピアノコンクールで大きな賞を獲った時、母は人目も憚らず大号泣していた。
けれど————それが崩れたのは、本当に唐突だった。
どこにでもいる家に生まれて、小学校に行って、幼馴染とも時々会って。
このまま当たり前の様に中学校にも行くのだろうな、と漠然と考えていた小6の冬―—――僕は、小児慢性特定疾病の一つを患った。
まあ、簡単に言うと国からの指定難病の子供版である。
病気になったのは辛かった。
そしてその上周りの人達さえも変わった時は、結構堪えた。
『ほら、あの子。余命が短いって言う…………可哀想に』
『ママが優しくしてあげてって言ってた子だ! 可哀想だからって!』
語尾に必ずつく、『可哀想』と言う単語。
これまで当たり前だと思っていたことが出来なくなる————それも辛いけど、これまで当たり前だと思っていたことが『やらせてもらえなくなる』方が、何倍も辛かった。
毎日当たり前のように触っていたピアノが、触れなくなった。
仲が良かった友達や先生が、腫れ物のように僕を扱った。
いつだって当たり前だったものが、なくなるはずがないと思っていたものが、唐突に壊れていく。
大切に積み上げて来たものが—————例えるなら、子供が一生懸命作った積み木が、ふとした拍子に全て崩れて無くなるあの感覚。
それがどうしようもなく嫌だったけれど、僕にはどうすることもできなかった。
――――僕が入院したその日、沢山の人達が僕を訪れた。
それは親戚の人たちだったり、母や父の友達だったり。
そんな中、訪れた人たちの一人————その中に、僕の幼馴染がいた。
「
神の申し子。
その名の通り口から発する歌声は神の声を象徴すると言われ、歌のソリストとして様々なコンクールを総なめにしてきた、僕の幼馴染。
彼女とは偶々それぞれのコンクールが同じ会場で行われたため出会い、今では唯一無二の親友でもあった。
駆けつけて来たのか息を切らした彼女はベッドの上にいる僕を見つけて一瞬不安そうな顔をする。
けれど僕が元気そうな様子を見て、見るからに胸をなでおろした。
「よかったー、元気そうだね! ねえ、
「まだ幼いのに、可哀想よねえ。治る見込みがない病気なんて」
治る見込みがない。
その言葉に、僕はチッと舌打ちをしそうになるのをなんとか堪える。
僕だけの時はいい。そんなの、自分だって知っているから。
けど、今は—————
「治る見込みがないって、嘘だよね?」
震える声でそう言った彼女は、『嘘だと言ってくれ』と言う様に少し笑っていた。
今ならまだ、冗談で済ませられると。
「……………ごめんね」
それに、僕は曖昧に微笑んだ。
その場凌ぎの嘘などすぐにバレてしまうと、分かっていたから。
そして
『大丈夫。安心して、絶対に治るから………』
『余命は不明で…………』
『大したことのない、風邪みたいなもんだ…………』
『小児慢性指定難病の一つです。書類審査をすれば補助が受けられるかも…………』
—————今も尚聞こえてくる、『可哀想』という単語に拳を握りしめる。
聞き慣れている、はずなのに。
シミ一つない病院の布団を見つめながら拳を握り締めたとき、ふと目の前から「みんな、」と声が聞こえた。
「みんな大して変わんないくせに。大人たちって、バッカみたい」
そう吐き捨てるように言った彼女は、少し涙目に見えて。
そして次の瞬間、布団の上で握りしめられていた手をグッと引かれる。
「まだ立てるよね!?」
「た、てるけど。は、」
「来て!」
まだ症状は軽いため問題ないけれど―—――そこまで考えたところで、そうじゃないと首を振る。
けれど、気づけば病室からは少し離れたところに連れてこられたのがわかって、僕は小さく首を傾げた。
「…………ピアノ?」
「来る途中で見つけたの」
こんな所あったけ、と息を整えながら周りを見渡すと、彼女は開きっぱなしだったドアを乱雑に閉める。
そしてそれを呆然として眺める僕の手を引いたまま、目の前のピアノまで僕を連れて座らせた。
「律、合わせて」
「は?」
「
「はぁ!?」
僕の体の向きを無理やりピアノの正面へと向けさせて、彼女は狭くなった椅子に無理やり座る。
「―—――ねえ、律」
「何」
ぽろん、と忠実に押された音色を出すピアノを見つめながら、僕は横を見ずに言葉を返す。
彼女が時々聡いところがあるのは、幼馴染なんだからとっくに知っていた。
「もし貴方のことを誰かが『可哀想』と言うのなら、私はそれを聞こえないように歌うから」
ああ、彼女は知ってしまったのだと、わかってしまう。
ぐっと唇を噛み締めている彼女の顔を見て視界が歪んだけれど、絶対に見せないように下を向く。
早く歌えよ、と催促した自分の言葉が早口になってしまったのは、きっと彼女も気づいていただろう。
――――それで、それでね、と声が聞こえた。
「それでいつか、
息を吸った音が、聞こえた。
次の瞬間————何を歌うのだろう、と身構えた自分を裏切るように、彼女は一度も聞いたことのない歌を口ずさむ。
「…………なんで」
その優しすぎる声音に、何故かどうしようもなく泣きたくなった。
そして――――弾いたこともなければ聞いたこともないその曲を弾きたいと、強く思った。
多分、彼女自身は作詞も作曲も初めてなのだろう、途中で音が外れたりして、お世辞にも上手いとは言えなかったけれど。
上手でしょ? と笑顔で彼女に聞かれたら、「上手だよ」と口が勝手に動いていた。
それは、僕が彼女のために吐いた一つの嘘だけれど。
けれど――――彼女の声に合わせて弾くピアノが、楽しくて楽しくてたまらないのは本当で。
「まだ、彼女の隣でピアノを弾いていたい」————何よりも大好きな楽器の鍵盤へ指を滑らせながら、そう思う。
まだ彼女の歌を聴きたい、隣でその声に合わせて弾いていたい————自分のいつ尽きるかわからない
「律」
「ん?」
――――ただ、隣にいたいと。
願ったのは、ほんの少しの幸せだったのに。
「律が引いてるピアノが、私大好きでね」
神様は、本当に残酷だ。
◇◇◇◇◇
「まだ若かったのにねえ、可哀想」
「十六歳ですって。本当に可哀想よ」
また、
そう思いながら僕は僅かに唇を噛み締め、彼女の遺体が置かれたままの、まだ騒がしいその場所を後にする。
けほっ、と小さく咽せた後にあまり自由に動かないその体をなんとか動かしながら、————一台の、ピアノの元へと速足で向かった。
誰もいない静かな部屋に佇む大きなピアノは、少しアンバランスな気がする。
昔はよく二人で忍び込んだものだけれど、最近ではずいぶんご無沙汰していた。
ふわり、と蓋をあげると、少しだけ積もっていたらしい埃が舞う。
持ち上げたばかりの蓋を指で撫でると、確かに薄い埃が付着した。
けれど————中の鍵盤は時が止まっていたかの様に、あの頃のまま。
目を閉じれば、彼女は隣にいる。
自分でも少し足がギリギリ届く位のイスに座って、そしたら逆にギリギリ足が届かない彼女が無理矢理隣に座って来て。
ふっ、と笑みが溢れる。
「
僕がそう言えば、彼女はいつだって聞いてくれる。
喧嘩をしてどんなに怒っていた時も、————例え返事をしなくても、絶対に。
三年間、ずっと一緒に歌い続けた曲。
いつしか外れていた音は安定して、本当に「上手」になっていたけれど。
『律が本当に綺麗だと思う音を、いつか聞かせてね』
「これが、僕が世界で一番綺麗だと思う音だから」
そう小さく呟き、僕は鍵盤に手を置く。
「可哀想」だと言う声が彼女へ聞こえないように、今度は僕が
世界一美しい音で、溢れるほどに。
いつの日か、彼女が僕に歌った曲。
彼女に何度も何度もせがまれて引いた曲は、前に弾いてからしばらく経ったとしても指に染みついたままだった。
ただ美しい音を、響かせ――――口を開く。
「…………ごめん。さっき、君に二つ目の嘘をついたんだ」
人差し指をそっと置き、最後の一音を奏でる。
ピン———、となった音は、誰もいないその部屋へ、静かに余韻を響かせた。
(…………僕が綺麗だと思うのは、この『曲』じゃなくて)
『律が引いてるピアノが、私大好きでね』
———―それで、それに合わせて私が歌うのが、もっと好き!
耳の奥で、そう言って彼女が笑う声が聞こえる。
頬を伝っていく何かは、夏の夕暮れの風に当たり、どこか温かいような気がした。
「—————僕は、君が歌っているその声が、どんな声でも。それが世界で一番綺麗な音だと思うんだ」
君の音 沙月雨 @icechocolate
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